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[本]【読書感想】街場の共同体論 ☆☆☆☆


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街場の共同体論

あの『共同幻想論』から、いま、再びの

『共同体論』が登場!

父親の権威没落、母親の呪縛の蔓延。

学級崩壊の教育現場。いじめやモンスターペアレンツ。

「当たり前のこと」が通用しない世の中。

どんどん舵取りをしている人たちが幼児化している社会等々。

現代社会が抱える難題の解決への道しるべを、著者が大胆に語る! 必読の書! !


「本書では、家族論、地域共同体論、教育論、コミュニケーション論、師弟論など、『人と人との結びつき』のありかたについて、あれこれと論じておりますが、言いたいことは簡単と言えば簡単で、『大人になりましょう』『常識的に考えましょう』『古いものはやたら捨てずに、使えるものは使い延ばしましょう』『若い人の成長を支援しましょう』といった『当たり前のこと』に帰着します。」(「まえがき」より)


 安心、安定の内田樹ワールド、という感じの一冊。

 これまで、内田先生の本を読んだことがない人が読むと「目から鱗が落ちる」ような気がするかもしれませんが、ずっと読んできた僕にとっては「これまでの内田先生の主張のダイジェスト版」のように思われました。

 だからこそ、「最初の一冊に」には向いているかもしれません。

 これを読んで「なるほど」と思えるようなら、内田先生の他の著作にも「ついていける」でしょうし、「とはいっても、時計の針を逆回転されることはできないだろ……」という人には「懐古主義者の妄言」にきこえるんじゃないかな。


 この本を読んでいると「いまは特別な時代だと、思い込みすぎているのではないか?」と、あらためて考えさせられます。

 でも、とりあえず言えるのは、昔は親子関係は親密だったが、現代では疎遠になったというのは事実ではないということです。親子関係は昔も疎遠だったし、今も疎遠である。ただ、疎遠である仕方が多少変わった。それだけのことです。大きく違ったのは、親子が疎遠であることを、昔の人はそれほど「困ったことだ」と思っていなかったということです。

 家族同士はそれほど親密でもなかったし、それほど打ち解けてもいなかった。そのことをみんな忘れているのです。

 たしかに、昭和30年代の家庭では、ご飯のときになると家族全員がちゃぶ台のまわりに集まりました。父親はちゃんと定時に家に帰ってきたし、子供たちも夕方には家に戻っていた。塾に行くといっても、せいぜい近所の算盤塾か習字の塾くらいですから、6時前には家族全員が揃って、父親の帰りを待っていた。

 でも、毎晩同じメンバーで食卓を囲むからといって、別にわいわいと話が弾んでいるというわけではありません。そこにいるのが家族の義務だから、しかたなく一緒にいただけです。ご飯を食べたり、茶の間に寝転んでマンガを読んだり、小さな音でラジオを聴いたりするくらいは許されました。そして、一定の時間そこにとどまると、「解放」されて、寝るまでの間少しだけ自分の好きなことができた。それが昭和30年代の「一家団欒」の実相です。今も昔も親子は疎遠なわけです。疎遠であるかたちが違うだけで。

 でも、家族の中の「権力関係」は大きく変わりました。それは父親の権威が劇的に低下したということです。父親の存在感が驚くほど希薄になった。

 昔の父親は子供からみるとさっぱり気持ちが通じない人だった。黙っているし、自分の気持ちを丁寧に説明するというようなこともしない。ただ、あれをしろ、これをするなと命令するだけ。父がどういう論理に従って、あれこれの指示を下すのか、子供にはわからなかった。たぶん子供には理解の及ばない「深い考え」があって、そうしているのだろうと子供たちは信じていました。でも、今は違います。

 今も父親はそこにいるのだけれど、その人が何を考えているのか、何を感じているのか、妻も含めてもう家族の誰もが興味を持っていない。


 ……ああ、わかるような気がする。

 もちろん僕は「昔の父親」になったことはないのですが。

 そして、「昔の一家団欒」というのが、「とりあえずみんなが居間に集まって、ダラダラしているだけ」というのも、これを読んで思い出してきました。

 とりあえず一緒にいる、というのは重要なことかもしれませんが、当時も、「うまくタイミングを見計らって、自分の部屋に行きたいなあ」って思っていたんですよね。

実際、「それが義務でなくなれば、みんなそれぞれ自分の部屋や外で、自分のやりたいことをするようになった」のだから。

 ただ、僕のように「父親の権威の残滓があった時代」に子供だった人間からすると、あの頃の父親の立場と自分とのギャップに、うまく適応できないのも事実なんですけど。



 内田先生の話を読んでいると、僕が「当たり前のこと」だと思い込んできたことの別の面を考えさせられるのです。

 そして、お金のあるなしが過剰に意識されるようになったことの一つの帰結に、「金がないと人間はどれほど自暴自棄になっても構わない」という、無法状態への抑制の緩みがあるような気がします。

 お金がないのでやけくそになって犯罪をしましたということについて、今の社会は妙に寛容です。別に寛容といっても「しかたがないから許す」ということじゃない。もちろん刑事罰はきびしく処すけれど、「そういうことって、人間として自然じゃないか」というふうに、動機に対して理解を示す。そうか、金がないのか。じゃあ、めちゃくちゃなことをしても当然かもしれない、と。「金がないくらいのことで人間としての尊厳を失うな」とか「人の道を簡単に踏み外すな」という説教をする人がもういないんですよ。どれほど非道なことをしても、「金がなかった」と言えば何となく納得してもらえる。

 それは裏返して言えば、「金がないのは人間じゃない」というねじれた人間観がなければ、出てこない言葉なんです。

 新聞を読んでいて、僕がとりわけ強い違和感を覚えるのは、お金がない、社会的地位を失った、体面を失ったということで、人を殺したり自殺したりする人間がいますけれど、それが事件の動機の説明として十分だという報道姿勢を感じることなんです。そうか、金がなかったのか。金が欲しかったのか。金がない人間はほとんど人間じゃないのも同様だから、「こんなこと」をするのも当然かもしれない、というような考え方が、記事の行間から洩れ出している。

 言われてみれば、確かにそうだよな、と。

 「すべてをお金で説明すること」に慣れすぎてしまっていて、思考停止してしまっているところはあるのです。

 「お金がない」という状況に対して、それが純粋な生活苦なら公的な扶助だってあるし(そのためのハードルは存在するにせよ)、遊ぶ金であれば「とりあえず我慢する」ほうが、犯罪をおかして刑務所に入るより、合理的なはずなんですよね。

 「人を殺してみたかった」という歪んだ衝動よりも、「金のために人を殺すこと」のほうが、はるかに「どうにか解決できそうな理由」であるにもかかわらず、後者のほうが、人々を納得させてしまう。

 それは、「人を殺したい衝動」よりも、「お金がないつらさ」のほうが、一般的で、理解可能だからなのかもしれないけれど。

 たしかに「世の中、お金じゃない」と言う人って、少なくなったよねえ。僕が子供の頃に比べると。

 たまにそういう人がいても、「金持ちの自衛」か、「貧乏人の悪あがき」だと、みんながレッテルを貼ってしまうし。

 金銭的な豊かさと幸福は、必ずしも正比例するものではないことは、周囲をみて実感しているはずなのに。

 それはもちろん、「最低限」の生活はできるというのが、前提なのだとしても。


「貧しくても涼しく生きる」知恵を、現代人は奪われてしまいました。「身の程」を知るというのは、貧しければ貧しいなりに、その中で生活の質を高めるような工夫をするということです。

 でも、格差社会ではそのような生き方は許されません。階層下位に格付けされたものは、その事実を悔しがり、悲しみ、絶望し、必死になって社会的階梯をよじのぼろうと苦闘するか、全部諦めて無気力にへたりこむか、どちらかを選ばなければならない。そういうルールになっているからです。

 あらゆる人間は、「最上位」をめざして互いの足を引っ張り合い、下から来るものを蹴落として戦わなければならない。立ち止まることも休息することもできない。一度立ち止まったらもう救いはない。みんながそう言い募っている。

「身の程を知る」というのは、手持ちの資源で何ができるかをやりくりすることです。でも、現代人はもうそんな知恵を失ってしまいました。「何かが欠けているために、したいことができない」と不満顔をすることが、現代人のデフォルトになった。キャベツともやしがあるから野菜炒めが「作れる」というふうに考えるのが「身の程を知る人」であり、キャベツともやしはあるが豚肉がないから肉野菜炒めが「作れない」と渋面を作るのが「身の程を知らない人」です。


 この野菜炒めのたとえは、すごくよくわかる。

 僕も「肉野菜炒めが作れない」ことにこだわってしまいがちだから。

 もっと、「自分が持っているものでやりくりする」ことを考えていくべきなのでしょうね。

 今の社会というのは、野菜炒めを作ればいい人に、「あなたは豚肉を手に入れて、肉野菜炒めをつくらなくてはならない。肉が入っていないなんて、みっともないことですよ」というプレッシャーをかけてくるのだよなあ。


「セミ・パブリック」志向は出てきていますね。でも、どういうものが「セミ・パブリック」かを見きわめるのは、ちょっとむずかしいんです。

 例えば、ツイッターではある種の共同体志向が芽生えていますけれど、まったく私的なコメントもそこここに散在している。それを区別するのは「言葉づかい」なんです。それでわかる。

 ネット上でのやりとりであっても、そこで何らかの生きた共同体を作り出したいと思っている人は、言葉づかいが丁寧になる。とりあえず、ここを足がかりにして何か共同体的なものを立ち上げようとすると、言葉づかいが慎重になる。「取り付く島」としては言葉しかないわけですから、言葉を丁寧に扱うようになる。そこではねつけられたら、それで終わりですから。

 そういう場でも、いきなり見ず知らずの人に罵倒を投げつけてくるような輩も、もちろんいます。そういう人は、「オレは好きなときに、好きなところに唾を吐く権利を主張する。それが言論の自由というものだ」と言い張ります。

 でも彼らは、実際には自由な言論の行き交う場を立ち上げる気なんかないんです。自分の言論の自由はうるさく主張するが、他人の言論の自由には配慮する気がないんですから。みんなが公共的に使っている井戸に唾を吐きかけておいて、「みんな好きなだけ唾を吐けばいい」と言っているようなものです。

 自由な言論が行き交う場を「きれいに使う」という配慮がない。場に対する「敬意」がない。壊れやすいアイディアや傷つきやすいセンチメントが行き来している場所では、少し息をひそめて、あまり物音を立てないように、静かな立ち居ふるまいをするという常識がない。

 他人の家に土足で上がるようなことを平気でする人は、やはり「公共」ということがわかっていないんだと思います。「公共」ということがわかっていない人間が、「公論」を導いてゆくということはありえないです。


「身の程を知りましょう」「もう少しだけ、公共を意識しましょう」

 書かれていることは、至極シンプルで、真っ当なんですよ。

 ただ、内田先生自身が書かれているように、「社員への福利厚生が行き届いた会社と、社員から搾取する『ブラック企業』が価格競争をすれば、後者が有利で、安く商品を供給できる」のも事実で、「より真っ当なほうを応援する」というのは、応援する側にも、ある種の「痛み」が伴うんですよね。

 ネットでも、「捨てアカウント」なら、気軽に罵詈雑言を吐けるけれど、自分のアカウントを大切にしようと思うのなら、そうはいきません。


 「どうしてこんなに幸せになるのが難しいのだろう?」と考えたときに、内田先生の話というのは、大きなヒントになると僕は思います。

 僕もまだまだ全然「わかってない」のかもしれないけれども。

 

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