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- 2014年11月04日 23:14
弁護士激増既定方針化がもたらしたもの
あくまで法的サービスの担い手という観点でみれば、弁護士の業務独占を緩和するという方向と、弁護士を激増させるという方向は、矛盾するようにみえます。いうまでもなく、弁護士以外の、いわゆる隣接士業がその担い手として活用されるというのであれば、何もここまで弁護士を激増させる必要があるのか、という当然の疑問にぶち当たるからです。
そもそもこの「改革」が、この国の法的サービスの「受け皿」を、隣接を含めた士業総体でとらえず、極端な弁護士増員に踏み切った点は、つとに増員反対・慎重派が指摘してきた問題、「改革」の「誤り」でした。役割という観点から、海外の弁護士数との比較の仕方でも、それは言われたことです。
司法書士への簡裁代理権付与に舵を切った司法制度改革審議会最終意見書が、この弁護士と隣接法律専門職種との関係については、「弁護士人口の大幅な増加と諸般の弁護士改革が現実化する将来」に、再検討する必要をいう表現をとったことは、前記矛盾と「誤り」の背景といえるものを象徴しているようにみえました。
なぜならば、この時点で、「改革」の既定方針であり、一つの要である弁護士激増政策をひっくり返しかねない、隣接士業の本格的活用論を持ち出さない、持ち出すわけにはいかない、という司法審の意思を、ここに読みとることができたからです。
一方、弁護士会のなかにも、弁護士業務独占と弁護士増員是非の問題と結び付け、一定の隣接活用論(あるいはその可能性)を前提に、増員抑制策もしくは激増政策無用論をいう主張は、ほとんどありませんでした。むしろ、これもまた、激増政策が避けられない既定方針であるととらえ、将来の激しい士業間競争を想定すれば、なおさら業務独占こだわる、という構図もないわけではありません。
もっとも、業務独占への弁護士のこだわりは、弁護士増員の是非に関係なく、もっぱら「安全性」の問題としていわれてきたことです。しかし、皮肉なことに、まさに、この弁護士の資格が背負うべき特別の「安全性」をぐらつかせているのが、日弁連・弁護士会も旗を振ってきた「改革」、とりわけ増員政策の結果であるという現実があります(「弁護士法律事務独占と資格『安全性』の行方」)。
激増政策が「改革」の要であったというのは、いうまでもなく、それが法科大学院制度導入を前提とする新法曹養成制度の帰趨にかかわっていたからです。増員政策が見直されることになれば、そのシナリオは大きく変わることになった。ただ、不思議なことに弁護士激増政策によって、既存の職域への進出が予想され、一方であくまで「法曹」の養成構想である法科大学院制度からは当初、早々に除外された隣接士業側が、この一つもいいところもないように思える同政策に、自らの存在をアピールし、一丸となって強い反対運動を展開したわけでもなかった。当時、取材したある司法書士は、会内に本音として弁護士増員反対がありながらも、やはりそこにも抗えない「改革」の流れがあったことを指摘していました。
弁護士激増の「改革」既定方針化が、どれだけ本来、経るべき議論や詳密な検討を飛び越えさせたのかが、いまさらのように見えてきます(「法科大学院制度導入必然性への疑問」)。そして、そのことが、弁護士増員の是非にしても、業務独占の意義にしても、法的サービスの「受け皿」としての隣接士業の可能性にしても、何が本当に「市民のため」なのかを、市民の側にとってより分かりづらいものにしたのではなかったか、と思えてくるのです。
推進派大マスコミが、そのことに一役かったことは明らかです。ただ、今もって、一番市民に分かりにくいのは、弁護士会の姿勢というべきかもしれません。弁護士会員の経済的な存立を脅かし、業務独占どころか弁護士の社会的地位や信頼まで貶められ、いまや自治までが内部から脅かされる結果を生んだ増員政策と、それを支える法科大学院体制の側に立つ弁護士会主導層。こう見てしまえば、なおさらのこと、こうした市民からみても、「矛盾」したぐちゃぐちゃなところに弁護士・会を追い込むこともまた、この「改革」の先に読み込まれていたのではないか、という想像もかきたてられてしまうのです(「『弁護士弱体化』という意図」)。
そもそもこの「改革」が、この国の法的サービスの「受け皿」を、隣接を含めた士業総体でとらえず、極端な弁護士増員に踏み切った点は、つとに増員反対・慎重派が指摘してきた問題、「改革」の「誤り」でした。役割という観点から、海外の弁護士数との比較の仕方でも、それは言われたことです。
司法書士への簡裁代理権付与に舵を切った司法制度改革審議会最終意見書が、この弁護士と隣接法律専門職種との関係については、「弁護士人口の大幅な増加と諸般の弁護士改革が現実化する将来」に、再検討する必要をいう表現をとったことは、前記矛盾と「誤り」の背景といえるものを象徴しているようにみえました。
なぜならば、この時点で、「改革」の既定方針であり、一つの要である弁護士激増政策をひっくり返しかねない、隣接士業の本格的活用論を持ち出さない、持ち出すわけにはいかない、という司法審の意思を、ここに読みとることができたからです。
一方、弁護士会のなかにも、弁護士業務独占と弁護士増員是非の問題と結び付け、一定の隣接活用論(あるいはその可能性)を前提に、増員抑制策もしくは激増政策無用論をいう主張は、ほとんどありませんでした。むしろ、これもまた、激増政策が避けられない既定方針であるととらえ、将来の激しい士業間競争を想定すれば、なおさら業務独占こだわる、という構図もないわけではありません。
もっとも、業務独占への弁護士のこだわりは、弁護士増員の是非に関係なく、もっぱら「安全性」の問題としていわれてきたことです。しかし、皮肉なことに、まさに、この弁護士の資格が背負うべき特別の「安全性」をぐらつかせているのが、日弁連・弁護士会も旗を振ってきた「改革」、とりわけ増員政策の結果であるという現実があります(「弁護士法律事務独占と資格『安全性』の行方」)。
激増政策が「改革」の要であったというのは、いうまでもなく、それが法科大学院制度導入を前提とする新法曹養成制度の帰趨にかかわっていたからです。増員政策が見直されることになれば、そのシナリオは大きく変わることになった。ただ、不思議なことに弁護士激増政策によって、既存の職域への進出が予想され、一方であくまで「法曹」の養成構想である法科大学院制度からは当初、早々に除外された隣接士業側が、この一つもいいところもないように思える同政策に、自らの存在をアピールし、一丸となって強い反対運動を展開したわけでもなかった。当時、取材したある司法書士は、会内に本音として弁護士増員反対がありながらも、やはりそこにも抗えない「改革」の流れがあったことを指摘していました。
弁護士激増の「改革」既定方針化が、どれだけ本来、経るべき議論や詳密な検討を飛び越えさせたのかが、いまさらのように見えてきます(「法科大学院制度導入必然性への疑問」)。そして、そのことが、弁護士増員の是非にしても、業務独占の意義にしても、法的サービスの「受け皿」としての隣接士業の可能性にしても、何が本当に「市民のため」なのかを、市民の側にとってより分かりづらいものにしたのではなかったか、と思えてくるのです。
推進派大マスコミが、そのことに一役かったことは明らかです。ただ、今もって、一番市民に分かりにくいのは、弁護士会の姿勢というべきかもしれません。弁護士会員の経済的な存立を脅かし、業務独占どころか弁護士の社会的地位や信頼まで貶められ、いまや自治までが内部から脅かされる結果を生んだ増員政策と、それを支える法科大学院体制の側に立つ弁護士会主導層。こう見てしまえば、なおさらのこと、こうした市民からみても、「矛盾」したぐちゃぐちゃなところに弁護士・会を追い込むこともまた、この「改革」の先に読み込まれていたのではないか、という想像もかきたてられてしまうのです(「『弁護士弱体化』という意図」)。