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2011年12月28日 20:56
この社説は、明らかな、「釣り」です。 意図は、「先送りせずに俺たちが自分の尻ぬぐいをしよう」ということでしょう。 読者を不愉快にさせるのも、わざとでしょう。 社説っぽくないですけれどね。風刺漫画みたいです。
2011年12月27日 22:56
その通りで、読者は、著作物を読むことに価値を見いだしているのであって、本という有体物自体に価値があるわけではありません。 著作物を化体させる媒体・メディアがたまたま、本という紙の束であっただけです。 あるいは音楽ならば、レコード盤という板や、カセットテープという磁気テープや、CDという金属とプラスチックの板だっただけです。 出版会社の事業というのはその実は、流通、メディアの事業なのだと思います。 だから、メディアがかわり、流通がかわれば、彼らの商売に支障がでるわけです。 代替のメディアや流通が出れば、少なくない著作者が、そして読者も、乗り換えていくでしょう。 その流れは止められません。 著作物という知的財産に価値を見いだして、それにカネを払うという意識が、社会的に高くなれば、 読者は主体的に積極的にカネを払うようになり、著作が仕事として成り立つでしょう。 しかしいまの日本では、この意識が必ずしも根付いておらず、有体物を買うという感覚に囚われているひとが少なくありません。 それに対して、わざわざコストや手間をかけてまで、著作物をデジタル化しようとするひとたちは実は、著作物という知的財産に対して価値を強く見いだすことのできているひとたちです。 彼らは、これからの時代における作品の潜在的な支持者であるのに、「自炊」を叩くというのは、敵を見誤ったものだと言わざるをえません。
2011年12月27日 22:42
まさに、私を含め多くのひとが感じているのと同じですね。 実に、音楽業界で起きていたことと同じものを見ている、既視感があります。 「情弱」なんて言うとけなしているニュアンスがあるので、それはさすがにいかがなものかとも思いますが、 表現するのは得意でも、情報科学技術には疎いというひとは、そりゃあいてもおかしくはないでしょう。 書くことにかけては随一だったら、それでこそ作家ですから。 音楽業界にしても、出版業界にしても、 ミュージシャンや作家といった制作者の立場というのが思いのほか弱かったりします。 もちろん、作品の受け手のほうも、カネと人数は多くても、ひとりあたりの力は大変弱いです。 作品の流通を担っている、音楽業界であればレコード会社や音楽出版社や管理団体、出版業界であれば出版社などのほうがむしろ、「裸の王様」のようなものではないかと、 私は思います。 その実は制作者や受け手にいわばパラサイトしているにすぎないにもかかわらず、彼らは旧来の流通形態にしがみついて、時代の流れに逆らおうとしています。 そして、旧来の流通形態にそぐわない人たちをあまりにも大きな網で捕まえて、悪呼ばわりしているような印象があります。 本当に重要なのは、制作者と受け手が喜び、社会的な有益性が高まることです。 それにもかかわらず一部の企業・業界人は、自分たちの収入がかかっているものだから、旧来の流通形態を守ることに必死で、手段を目的化しているようにみえます。 ちなみにおそらく、CDが売れないとか本が売れないとかいうことの背景には根本的に、日本人の価値観・生き方の偏向や、経済の冷え込みといったマクロ要因があるように思います。 それにもかかわらず、いわゆるデジタル技術の進歩を仮想敵に仕立てあげてしまっているのでしょう。
2011年12月27日 22:09
私は、「欲しかったものが、たまたま見たらこんなに安くなっているではないか!」という理由で買うので、こういう、必要なかったのに買ったという失敗はないのですが。 おそらく、自己洞察、自己分析、価値判断が正常に行われていないのだと思います。 とにかく目の前に、安そうなものが見えたら、何も考えずに飛びついてしまうという、そういう本能のようなものがあるのでしょう。 食べ物であればおおよそ、誰しも毎日一定量を消費しますから、保存可能な食品を買いだめすることには意味があるでしょう。 日用品等でも、セール中に買いだめしておくということもあるでしょう。 これらは、将来性を見越して溜め込むという人間の本性です。 けれど、消費するあてのないものを買ってしまうのは、なぜでしょうね。 頭の中が、「とにかく得したい」という思考にとらわれているからなのかもしれません。 何を買うのであれ「得した」と思ったら興奮してしまうという経験を繰り返していて、実はその興奮を目当てに買ってしまっているのかもしれません。 本当に必要なのは、必要なものに対して、ちゃんと、必要なだけのカネを支払うことだと思います。 そこでケチったら、満足感なく、低品質なものをつかまされたりします。 浪費したら損というのは、多くのひとが思っていることなので、説明は不要なはずですが、「お得感」と本当の「得」はちがうわけで……。 「お得感」につられるひとは、買った後の満足感のために買うのではなく、買い物そのものに満足してしまっているのかもしれません。 いずれにせよ、その実体は、満足感にカネを払っているのでしょうけれど。
2011年12月27日 06:41
とにかく、日本が中国に謝罪したことがないことになっていることが驚きです。 中国人がわるいというのではなく、まず中国政府の政策と情報統制にかなりの問題があるように思われます。 中国国内でも、政府批判をしていて言論について寛容なひとがいるが、政府からことごとく封じ込められているようです。 しかし、日本政府が中国政府を批判しようとしても、おそらく、内政問題として相手にしてもらえないのでしょうね。
2011年12月27日 03:32
表面的には書籍という有体物を買っているにもかかわらず、実質的には、有体物に化体された知的財産の閲覧権を買っているというのが、本を買うという行為の本質的な意味です。 しかし、本を売る側も、買う側も、その事実に対してあまりにもルーズなように私は思うのです。 たとえば音楽CDの問題であれば、音楽を聴くという事実上の権利、さらにいえば、好きな音楽を繰り返し聴けるという、音楽体験に価値があり、その価値にカネを払っているはずです。 やはり書籍も同様で、著作物を読むことに価値があり、それにカネを払っています。 しかし、多くの受け手は、著作物を受けるということ、さらには著作という成果に対して、価値を適切に見いだすことができていません。 むしろ、カネはできるだけ払いたくないというハラでしょう。 真の問題点は、自由主義市場経済における価格競争が失敗して、景気が冷え込み、日本人にカネを払う、より本質的には「与える」という行為の社会的意義と責任がすっかり抜け落ちたことが原因であると思います。 このような本質に切り込まぬかぎり、 ものに価値を見いだして、価値に対価を払うという発想がよみがえらぬかぎり、 同じ愚行がさまざまな場面で、今後いつの時代でもなされるのではないかと思うのですね。 もはや社会全体の問題であって、一部の「ならずもの」を法で取り締まるだけでは無理なのではないかと思います。
2011年12月27日 01:17
隠れていたものの露出にすぎないのか、それとも、堕落なのか、どちらかは判然とはしませんね。 これは、犯罪の認知件数が増えたら、犯罪が見つかるようになったのか、増えたのか、といったのと似たようなものかもしれません。 いまの日本社会では、部分社会の機能が喪失してしまったからこそ、 いきなり公共の場に私的な激情やプライバシーが入り込むようになってしまったのだと、私は考えます。 公共の場に発言するには、自己洞察による発言の自律が必要ですが、 自律を失った暴言、根拠のないデマもそのまま流れています。 もちろん、そういった発言から情報を選び取る能力も必要ですけれども、 そもそも情報の洪水があまりにもはげしくて、一個人の対応可能なキャパシティを超えているのが現状でしょう。 これがたとえ「世界のあるがままの実態」であったとしても、人間の手に負えない、もしかすると、見ないほうがよかったものなのかもしれません。 そして、いまの日本人には、自己洞察や、固定観念にとらわれないで自分で考えるという能力が足りないように感じます。 他方で、本来であれば、自己に偏向した意見や感情は、家庭や友人、同僚といった部分社会の範囲で吐露されて、ときには批判されたりただされたりするものです。 その部分社会の機能が希薄になっている、つまりは、人間関係の有機的な、生っぽい、ある種の泥くさい「きずな」のようなものが弱っているからこそ、 突然に公共の場所で放言されてしまう。 クローズドな場所ではなく、公共の場所が言いっぱなしの場になってしまっているのではないかと思います。 そして、そのような場所での発言は少なからず、適切な批判によってただされることがなく、辛辣な非難・誹謗中傷が起こるか、あるいは、無関心・無視となるかでしょう。 だとすれば、堕落が進むのではないかという懸念も妥当なのかもしれません。
2011年12月27日 00:48
ビジネスの話から離れていってしまいますけれども、 日本社会の価値評価基準が偏向し、また家族・友人等の部分社会の機能不全によっても、自己存在が評価されなくなっているから、卑屈になり、カネをつぎ込んで自己の強さをアピールしようとしてしまうのかもしれません。 これは、希薄な自己肯定感を回復しようとする行為なのでしょうが、もちろんこんな方法で本質的に解決されることはないのですけれども。 社会的な価値観の薄っぺらさ、人間関係のいわば無機質さ、地位やカネといった個性のない静的なものが重視されてしまったことが、世の中の「こぎれいさ」の正体かもしれません。 そういった社会だからなおさら、自己肯定感が得られにくいので、悪循環ですね。 無縁の人間が、カネで満足を得ようとして、カネ中心の価値観をふりかざしてしまう。そうして、価値観の偏向した社会状況がつくりだされてしまう。 ゲームどころか、某アイドルグループの「推しメン」に投票するためにCDを百枚とか買い占める人間もまた、カネで買って強さを誇示して満足を得ようとしている、自己肯定感を回復しようとする行為だと思います。
2011年12月26日 23:53
昔の遊びでは、カネのない子どもでも勝てるという性質があるものが少なくなかったように思います。 そもそも、金持ちか否かなんていうのもめぐりあわせの問題で、子どもならばなおさら、努力ではなくて生まれの問題ですから。 現実はカネの論理で解決しないことが多いということも思い知っておく必要がありますし、カネの論理でないところにも評価が用意されていなければ、一部の勝者を除いて、完全敗北者だらけになりかねないように思います。 カネでなんでも買えるというゲームもあってはならぬとまでは思いませんが、そんなゲームばかりにさらされていたら人間性が希薄になって、社会がおかしくなっていく気がしますね。 そういったゲームが流行るのは、どうかなあと思います。そういうゲームを主催する企業もまた、カネの論理でしか考えられない人間が経営しているのかもしれません。
2011年12月26日 22:38
私は、いまの日本のマスメディアと、それにあおられた人々が、刺激に嗜癖していて、いわゆる境界性人格障害的に極端な期待と失望に揺れている印象を受けています。 彼らは主体性がなく、全部丸投げお任せで誰かが解決してくれると思っているようです。 マスコミの、「支持する・支持しない」の二極対立の選択肢もそもそもおかしい。だから、自分の気分にそぐわないひとはみな「支持しない」を選ぶ。 たとえ、中立的でバランス感覚に長けた調整型リーダーがトップに立ったとしても、みなは失望して彼を引きずり下ろすでしょう。いまの日本では、極端で短絡的で単純な人間に人気が集まるようです。
2011年12月26日 21:28
たしかに、所有権の観念は人間のつくりだした産物であり、現実には、真理には、「所有」というものはありません。「諸法非我」は俗に言う宗教ではなく、科学的真実です。 けれども、論点はそこにあるのではありません。議論の本質は、著作者や出版社等の流通業者の生活・人生における利害と、読者や自炊代行業者の利害の対立です。その対立のなかで、どこに落としどころを見いだすのか、線引きするのかというのが問題なのです。個人的な複製は社会性も実害も低いが、自炊代行業者のビジネスは社会性も実害も比較的高いから、グレーゾーンに入っているのです。 ここにおいては、カネや所有の観念、法律というルールのもとでの社会的枠組みが議論の前提ですので、諸法非我論は論点外しになってしまいかねません。 また、読者がどう読もうが、内心を強制することは事実上も不可能です。近代西洋思想では「内心の自由」と言っていますが、自由以前に、不可能です。けれども、勘違いした人間がおかしな行動をすれば社会性があるから、他者から咎められるでしょう。 釈尊の説法だって、手塚治虫氏の作品だって、生きているうちならば著作者が誤解を訂正することは多少は可能だったでしょうが、世に出てしまえば基本的に自己完結。しかも死後は、せいぜい作品だけが残ります。 読者にはいろいろな読まれ方をするでしょう。読者自身に、主体的に読む努力、人生に適切に生かす努力が必要です。作者の言うことを理解しようとする真摯な想いをもって読まねばなりません。読者には、作者の指示待ちではなく、主体性が必要です。そうしなければ損するのはまず、読者自身です。主体性がなければ、作品を固定観念で読んで誤解して、おかしな生き方に帰結するでしょう。
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2011年12月28日 20:56
この社説は、明らかな、「釣り」です。 意図は、「先送りせずに俺たちが自分の尻ぬぐいをしよう」ということでしょう。 読者を不愉快にさせるのも、わざとでしょう。 社説っぽくないですけれどね。風刺漫画みたいです。
2011年12月27日 22:56
その通りで、読者は、著作物を読むことに価値を見いだしているのであって、本という有体物自体に価値があるわけではありません。 著作物を化体させる媒体・メディアがたまたま、本という紙の束であっただけです。 あるいは音楽ならば、レコード盤という板や、カセットテープという磁気テープや、CDという金属とプラスチックの板だっただけです。 出版会社の事業というのはその実は、流通、メディアの事業なのだと思います。 だから、メディアがかわり、流通がかわれば、彼らの商売に支障がでるわけです。 代替のメディアや流通が出れば、少なくない著作者が、そして読者も、乗り換えていくでしょう。 その流れは止められません。 著作物という知的財産に価値を見いだして、それにカネを払うという意識が、社会的に高くなれば、 読者は主体的に積極的にカネを払うようになり、著作が仕事として成り立つでしょう。 しかしいまの日本では、この意識が必ずしも根付いておらず、有体物を買うという感覚に囚われているひとが少なくありません。 それに対して、わざわざコストや手間をかけてまで、著作物をデジタル化しようとするひとたちは実は、著作物という知的財産に対して価値を強く見いだすことのできているひとたちです。 彼らは、これからの時代における作品の潜在的な支持者であるのに、「自炊」を叩くというのは、敵を見誤ったものだと言わざるをえません。
2011年12月27日 22:42
まさに、私を含め多くのひとが感じているのと同じですね。 実に、音楽業界で起きていたことと同じものを見ている、既視感があります。 「情弱」なんて言うとけなしているニュアンスがあるので、それはさすがにいかがなものかとも思いますが、 表現するのは得意でも、情報科学技術には疎いというひとは、そりゃあいてもおかしくはないでしょう。 書くことにかけては随一だったら、それでこそ作家ですから。 音楽業界にしても、出版業界にしても、 ミュージシャンや作家といった制作者の立場というのが思いのほか弱かったりします。 もちろん、作品の受け手のほうも、カネと人数は多くても、ひとりあたりの力は大変弱いです。 作品の流通を担っている、音楽業界であればレコード会社や音楽出版社や管理団体、出版業界であれば出版社などのほうがむしろ、「裸の王様」のようなものではないかと、 私は思います。 その実は制作者や受け手にいわばパラサイトしているにすぎないにもかかわらず、彼らは旧来の流通形態にしがみついて、時代の流れに逆らおうとしています。 そして、旧来の流通形態にそぐわない人たちをあまりにも大きな網で捕まえて、悪呼ばわりしているような印象があります。 本当に重要なのは、制作者と受け手が喜び、社会的な有益性が高まることです。 それにもかかわらず一部の企業・業界人は、自分たちの収入がかかっているものだから、旧来の流通形態を守ることに必死で、手段を目的化しているようにみえます。 ちなみにおそらく、CDが売れないとか本が売れないとかいうことの背景には根本的に、日本人の価値観・生き方の偏向や、経済の冷え込みといったマクロ要因があるように思います。 それにもかかわらず、いわゆるデジタル技術の進歩を仮想敵に仕立てあげてしまっているのでしょう。
2011年12月27日 22:09
私は、「欲しかったものが、たまたま見たらこんなに安くなっているではないか!」という理由で買うので、こういう、必要なかったのに買ったという失敗はないのですが。 おそらく、自己洞察、自己分析、価値判断が正常に行われていないのだと思います。 とにかく目の前に、安そうなものが見えたら、何も考えずに飛びついてしまうという、そういう本能のようなものがあるのでしょう。 食べ物であればおおよそ、誰しも毎日一定量を消費しますから、保存可能な食品を買いだめすることには意味があるでしょう。 日用品等でも、セール中に買いだめしておくということもあるでしょう。 これらは、将来性を見越して溜め込むという人間の本性です。 けれど、消費するあてのないものを買ってしまうのは、なぜでしょうね。 頭の中が、「とにかく得したい」という思考にとらわれているからなのかもしれません。 何を買うのであれ「得した」と思ったら興奮してしまうという経験を繰り返していて、実はその興奮を目当てに買ってしまっているのかもしれません。 本当に必要なのは、必要なものに対して、ちゃんと、必要なだけのカネを支払うことだと思います。 そこでケチったら、満足感なく、低品質なものをつかまされたりします。 浪費したら損というのは、多くのひとが思っていることなので、説明は不要なはずですが、「お得感」と本当の「得」はちがうわけで……。 「お得感」につられるひとは、買った後の満足感のために買うのではなく、買い物そのものに満足してしまっているのかもしれません。 いずれにせよ、その実体は、満足感にカネを払っているのでしょうけれど。
2011年12月27日 06:41
とにかく、日本が中国に謝罪したことがないことになっていることが驚きです。 中国人がわるいというのではなく、まず中国政府の政策と情報統制にかなりの問題があるように思われます。 中国国内でも、政府批判をしていて言論について寛容なひとがいるが、政府からことごとく封じ込められているようです。 しかし、日本政府が中国政府を批判しようとしても、おそらく、内政問題として相手にしてもらえないのでしょうね。
2011年12月27日 03:32
表面的には書籍という有体物を買っているにもかかわらず、実質的には、有体物に化体された知的財産の閲覧権を買っているというのが、本を買うという行為の本質的な意味です。 しかし、本を売る側も、買う側も、その事実に対してあまりにもルーズなように私は思うのです。 たとえば音楽CDの問題であれば、音楽を聴くという事実上の権利、さらにいえば、好きな音楽を繰り返し聴けるという、音楽体験に価値があり、その価値にカネを払っているはずです。 やはり書籍も同様で、著作物を読むことに価値があり、それにカネを払っています。 しかし、多くの受け手は、著作物を受けるということ、さらには著作という成果に対して、価値を適切に見いだすことができていません。 むしろ、カネはできるだけ払いたくないというハラでしょう。 真の問題点は、自由主義市場経済における価格競争が失敗して、景気が冷え込み、日本人にカネを払う、より本質的には「与える」という行為の社会的意義と責任がすっかり抜け落ちたことが原因であると思います。 このような本質に切り込まぬかぎり、 ものに価値を見いだして、価値に対価を払うという発想がよみがえらぬかぎり、 同じ愚行がさまざまな場面で、今後いつの時代でもなされるのではないかと思うのですね。 もはや社会全体の問題であって、一部の「ならずもの」を法で取り締まるだけでは無理なのではないかと思います。
2011年12月27日 01:17
隠れていたものの露出にすぎないのか、それとも、堕落なのか、どちらかは判然とはしませんね。 これは、犯罪の認知件数が増えたら、犯罪が見つかるようになったのか、増えたのか、といったのと似たようなものかもしれません。 いまの日本社会では、部分社会の機能が喪失してしまったからこそ、 いきなり公共の場に私的な激情やプライバシーが入り込むようになってしまったのだと、私は考えます。 公共の場に発言するには、自己洞察による発言の自律が必要ですが、 自律を失った暴言、根拠のないデマもそのまま流れています。 もちろん、そういった発言から情報を選び取る能力も必要ですけれども、 そもそも情報の洪水があまりにもはげしくて、一個人の対応可能なキャパシティを超えているのが現状でしょう。 これがたとえ「世界のあるがままの実態」であったとしても、人間の手に負えない、もしかすると、見ないほうがよかったものなのかもしれません。 そして、いまの日本人には、自己洞察や、固定観念にとらわれないで自分で考えるという能力が足りないように感じます。 他方で、本来であれば、自己に偏向した意見や感情は、家庭や友人、同僚といった部分社会の範囲で吐露されて、ときには批判されたりただされたりするものです。 その部分社会の機能が希薄になっている、つまりは、人間関係の有機的な、生っぽい、ある種の泥くさい「きずな」のようなものが弱っているからこそ、 突然に公共の場所で放言されてしまう。 クローズドな場所ではなく、公共の場所が言いっぱなしの場になってしまっているのではないかと思います。 そして、そのような場所での発言は少なからず、適切な批判によってただされることがなく、辛辣な非難・誹謗中傷が起こるか、あるいは、無関心・無視となるかでしょう。 だとすれば、堕落が進むのではないかという懸念も妥当なのかもしれません。
2011年12月27日 00:48
ビジネスの話から離れていってしまいますけれども、 日本社会の価値評価基準が偏向し、また家族・友人等の部分社会の機能不全によっても、自己存在が評価されなくなっているから、卑屈になり、カネをつぎ込んで自己の強さをアピールしようとしてしまうのかもしれません。 これは、希薄な自己肯定感を回復しようとする行為なのでしょうが、もちろんこんな方法で本質的に解決されることはないのですけれども。 社会的な価値観の薄っぺらさ、人間関係のいわば無機質さ、地位やカネといった個性のない静的なものが重視されてしまったことが、世の中の「こぎれいさ」の正体かもしれません。 そういった社会だからなおさら、自己肯定感が得られにくいので、悪循環ですね。 無縁の人間が、カネで満足を得ようとして、カネ中心の価値観をふりかざしてしまう。そうして、価値観の偏向した社会状況がつくりだされてしまう。 ゲームどころか、某アイドルグループの「推しメン」に投票するためにCDを百枚とか買い占める人間もまた、カネで買って強さを誇示して満足を得ようとしている、自己肯定感を回復しようとする行為だと思います。
2011年12月26日 23:53
昔の遊びでは、カネのない子どもでも勝てるという性質があるものが少なくなかったように思います。 そもそも、金持ちか否かなんていうのもめぐりあわせの問題で、子どもならばなおさら、努力ではなくて生まれの問題ですから。 現実はカネの論理で解決しないことが多いということも思い知っておく必要がありますし、カネの論理でないところにも評価が用意されていなければ、一部の勝者を除いて、完全敗北者だらけになりかねないように思います。 カネでなんでも買えるというゲームもあってはならぬとまでは思いませんが、そんなゲームばかりにさらされていたら人間性が希薄になって、社会がおかしくなっていく気がしますね。 そういったゲームが流行るのは、どうかなあと思います。そういうゲームを主催する企業もまた、カネの論理でしか考えられない人間が経営しているのかもしれません。
2011年12月26日 22:38
私は、いまの日本のマスメディアと、それにあおられた人々が、刺激に嗜癖していて、いわゆる境界性人格障害的に極端な期待と失望に揺れている印象を受けています。 彼らは主体性がなく、全部丸投げお任せで誰かが解決してくれると思っているようです。 マスコミの、「支持する・支持しない」の二極対立の選択肢もそもそもおかしい。だから、自分の気分にそぐわないひとはみな「支持しない」を選ぶ。 たとえ、中立的でバランス感覚に長けた調整型リーダーがトップに立ったとしても、みなは失望して彼を引きずり下ろすでしょう。いまの日本では、極端で短絡的で単純な人間に人気が集まるようです。
2011年12月26日 21:28
たしかに、所有権の観念は人間のつくりだした産物であり、現実には、真理には、「所有」というものはありません。「諸法非我」は俗に言う宗教ではなく、科学的真実です。 けれども、論点はそこにあるのではありません。議論の本質は、著作者や出版社等の流通業者の生活・人生における利害と、読者や自炊代行業者の利害の対立です。その対立のなかで、どこに落としどころを見いだすのか、線引きするのかというのが問題なのです。個人的な複製は社会性も実害も低いが、自炊代行業者のビジネスは社会性も実害も比較的高いから、グレーゾーンに入っているのです。 ここにおいては、カネや所有の観念、法律というルールのもとでの社会的枠組みが議論の前提ですので、諸法非我論は論点外しになってしまいかねません。 また、読者がどう読もうが、内心を強制することは事実上も不可能です。近代西洋思想では「内心の自由」と言っていますが、自由以前に、不可能です。けれども、勘違いした人間がおかしな行動をすれば社会性があるから、他者から咎められるでしょう。 釈尊の説法だって、手塚治虫氏の作品だって、生きているうちならば著作者が誤解を訂正することは多少は可能だったでしょうが、世に出てしまえば基本的に自己完結。しかも死後は、せいぜい作品だけが残ります。 読者にはいろいろな読まれ方をするでしょう。読者自身に、主体的に読む努力、人生に適切に生かす努力が必要です。作者の言うことを理解しようとする真摯な想いをもって読まねばなりません。読者には、作者の指示待ちではなく、主体性が必要です。そうしなければ損するのはまず、読者自身です。主体性がなければ、作品を固定観念で読んで誤解して、おかしな生き方に帰結するでしょう。