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- 2014年10月21日 14:39
弁護士の「本質的性格」と現実
しばしば並べて語られることになる弁護士と医師という仕事の持つ決定的な違いについて、昨年、日弁連法務研究財団が復刻、出版した故・大野正男弁護士(元最高裁判事)の論文「職業史としての弁護士および弁護士団体の歴史」のなかで、次のように印象的に述べられています。
「弁護士は、医師の場合と異なって、絶対的な共通の敵をもたない」
この言葉に対して、弁護士法1条を想起される方もいると思います。そこに弁護士の使命として掲げられる、弁護士自らがしばしば引用する「基本的人権の擁護と社会正義の実現」。その侵害は、「共通の敵」になり得ないのか。あるいは一般的な感覚としても、もし、弁護士を「正義」と結び付けてとらえるものがあるとすれば、現実はともかく、本来的には(あるべき形としては)医師の「病気」に相当する「敵」に、その侵害を当てはめることが自然とする向きもあるかもしれません。
しかし、大野弁護士は、はっきりと次のように書いています。
「医師の場合、病気に対する闘いは、医師階層にとつての共通の具体的な職業的目的であるが、弁護士の使命とされる『基本的人権の擁護と社会的正義の実現』は、価値的表現であるから、抽象的には共通であっても、現実的にはその内容がかなり異なる」
同弁護士は、例として労使、資本家・有産階級側と社会的弱者の双方につく弁護士の存在を挙げ、もしその一方を「敵」とすれば、「弁護士職務の共通項は存在しなくなる」としています。これは、前記弁護士法1条の使命を知らない弁護士がいないのと同じくらい、弁護士ならば誰でも分かっている、弁護士という仕事の本質的性格といっていいものです。まさに社会のさまざまな「正義」の主張を背負い、敵対することも宿命づけられている弁護士にあっては、使命である「正義」は、現実的な場面では、その侵害・阻害者を絶対的な「共通の敵」とはできない、あるいはしにくい、ということです。
しかも、その一方で、弁護士の場合、こうした職業上の性格こそが、その多様性とか独立性という問題と結び付いています。一方を「絶対的な共通の敵」としないことこそが、多様な社会的な役割を弁護士に与えることになり、そこで前記使命を全うさせるためにこそ、独立性が重要な要素になるということです。
今、このことを考えると、二つの問題が浮かんできます。一つは弁護士会の姿勢です。多様な立場に立つ会員を強制的に加入させている弁護士会が、「人権」を最大公約数的にとらえて、その活動や対外的な意思表明を行ってきた実態は、ある意味、「共通の敵」を設定する発想ということができます(「弁護士会意思表明がはらむ『危機』」 「弁護士の『最大公約数』」)。それは、大野弁護士が表現した、まさしく「価値的表現」としての「抽象的」な共通項で、それこそ「なんとか」束ねてこられた、といっていい弁護士会の現実につながっています。
そして、もう一つの問題は、「司法改革」です。大野弁護士は同書のなかで、弁護士の本質的特質として、①職業としての独立性②専門的知識による社会的有用性の保持③自治能力との密接な関係性④一定の経済的条件によって支えられること――の4点を挙げています。今回の「改革」の結果を改めてみれば、それはこの特質すべてにプラスに作用していないように見えるのです。
増員政策によって、弁護士のプロフェッション性を支える経済的条件は、大きくぐらつきました。大野弁護士は、「職業倫理が経済的利益追求をこえて成立するのは、その職業が一定の経済的条件を満たしている場合に限られる」と喝破していますが、「改革」はこうした現実を果たしてどこまで踏まえたといえるのでしょうか。
同弁護士がいうように、法学教育を受けたのは何も弁護士だけでなく、その特質はいかなる分野で有意義に利用されているかにかかっているととらえれば、弁護士登録をしない「法曹有資格者」でもよし、とする方向が出ている今、それは、どう考えるべきでしょうか。「改革」が想定しているような弁護士の需要が、その社会的機能の拡大とともに、どんどん広がるような未来図は描けているのでしょうか。
そして、このことは、弁護士自身の独立性や、それを担保する自治という発想から、個々の弁護士を遠のかせる結果を生んでいないでしょうか。巷でいわれる依頼者のおかしな言い分に、盲目的に寄り添い、かつてでは考えられない主張を展開する弁護士の登場(「『ポーズ』弁護士増加の嫌な兆候」 「歓迎できない『従順』弁護士の登場」)。高い会費で支えられる弁護士会の自治は、個々の会員弁護士には、個人の業務の足を引っ張る規制となり、前記弁護士会がなんとか束ねてきた形への、強い不満となって噴出する結果になっています。
有用性のアピールや「開拓」努力は、この本質的特質を支えられるものとして、この「改革」の現状下で、どこまでその成果を見積もれる話なのでしょうか。
大野氏のこの論文は、あくまでわが国の弁護士の職業的階層の形成を歴史的に考察するものですが、最後に弁護士・会の課題として、日弁連の機構的問題(執行機関の貧弱さ)や、日本の弁護士の法廷偏重にたどり着いています。弁護士・会と社会との距離を、「役割を果たし切れていない」という自省からとらえる発想には、弁護士会内「改革」論調に近いものを感じます。ただ、この論文が最初に発表されたのは、1970年のことです(「講座現代の弁護士」第2巻「弁護士の団体」所収)。むしろ、今、改めてこれをみれば、浮かんでくるのは、前記「使命」を持つ弁護士・会の厳しく難しい位置取りと、それをさらに厳しく難しくさせている「改革」の現実の方です。
「弁護士は、医師の場合と異なって、絶対的な共通の敵をもたない」
この言葉に対して、弁護士法1条を想起される方もいると思います。そこに弁護士の使命として掲げられる、弁護士自らがしばしば引用する「基本的人権の擁護と社会正義の実現」。その侵害は、「共通の敵」になり得ないのか。あるいは一般的な感覚としても、もし、弁護士を「正義」と結び付けてとらえるものがあるとすれば、現実はともかく、本来的には(あるべき形としては)医師の「病気」に相当する「敵」に、その侵害を当てはめることが自然とする向きもあるかもしれません。
しかし、大野弁護士は、はっきりと次のように書いています。
「医師の場合、病気に対する闘いは、医師階層にとつての共通の具体的な職業的目的であるが、弁護士の使命とされる『基本的人権の擁護と社会的正義の実現』は、価値的表現であるから、抽象的には共通であっても、現実的にはその内容がかなり異なる」
同弁護士は、例として労使、資本家・有産階級側と社会的弱者の双方につく弁護士の存在を挙げ、もしその一方を「敵」とすれば、「弁護士職務の共通項は存在しなくなる」としています。これは、前記弁護士法1条の使命を知らない弁護士がいないのと同じくらい、弁護士ならば誰でも分かっている、弁護士という仕事の本質的性格といっていいものです。まさに社会のさまざまな「正義」の主張を背負い、敵対することも宿命づけられている弁護士にあっては、使命である「正義」は、現実的な場面では、その侵害・阻害者を絶対的な「共通の敵」とはできない、あるいはしにくい、ということです。
しかも、その一方で、弁護士の場合、こうした職業上の性格こそが、その多様性とか独立性という問題と結び付いています。一方を「絶対的な共通の敵」としないことこそが、多様な社会的な役割を弁護士に与えることになり、そこで前記使命を全うさせるためにこそ、独立性が重要な要素になるということです。
今、このことを考えると、二つの問題が浮かんできます。一つは弁護士会の姿勢です。多様な立場に立つ会員を強制的に加入させている弁護士会が、「人権」を最大公約数的にとらえて、その活動や対外的な意思表明を行ってきた実態は、ある意味、「共通の敵」を設定する発想ということができます(「弁護士会意思表明がはらむ『危機』」 「弁護士の『最大公約数』」)。それは、大野弁護士が表現した、まさしく「価値的表現」としての「抽象的」な共通項で、それこそ「なんとか」束ねてこられた、といっていい弁護士会の現実につながっています。
そして、もう一つの問題は、「司法改革」です。大野弁護士は同書のなかで、弁護士の本質的特質として、①職業としての独立性②専門的知識による社会的有用性の保持③自治能力との密接な関係性④一定の経済的条件によって支えられること――の4点を挙げています。今回の「改革」の結果を改めてみれば、それはこの特質すべてにプラスに作用していないように見えるのです。
増員政策によって、弁護士のプロフェッション性を支える経済的条件は、大きくぐらつきました。大野弁護士は、「職業倫理が経済的利益追求をこえて成立するのは、その職業が一定の経済的条件を満たしている場合に限られる」と喝破していますが、「改革」はこうした現実を果たしてどこまで踏まえたといえるのでしょうか。
同弁護士がいうように、法学教育を受けたのは何も弁護士だけでなく、その特質はいかなる分野で有意義に利用されているかにかかっているととらえれば、弁護士登録をしない「法曹有資格者」でもよし、とする方向が出ている今、それは、どう考えるべきでしょうか。「改革」が想定しているような弁護士の需要が、その社会的機能の拡大とともに、どんどん広がるような未来図は描けているのでしょうか。
そして、このことは、弁護士自身の独立性や、それを担保する自治という発想から、個々の弁護士を遠のかせる結果を生んでいないでしょうか。巷でいわれる依頼者のおかしな言い分に、盲目的に寄り添い、かつてでは考えられない主張を展開する弁護士の登場(「『ポーズ』弁護士増加の嫌な兆候」 「歓迎できない『従順』弁護士の登場」)。高い会費で支えられる弁護士会の自治は、個々の会員弁護士には、個人の業務の足を引っ張る規制となり、前記弁護士会がなんとか束ねてきた形への、強い不満となって噴出する結果になっています。
有用性のアピールや「開拓」努力は、この本質的特質を支えられるものとして、この「改革」の現状下で、どこまでその成果を見積もれる話なのでしょうか。
大野氏のこの論文は、あくまでわが国の弁護士の職業的階層の形成を歴史的に考察するものですが、最後に弁護士・会の課題として、日弁連の機構的問題(執行機関の貧弱さ)や、日本の弁護士の法廷偏重にたどり着いています。弁護士・会と社会との距離を、「役割を果たし切れていない」という自省からとらえる発想には、弁護士会内「改革」論調に近いものを感じます。ただ、この論文が最初に発表されたのは、1970年のことです(「講座現代の弁護士」第2巻「弁護士の団体」所収)。むしろ、今、改めてこれをみれば、浮かんでくるのは、前記「使命」を持つ弁護士・会の厳しく難しい位置取りと、それをさらに厳しく難しくさせている「改革」の現実の方です。



