戦争の責任は、私の祖父やその弟のような、国民一人一人にもあったという議論もあるだろう。私が高校生のとき、一度、祖父にその議論を吹っかけたことがある。厳格だった明治生まれの祖父が、私の問いかけに重く押し黙る姿を見て、「まずいことを言ってしまった」と後悔した。祖父の弟のように「行かされた者」や、祖父のように長男として家を守り、家族が「行くことを認めざるを得なかった者」と、国民に「行くことを指示した者」を同列に扱うべきではない。
やはり、あの戦争は間違っていた。そして我々は負けたのだ。その結果が東京裁判であり、その判決を受け入れ、わが国はサンフランシスコ平和条約を結んだ。我々は、吉田茂が言うように「良き敗者」として国際社会に復帰する道を選んだのだ。戦争責任を正面から認めるのであれば、戦争責任者が合祀されている靖国神社に国の責任者である総理が参拝するのは筋が通らない。仮に、「戦後レジームからの脱却」がすでに「敗者」ではないことを示すことのみならず、サンフランシスコ体制の否定をも意味するのならば 、それは戦後わが国が進めてきた国際社会との協調の歩みを真正面から否定することになる。そしてこれまで培ってきた日米同盟を含む戦後の外交資産は水泡に帰すであろう。
私は靖国神社に個人として行く。静かに参拝できる時期を選び、戦争責任者とは区別して、国のために命を落とした人々に手を合わせることにしている。新たな追悼施設をつくるという議論があるが、靖国神社に代わる場にはなりえないと思う。
靖国神社は宗教法人であり、分祀には越えなければならない大きな壁が数多く存在している。しかし、我々が最も留意すべきは、79年にA級戦犯合祀が判明してから、天皇陛下が一度も靖国参拝されていないという事実だ。陛下に戦争責任が及ぶことを恐れていた多くの戦争責任者たちは、このような事態を望んでいただろうか。命をささげた英霊の多くが望んでいるであろう陛下の参拝が途絶えたままなのだ。私は、新たな環境を整える努力をすることで、未来への責任を果たしていきたいと思う。
⑶環境・文化という価値
現在、環境は国際社会における要素の一つにとどまっているが、今後は、環境こそが主流となっていくであろう。環境はすでに経済の主流となっている。ソフト化の進展は環境産業の拡大に直結しているが、「もの」の分野においても、環境面での先進性が付加価値に直結する時代に入っている。
環境は安全保障においても最も重要な要素となっている。国益がぶつかり合うエネルギーには、必ず環境問題が付いて回る。環境負荷の少ないエネルギーの開発に成功した者は、安全保障上、最強のカードを持つことになる。今後は、宇宙、海洋などグローバルコモンズの領域を含め、国益をかけた開発競争の時代に入るだろう。地球温暖化は大規模災害や食糧問題に直結している。健康に直結している大気汚染もすでに安全保障の問題と言えるだろう。
日本には、省エネやコジェネはもちろんのこと、電気自動車や燃料電池自動車、地熱発電、石炭ガス化やCCS(二酸化炭素貯留)など、投資を加速することで世界の先頭を行く技術が数多く存在している。環境こそわが国が最も国際競争力を有している分野であり、成長の源でもある。
環境は国際貢献の手段としても最有力の分野である。深刻な原発事故を経験したからこそ、わが国はすぐれた環境技術をさらに発展させ、自然と共生する文化や生き方と共に、世界に広めていくべきである。PM2.5による大気汚染などの環境の分野での協議を加速させることで、膠着状態に陥っている日中韓の外交をリスタートさせるきっかけにもなる。