- 2014年10月12日 09:33
メディアとの接触時間を賢く消費する
(この原稿はYomiuri Online [2014年10月09日]に掲載したものです。文章の一部に手を入れて、ブログにもアップします)。
[要旨]新しいメディアが続々生まれてくると、限られた24時間の生活時間のなかでの「時間の争奪」が始まる。現代人は、平均すると生活の四分の一くらいをメディアと接しながら過ごす。多いとは言えるが、ただ、この時間を「賢くどう使うべきか」という観点からの知見は、まだ十分とは言えない。このとき、メディアの「接触時間を制限」するのではなく、むしろたくさんの情報を浴びるように接しながら、自分の嗅覚をみがいていくほうがいいのではないか。
一日6時間以上のメディア接触
だれにとっても、一日は24時間しかない。その時間の流れのなかで、たくさんのメディアと接触をしている。新しいメディアが登場してきても、生活のリズムのなかで活用される時間が作られなければ普及はしない。つまりは、既存のメディアを押しのけるか、「ながら接触」をするかということになる。
人間の一日の過ごし方をメディア接触との関係で調べたデータは、いくつか存在する。例えば、「博報堂DYメディアパートナーズ社」が毎年発表している『メディア定点調査』(実施はビデオリサーチ社)は、筆者も、大学の授業などでよく参考にさせてもらっている。
最新版の数値を見てみよう。2,086サンプル数が回答した平均値では、ひとりひとりが、合計で「385.6分」を、さまざまなメディアとの接触のために投下しているそうだ(東京地区の数値。大阪だと5分ほど長くなる)。つまり、ひとびとが一日のうちに、新聞、テレビ、ラジオ、雑誌、パソコンやスマホなどに触れている時間を合わせると、このくらいの長さになるのだ。これは「ながら接触」を含む数値なので「テレビを見ながらスマホを操作している」とか「通勤電車で雑誌を読んでいる」行為も、カウントされている。
( 調査報告書:『メディア定点調査2014』[博報堂DYメディアパートナーズ・メディア環境研究所]
http://www.media-kankyo.jp/news/media/20140610_2940.html )
それでも、6時間以上だ。ちょうど、わたしたちの一日の四分の一は、メディアとともにある。人生の長さが仮に80年として、累計で20年分くらいは、メディアに費やされていることになるわけだ。
メディアが増えると接触を制限しがち
一日の行為—————学習とか労働、あるいは食事とか運動とか睡眠とかには、もちろん大切な意味がある。そして「それぞれの時間を有効に消費する」観点からの、指南情報が多い。「健康にとって望ましい食事や睡眠のありかた」や、あるいは「適切な学び方」に関して、知見はたくさんあると言ってもいいだろう。
メディアだって同じだろう。そう思いつつも、筆者なりに考えてみる。
パソコンやスマホの取り扱い(トリセツ的)情報は多いと思えるが、「適切なメディア接触時間の消費」という類いの知見は、はたして広く行き渡っているだろうか。
テレビなどは逆の意味でやり玉にあがりやすく、それゆえに「こどもに見せたくない番組」のようなガイドライン的な情報は結構ある。要は、接触時間を制限すべきだという結論になりやすい。
だが、「こういうふうに(たくさんの)メディアに接すると、人生がもっと豊かになる」という観点からの前向きな情報は、意外と少ないのではないか。「新聞の(上手な?あるいは、正しい?)読み方」とか「心が豊かになるためのテレビ番組のみつけかた」とか、書きだしてみると、一筋縄ではいかないことがわかってくるが、関係者の努力は、まだ足りていないような気がしてくる。
メディアに流れるのは、私たちの好みの総体
すくなくとも、メディアの中身(コンテンツという言葉をここではあえて使わない)とは、つまるところ、わたしたちの関心領域の総体の反映だ。逆に言えば、「テレビはくだらない番組しかない」とか、「もっとこういう大事なことを報道しろ」と問う声は、ある意味「自分たちの好み」の実相を否定していることなのだ。
こどもへの影響も、いろいろ語られてきた。「視力が衰える」、「協調性や集中力が育たない」、「運動量が不足して発育に良くない」など、それぞれには、もちろん根拠がある。
筆者も、幼児期から過剰なメディア漬けにすることは、子育ての良い結果を生まないだろうとは思う。ただ、メディアはそれぞれに個別の特色があるので「賢いメディア消費(時間の使い方)」も、そのぶん、多様なあり方を示すべきだと考えてみたい。
例えばYou Tube には、毎分ごとに、世界全体で50時間分の新しい映像がアップされているという。サーバー容量は、はてしなく拡大を続けている。人間が、すべての時間を投下してもはるかに及ばない、三千倍くらいの情報量が生み出されているわけだ。もともと、極度なミスマッチがある。
「キューレーション」機能のはたす意味はこういう点にも求められるだろうが、だが、「代行して」選択してくれるサービスの可能性を語る前に、もっと自分(最終的なメディアの受け手)の側が、コンテンツを選ぶ基準をしっかり持つ方法を学ぶことが大事ではないのか。たくさんあること自体は、別に悪いことではない。
そして、メディア消費を制限する方向に向かうより、むしろもっとたくさん時間消費することで、自分の判断力や好みを磨いてゆくことをエンカレッジしてゆくのが、健全な方向だという気がする。
「メディアリテラシー」という文脈ではなく、すこし違った言葉づかいで、このことを述べてみたかった。



