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- 2014年09月11日 16:52
ロンドン五輪の輝きをすくいとった専属画家に聞く
2/2現実を切り取るジャーナリズムに近い
ーしかし、誰が描くかによって、同じものでも描写は大きく異なるだろう。1つの決まった答えがあるわけではない。すべてが描き手の頭と手から生み出される。今回はあなたを通して生み出される。
ボリスは、五輪画家は戦争画家のようなものだと言ったよ。戦争で、25-30人ぐらいの画家が戦地に派遣され、描く。それぞれが異なる作品を作る。一人ひとりが見たものを描いている。
ロンドン五輪も他の人がやっていたら、まったく別の作品になっただろう。同じものを描く対象としていないだろう。
私がやろうとしていたのは芸術を作っていたわけではないと思う。現実を切り取るジャーナリズムだったともいえるだろう。
ボリスが言ったのは、五輪のグラフィックな記録を作ってくれ、と。私の今回の作品を見た人に五輪の様子を伝えたかった。一体どんな感じだったのかを。
「芸術」という言葉に対して、私はとても神経質になる。どこからが芸術でどこからが芸術でないのか、よく分からないからだ。
ー最終的に作品を仕上げたのはいつか?
ロンドン市が五輪から1年後の2013年7月末、記念イベントを企画した。そこで私の作品も市庁舎に展示された。
しかし、市の担当者たちには展示のやり方や本の売り方について専門知識があるわけではないので、やり方がまずかったと思う。私の友人たちでさえ、展示があったことや、本が出たことを知らないでいた。
その一方で、ボリスは作品を販売したがっていた。実際に一部は販売された。しかし、先のリチャード・ドーメントが売るなと言った。作品群全体が1つの作品として意味があるのだ、と。年月が経つうちに価値が増すだろう、と。
―全部で作品の点数はどれぐらいか?
あるキュレーターによると、紙に描いたものはすべて「ドローイング」と言うそうだが、絵の具を使ったものを「ペインティング」と呼ぶならば、ペインティングが50でスケッチが350ぐらいだ。報道用パスも含め、ほぼすべてをロンドン博物館に寄付したよ。
―作品は絵の具を使ったもの、鉛筆によるスケッチ、エッチング、木版印刷などバラエティーに富んでいる。
作品全体がオーケストラのようになればいいと思った。
日本の俳画に惹かれて
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―日本の俳画(俳句を賛した簡略な絵)の複製や木版印刷の作品がたくさん自宅内に飾られているが。
日本の木版印刷にはずいぶん前から関心を抱いてきた。よく他のアーチストの作品を自分なりに複製する。とても面白い作業だよ。他人の作品をなぞることで、その人についてたくさんのことを学ぶことができる。その人が仕事をする際の原則を学ぶ。なぞっていると、時々、その人の手が自分の手に乗り移って描いているような思いがする。
日本の木版印刷には2つの流れがあると思う。1つは葛飾北斎のような、細かいところまで精緻に描くやり方だ。もう1つは俳画に代表されるような、いかにもあっという間に描いたような作品だ。見た目はシンプルだが、大きな活力がある。生を描いて、美しい。こっけいな感じもあるが、人生の生き生きした様子を伝えている。
私自身が、細かく、注意深く、形式にのっとって描くタイプなので、俳画のように自由闊達に描けたらと思い、自分なりになぞった作品を作ってみた。最近はダンボール紙に描いて、これに色を塗り、絵画に貼り付ける試みをしている。
―描く作業は一生続きそうだ。
そうなるだろうね。
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ニコラス・ガーランド(Nicholas Garland)氏:1935年、ロンドンのハムステッド生まれ。11歳のときに一家はニュージーランドに移住。19歳でロンドンに戻り、英国でトップクラスのアートスクール、「the Slade School of Fine Art」に進学。卒業後、ロイヤル・コート劇場で芸術監督として勤務後、政治週刊誌「スペクテーター」やジョークが満載の「プライベートアイ」などで漫画を描き出す。1966年、保守系全国紙デイリー・テレグラフの風刺画家に。1986年、左派系のインディペンデント紙が創刊されたのと同時に、「新たな挑戦を求めて」、一時インディペンデントへ。数年働いた後、テレグラフに戻り、2011年まで勤務。1960年代半ば、テレグラフで勤務を開始したときは、絵を描くことに興味はあっても、新聞の風刺画はどうあるべきか何を描くのかなどについては「完全に無知で、職場の仲間に一から教えてもらった」という。その風刺画は文学や芸術作品にヒントを得たものが多く、「もっとも文学的な風刺画家」と評されたことがある。左派系雑誌「ニュー・ステーツマン」にも風刺画を提供。1998年、大英帝国勲章を受章。参考:英カートゥン・アーカイブにあるバイオグラフィー



