- 2014年10月28日 08:05
「ゼロからイチを創り出す」 自衛隊の礎築いた工学博士 - Wedge編集部
異国の地で獄中死した父親の遺志を胸に秘めて自衛隊に飛び込み、組織の中心で屋台骨を支えてきた工学博士号を持つ元陸将。大きな転換点を迎えようとする自衛隊を、大先輩はどう見ているのか─。
「自衛隊に入ったきっかけは、死んだ父からの手紙でした」
画像を見る志方俊之(しかた・としゆき)
1936年生まれ。58年防衛大学校卒業。68年京都大学工学博士。在米日本大使館防衛駐在官、第2師団長等を経て、90年北部方面総監。92年退官。退官後、帝京大学法学部教授。内閣府 中央防災会議専門委員、東京都災害担当参与も歴任。(写真・阿部卓功)
防衛大学校2期生として入学し、1954年の自衛隊発足直後からの組織を知る志方俊之さん(78歳)。自身が防大に入学した経緯を教えてくれた。
「軍人だった父は終戦後ソ連の捕虜収容所に入り、48年に獄中死します」
志方さんの父親は母親宛てに遺書を残していた。父親と一緒に抑留されていた戦友が日本に帰還し、母親の実家に帰省していた志方さん家族のもとへそれを届けてくれたのである。
「非人道的なソ連軍に対して息子に仇を討つように。日本が再軍備していれば、軍隊に入れるように、と書いてありました」
父親の遺志を胸にしつつ、12歳の志方さんは、6年後、学費不要で家計に負担も少ない防大へ入った。
防大卒業後、幹部候補生学校と部隊で2年を過ごした志方さんは、旧軍が技術軽視によって敗戦したと考え、京都大学大学院の工学研究科(土木工学)修士および博士課程に進学する。
「実験を繰り返し、既知なるものから未知なるものを導き出すことの重要性を学びました」
大学院進学前の59年、志方さんは、茨城県古河駐屯地の第一施設大隊に三等陸尉(少尉)として着任した。自身の部隊を率いて災害現場へ初めて足を踏み入れたのが伊勢湾台風であった。死者・行方不明者合わせて約5000人に及んだ大規模高潮災害であった。
「すべてが水に浸かり、無数の遺体がプカプカと浮いている凄惨な状況でした」
最新の重装備を用意して行ったが、すべてが水浸しのなかでは何も役に立たなかった。手こぎボートで現場へ近づき、ロープで遺体をつり上げる原始的な作業の繰り返し。
「災害救助はまずは消防や警察ですが、大規模災害においては、訓練され高い技能を持つ隊員を多く抱える自衛隊が適しています。東日本大震災でもそうした能力が発揮されました」
現場着任直後の災害救助の経験は、その後の志方さんの活動につながる。
北海道全域の防衛警備や災害派遣を担当する陸上自衛隊北部方面隊。志方さんがそのトップである北部方面総監を務めていた91年、長年の構想だった緊急医療支援訓練「ビッグレスキュー」を実施した。
画像を見る東京都の総合防災訓練「ビッグレスキュー東京2000」で銀座通りを走る陸自の装甲車(JIJI)
史上最大規模の医療支援訓練
北部方面隊の隊員約3000人、ヘリ40機、車両1000台を投入した自衛隊史上最大規模の医療に絞り込んだ災害訓練であった。自衛隊内部からも「自衛隊の本来任務は戦闘防衛。世間におもねる訓練だ」と批判さえあった。しかし、当時米ソ冷戦が終わり、自衛隊の役割を再考。平時の役割として大規模災害における人命救助の機能を高めようと志方さんは考えていた。
「国を防衛するのが自衛隊の本来任務です。自衛隊はその任務を遂行するため、救助から輸送、通信、食糧や水の補給、医療まですべて自らの組織で行えます。防衛と災害の現場では共通点が多い。弾が飛んでこない災害時に対応できなければ本来任務の遂行などできるはずがありません」
志方さんが抱いていた思いはそれだけではなかった。
「その後の自衛隊の国連平和維持活動(PKO)による海外派遣を見据え、自衛隊が持つ高い自己完結能力を内外に示したいという思いもありました」
ほかにも、当時一般の道民と接点の少なかった自衛隊員にとって、人命救助の訓練は、自分たちの日頃行っている活動が何の役に立っているのか改めて認識する機会となり、士気の向上にもつながったという。
自衛隊退官後の99年には、東京都の災害担当参与に就任し、都でもビッグレスキューを主導した。当時、「装甲車が銀座を走る」などと話題になり、大掛かり過ぎるとの批判も。
「人口密度が高い都市こそ、大災害を想定して一定規模以上の訓練を行わなければ意味がありません。1万人の救援隊の動きを100人の訓練で検証することはできません」
それまでになかった災害救援訓練を実施した志方さんは「ゼロからイチを創り出す」ことを得意とする。
自衛隊の戦闘訓練に「レーザー交戦装置」導入を検証したのも志方さんだ。実弾を使用することなく実戦さながらに行うこの訓練は、今では自衛隊では当たり前の訓練になっている。
在米日本大使館防衛駐在官時代に米陸軍が導入したこの訓練を知った志方さんは、陸自第2師団長を務めた際、旭川の部隊で実証実験を担当し、自衛隊の実戦的訓練に沿うように工夫を加え、正式導入にこぎつけた。
画像を見る1980年前半の在米日本大使館防衛駐在官時代。制服を着た志方さん(左)(Toshiyuki Shikata)
また、志方さんは陸上幕僚監部人事部長時代に陸曹で構成する組織「曹友会」の設立を発案。陸曹は陸自の隊員のなかで数が最も多い部隊の中核だ。月刊の会誌も発行して、一体感の醸成や地位の向上を図った。これも米国で見た米陸軍の下士官制度を参考にした。以来20年、今年3月に「上級曹長制度」として正式に制度化された。
画像を見る防衛大学生時代の志方さん(Toshiyuki Shikata)
防大2期生として、自衛隊初期における苦労はなかったのだろうか。先に触れた伊勢湾台風の災害救助で部隊を率いたとき、部下のほとんどは自分より年上の陸曹だったという。
「隊員から見れば、防大出の新米少尉に過ぎませんでした。年は若く、経験では足元にも及ばない。そこで毎日朝礼で、隊員の前で五省(旧海軍で将校生徒の教育のために使用されていた5つの訓戒)を自ら唱え、一緒に復唱させることで、若い指揮官として純粋さをまっすぐに出すようにしました」
志方さんは発足後の自衛隊をずっと見てきたが、戦後しばらく社会の自衛隊に対する視線は厳しかったという。
「後にノーベル文学賞を取ることになる大江健三郎さんが同世代ですが、ちょうど私が防大を卒業する頃に『防衛大学生は若い日本人の1つの恥辱だと思う』と述べるなど、自衛隊に対する社会の意識は現在とは比べられない嘲笑的なものでした。そのために、若い頃は『なにくそ、逆にやってやろうじゃないか』とがむしゃらになって任務に取り組みました」
そんな志方さんから見て、現在の自衛隊はどう映るのか。
「PKO活動による国際貢献や東日本大震災における災害救助により、自衛隊は社会に認められた存在になってきました。そのなかでの活動ですから、甘えが出てくるかもしれませんね」
現在政府が検討を進める集団的自衛権の行使が可能になった場合、現場の自衛隊員の活動はさらなる危険に直面する場面もあるだろう。
画像を見る帝京大学でのゼミの様子。この日は韓国情勢がテーマだった(Takanori Abe)
世代交代も進んだ自衛隊は大丈夫だろうか。
「先日、海外派遣の経験もある若い隊員がこう言っていました。『憲法の制約のために、海外の現場に行っても、危険な場所まで他国の部隊と一緒に行って任務を果たせないことを重荷に感じた』と。今後はより危険な場所に派遣される機会も増えるでしょうが、それで逃げ出したりする自衛隊員はいないと思っています」
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