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- 2014年09月11日 16:52
ロンドン五輪の輝きをすくいとった専属画家に聞く
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2012年の夏に開催されたロンドン五輪とパラリンピック大会。当時、ロンドンを中心として英国内に独特のお祭りムードが発生した。開催前は開催費用が大きすぎる、準備が遅い、警備体制が不十分などさまざまな問題点が指摘されたものの、いったんふたを開けてみると、1948年以来のロンドンでの五輪・パラリンピックの開催を成功させようと、英国民が一丸となったスポーツの祭典が繰り広げられた。
通りに出ればボランティアたちが競技施設への案内をしており、駅構内にはロンドンに海外からやってきた人たちを助けるためのコーナーができた。テレビやラジオは五輪に関する番組で埋め尽くされた。
2年が過ぎたが、世界的な大会を開催できたことへの静かな自負や幸福感が満ち満ちた日々のことを英国民は忘れていない。
大会の様子を記録するために、ロンドン市長からじきじきに「五輪専属画家」の仕事を依頼されたのが、新聞の政治風刺画家として長い経験を持つ、ニコラス・ガーランド氏(79歳)だ。その作品群が9月28日まで、「ロンドン博物館」(ミュージアム・オブ・ロンドン)で展示中だ。 ロンドンを訪れた際には、足を伸ばしてみてはいかがだろうか。作品は書籍「ゲームを描く」(Drawing the Games: A Story of London 2012 Commissioned by the Mayor of London)としてもまとめられている。
***
2012年7月末から9月まで続いた五輪とパラリンピックをどのようにして取材し、アート作品として生み出したのかを同氏のロンドンにある自宅兼スタジオで聞いてみた。
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(写真左:ニコラス・ガーランド氏。撮影はロンドン在住の写真家Minako Iwatakeが担当)
―(ボリス・)ジョンソン市長からの依頼はどのような形で始まったのか。
ニコラス・ガーランド氏:ボリスとは20年以上から仕事仲間だった。自分は全国紙デイリー・テレグラフの風刺画家であったし、ボリスは同じ新聞でコラムを書いていた。政治週刊誌「スペクテーター」の編集長にボリスが就任したとき、自分は表紙を描いていた。
3年前にテレグラフを辞めたとき、友人たちが晩餐会を開いてくれた。そのとき、ボリスが突然こう言った。「アイデアがあるんだ。五輪がロンドンで始まったら、君を五輪専用画家に指名するよ」。翌2012年のロンドン市長選で「もし自分が再選されたら」という条件付きだった。
12年5月に再選してから、電話があって「頼むよ」と。当時、自分は仕事を辞めていたから、これからどうしたらよいのかなと思っていたところに新しい仕事を任された。うれしかったよ。正式に仕事を依頼されたのは7月に入ってから。あと2-3週間で五輪が始まるところだった。
―ジョンソン市長は2008年から現職にいるが、次期首相の座を狙っているとも言われている。市長になる前は国会議員、ジャーナリストで、テレビの風刺番組に出て笑いを誘っていた。ぼさぼさの金髪で小太り。ジョークを連発し、周囲からは「道化」として捉えられていた。実際にジョンソン氏を知る一人として、彼はどんな人物か、日本の読者のために説明して欲しい。
2つの大きな特徴があると思う。実際に会うとすぐに分かるが、非常に魅力的な人物だ。話をすれば、誰もが心惹かれてしまう。もう1つは非常に頭脳明晰であることだ。
欠点もある。ジャーナリストとしては原稿を出すのが非常に遅いことで知られていた。編集者は原稿ができるまでかなり待たされた。でも、ボリスはまったく気にしない。
人を魅了するのだけれども、同時に周囲の人が気にかけていることについてはまったく意にもかけないーそんな性格だ。非常に自己中心的でもある。自分のことしか考えていない。面白くて頭がいい男だがー。
キャメロン現首相と出身校が同じだが、キャメロンのほうは2歳年下だ。それなのに首相になったことを非常に悔しく思っているようだ。なれるかどうかは分からないが、首相職を狙っているんじゃないかな。実際になれるかどうかは疑問だがー。
首相ともなれば、国家の将来について重要な決定をしなければならなくなる。道化役から脱して、本当に真剣になれるのかどうかー?自分自身も分かっていないかもしれない。
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―正式に五輪画家に指名されてからやったことは?
どんな機材が必要になるのか、皆目見当がつかなかったので、同様の仕事をしたことがある友人の風刺画家ポージー・シモンズ(Posy Simmonds)に電話した。3つのアドバイスをくれた。
1つは描く用具を入れるかばんを用意すること。床に置いて倒れないようなかばんだ。
2つ目は色鉛筆を準備すること。どんな色だったかをさっとスケッチできるように。
3つ目は誰かが面白いことを言うのを聞いたら、書き取ること。後で情景が思い浮かぶからだ。
ー実際にどのように作業が進んだのか。
毎日、複数の競技施設でいくつもの競技が行われている。全部見るのは無理だから、明日はこれとこれをここでみてと毎日決めて、会場を回った。できうる限りバラエティーに富んだ競技を見ようと思った。
―競技場を回るのなら、ずいぶんと体が健康でないとー?
確かに、だいぶ歩いたよ。五輪公園自体が非常に大きい。あちこちで列になっている聴衆の姿を見た。非常にいい雰囲気だった。その場所にいることで興奮していた人たちだ。家族連れ、子供、老人、いろいろな人がいたよ。
―競技場で見た印象は?
自分には報道用パスが渡された。これでどこの競技場にも入っていけたが、座るのはプレス用の席だ。実際に選手がいる場所からは何百メートルも離れている。また、競技の勝ち負けはあっという間に決まってしまう。場面の様子をスケッチすることはできるが、詳しく描くことはできないなと思った。
しばらくして、描く対象は競技ではなくて、競技が行われているロンドンでもあると思うようになった。
五輪開催時、ロンドンは変わった。特別な雰囲気があった。カーニバルのような。どこを見ても普段とは違っていた。五輪が開催されていた東部にはたくさんの人がいたが、西部はひっそりしていた。地下鉄には世界中からやってきたさまざまな人がいた。全員が同じ場所に向かっていた。興奮を共有していた。興奮の中心となるのは選手なのだけれども、その周囲、ロンドンに影響を及ぼしていた。その全体の雰囲気に心を打たれた。
―開催前に文句を言っていた人が黙ったのは、開会式からだったと思う。
そうだった。
―シニシズムが消えた。
自分自身も開催前はシニシズムで一杯だった。批判的な目で見ていた。準備が悪かったし、愛国主義的な応援も嫌いだった。商業的だとも思った。開会式の後は、商業主義の脇で、別の、もっと大きなことが起きていると感じて、考えを改めた。
―開会中はスケッチをして、すべて終わってから実際に描き始めたといことか?
そうだ。閉会後、作品仕上げるまでに何週間もかかった。最初は会場でなるべく早く描こうとしたが、うまくいかなかった。時間を掛けて仕上げるしかないと思った。スケッチのほかには写真も撮った。人物の背景に何があったかなどが思い出せるように。閉会後にスケッチブックや写真、記憶を頼りに描き出した。
ー難しかったところは?
仕事をもらったとき、何を描いたらよいのか分からなかったことだ。どうやってやるべきか、最後にどんな作品を生み出すべきなのかも。
新聞や雑誌の風刺画家のときは違っていた。何を描くかが分かっていたし、締め切りがあった。媒体をよく知っていた。五輪を描く作業では、最初から自分の頭で考える必要があった。ずいぶんと心配したものだよ。何ができるのか、やり方を思いつけるだろうか、スケッチブックに十分な材料があるかどうか?毎日、心配していた。観戦を楽しんではいたけれど、同時に心配だった。十分なものを得ているのかどうか、分からなかった。
何をするべきかが見えてきたのは、パラリンピックの途中からだ。この時からものすごく楽しくなった。もっと前から分かっていれば、と思ったよ。
―前例がない?
シモンズは音楽祭のスケッチをしたし、短期間何かのイベントを描くというのは他の人もやっているだろうと思う。しかし、五輪の画家というのはいなかったのではないか。
テレグラフの芸術批評家のリチャード・ドーメントが言っていたが、前回1948年のロンドン五輪を誰かが芸術作品として記録していて、現在のものと比べることができたら、どんなに面白いだろう、と。2012年と1948年のロンドンでは風景がまったく異なる。
2012年の夏に開催されたロンドン五輪とパラリンピック大会。当時、ロンドンを中心として英国内に独特のお祭りムードが発生した。開催前は開催費用が大きすぎる、準備が遅い、警備体制が不十分などさまざまな問題点が指摘されたものの、いったんふたを開けてみると、1948年以来のロンドンでの五輪・パラリンピックの開催を成功させようと、英国民が一丸となったスポーツの祭典が繰り広げられた。
通りに出ればボランティアたちが競技施設への案内をしており、駅構内にはロンドンに海外からやってきた人たちを助けるためのコーナーができた。テレビやラジオは五輪に関する番組で埋め尽くされた。
2年が過ぎたが、世界的な大会を開催できたことへの静かな自負や幸福感が満ち満ちた日々のことを英国民は忘れていない。
大会の様子を記録するために、ロンドン市長からじきじきに「五輪専属画家」の仕事を依頼されたのが、新聞の政治風刺画家として長い経験を持つ、ニコラス・ガーランド氏(79歳)だ。その作品群が9月28日まで、「ロンドン博物館」(ミュージアム・オブ・ロンドン)で展示中だ。 ロンドンを訪れた際には、足を伸ばしてみてはいかがだろうか。作品は書籍「ゲームを描く」(Drawing the Games: A Story of London 2012 Commissioned by the Mayor of London)としてもまとめられている。
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2012年7月末から9月まで続いた五輪とパラリンピックをどのようにして取材し、アート作品として生み出したのかを同氏のロンドンにある自宅兼スタジオで聞いてみた。
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(写真左:ニコラス・ガーランド氏。撮影はロンドン在住の写真家Minako Iwatakeが担当)
「アイデアがある」とロンドン市長
―(ボリス・)ジョンソン市長からの依頼はどのような形で始まったのか。
ニコラス・ガーランド氏:ボリスとは20年以上から仕事仲間だった。自分は全国紙デイリー・テレグラフの風刺画家であったし、ボリスは同じ新聞でコラムを書いていた。政治週刊誌「スペクテーター」の編集長にボリスが就任したとき、自分は表紙を描いていた。
3年前にテレグラフを辞めたとき、友人たちが晩餐会を開いてくれた。そのとき、ボリスが突然こう言った。「アイデアがあるんだ。五輪がロンドンで始まったら、君を五輪専用画家に指名するよ」。翌2012年のロンドン市長選で「もし自分が再選されたら」という条件付きだった。
12年5月に再選してから、電話があって「頼むよ」と。当時、自分は仕事を辞めていたから、これからどうしたらよいのかなと思っていたところに新しい仕事を任された。うれしかったよ。正式に仕事を依頼されたのは7月に入ってから。あと2-3週間で五輪が始まるところだった。
―ジョンソン市長は2008年から現職にいるが、次期首相の座を狙っているとも言われている。市長になる前は国会議員、ジャーナリストで、テレビの風刺番組に出て笑いを誘っていた。ぼさぼさの金髪で小太り。ジョークを連発し、周囲からは「道化」として捉えられていた。実際にジョンソン氏を知る一人として、彼はどんな人物か、日本の読者のために説明して欲しい。
2つの大きな特徴があると思う。実際に会うとすぐに分かるが、非常に魅力的な人物だ。話をすれば、誰もが心惹かれてしまう。もう1つは非常に頭脳明晰であることだ。
欠点もある。ジャーナリストとしては原稿を出すのが非常に遅いことで知られていた。編集者は原稿ができるまでかなり待たされた。でも、ボリスはまったく気にしない。
人を魅了するのだけれども、同時に周囲の人が気にかけていることについてはまったく意にもかけないーそんな性格だ。非常に自己中心的でもある。自分のことしか考えていない。面白くて頭がいい男だがー。
キャメロン現首相と出身校が同じだが、キャメロンのほうは2歳年下だ。それなのに首相になったことを非常に悔しく思っているようだ。なれるかどうかは分からないが、首相職を狙っているんじゃないかな。実際になれるかどうかは疑問だがー。
首相ともなれば、国家の将来について重要な決定をしなければならなくなる。道化役から脱して、本当に真剣になれるのかどうかー?自分自身も分かっていないかもしれない。
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「何が必要なのか、見当がつかなかった」
―正式に五輪画家に指名されてからやったことは?
どんな機材が必要になるのか、皆目見当がつかなかったので、同様の仕事をしたことがある友人の風刺画家ポージー・シモンズ(Posy Simmonds)に電話した。3つのアドバイスをくれた。
1つは描く用具を入れるかばんを用意すること。床に置いて倒れないようなかばんだ。
2つ目は色鉛筆を準備すること。どんな色だったかをさっとスケッチできるように。
3つ目は誰かが面白いことを言うのを聞いたら、書き取ること。後で情景が思い浮かぶからだ。
ー実際にどのように作業が進んだのか。
毎日、複数の競技施設でいくつもの競技が行われている。全部見るのは無理だから、明日はこれとこれをここでみてと毎日決めて、会場を回った。できうる限りバラエティーに富んだ競技を見ようと思った。
―競技場を回るのなら、ずいぶんと体が健康でないとー?
確かに、だいぶ歩いたよ。五輪公園自体が非常に大きい。あちこちで列になっている聴衆の姿を見た。非常にいい雰囲気だった。その場所にいることで興奮していた人たちだ。家族連れ、子供、老人、いろいろな人がいたよ。
―競技場で見た印象は?
自分には報道用パスが渡された。これでどこの競技場にも入っていけたが、座るのはプレス用の席だ。実際に選手がいる場所からは何百メートルも離れている。また、競技の勝ち負けはあっという間に決まってしまう。場面の様子をスケッチすることはできるが、詳しく描くことはできないなと思った。
しばらくして、描く対象は競技ではなくて、競技が行われているロンドンでもあると思うようになった。
五輪開催時、ロンドンは変わった。特別な雰囲気があった。カーニバルのような。どこを見ても普段とは違っていた。五輪が開催されていた東部にはたくさんの人がいたが、西部はひっそりしていた。地下鉄には世界中からやってきたさまざまな人がいた。全員が同じ場所に向かっていた。興奮を共有していた。興奮の中心となるのは選手なのだけれども、その周囲、ロンドンに影響を及ぼしていた。その全体の雰囲気に心を打たれた。
―開催前に文句を言っていた人が黙ったのは、開会式からだったと思う。
そうだった。
―シニシズムが消えた。
自分自身も開催前はシニシズムで一杯だった。批判的な目で見ていた。準備が悪かったし、愛国主義的な応援も嫌いだった。商業的だとも思った。開会式の後は、商業主義の脇で、別の、もっと大きなことが起きていると感じて、考えを改めた。
―開会中はスケッチをして、すべて終わってから実際に描き始めたといことか?
そうだ。閉会後、作品仕上げるまでに何週間もかかった。最初は会場でなるべく早く描こうとしたが、うまくいかなかった。時間を掛けて仕上げるしかないと思った。スケッチのほかには写真も撮った。人物の背景に何があったかなどが思い出せるように。閉会後にスケッチブックや写真、記憶を頼りに描き出した。
ー難しかったところは?
仕事をもらったとき、何を描いたらよいのか分からなかったことだ。どうやってやるべきか、最後にどんな作品を生み出すべきなのかも。
新聞や雑誌の風刺画家のときは違っていた。何を描くかが分かっていたし、締め切りがあった。媒体をよく知っていた。五輪を描く作業では、最初から自分の頭で考える必要があった。ずいぶんと心配したものだよ。何ができるのか、やり方を思いつけるだろうか、スケッチブックに十分な材料があるかどうか?毎日、心配していた。観戦を楽しんではいたけれど、同時に心配だった。十分なものを得ているのかどうか、分からなかった。
何をするべきかが見えてきたのは、パラリンピックの途中からだ。この時からものすごく楽しくなった。もっと前から分かっていれば、と思ったよ。
―前例がない?
シモンズは音楽祭のスケッチをしたし、短期間何かのイベントを描くというのは他の人もやっているだろうと思う。しかし、五輪の画家というのはいなかったのではないか。
テレグラフの芸術批評家のリチャード・ドーメントが言っていたが、前回1948年のロンドン五輪を誰かが芸術作品として記録していて、現在のものと比べることができたら、どんなに面白いだろう、と。2012年と1948年のロンドンでは風景がまったく異なる。



