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【UNHCRからこんにちは〜職員インタビューvol.1/中村恵さん〜】

都心中心部に所在する協会オフィスにて、自宅の庭から獲れたての大葉やブルーベリーを持ってきては、スタッフにシェアしてくださる、中村さん。

今では、趣味の域をこえて、自宅の庭での無農薬菜園づくりが生活の一部となっているそうです。

元は都会育ちの中村さんに菜園作りへの興味をわかせてくれたのは、UNHCR職員時代の赴任地ミャンマーでの体験。

外資系企業システムアナリストからUNHCRへ転職、ジュネーブ本部勤務、ミャンマー赴任…今日の国連UNHCR協会での勤務に至るまでを、難民支援活動の大ベテランにお話をききました。

Q:元々、難民問題に関心があったのですか?どうしてUNHCRに?

A:幼い頃は、難民問題には特に関心はなかったのが本当のところです。実は、国連に入ったのも、外資系証券会社でシステムアナリストとして勤務していた頃、知人から「応募したらどう?」って突然、国際電話がかかってきたのがきっかけでした。当時、日本でまだ個人がパソコンを持っていない時代に、外資系の会社では、既に社内でEmailも導入されていて、その時代ではわりと最先端の技術を使った仕事をしていました。また、フランスに留学した経験があったので、フランス語も話せたことにより、「英語とフランス語ができて、コンピューター系のことに強い人」を募集していたので、その知人がわざわざ国際電話をかけておススメしてくれたわけです。そこまでしてくれるならというのと、何かしら人の役に立ちたいという思いは昔からあったので、応募したところ、1989年の3月末にUNHCRに就職することになりました。最初は、いったいUNHCRって何をやっているところ?という感じだったんです。

Q:実際に、働き始めた頃はどんな感じでしたか?

A:スイスのジュネーブ本部で勤務することになり、コンピューター系のサポート業務がメインでした。データーベースの管理とか、システム部門とユーザー部門の橋渡し業務とかです。それまで、難民問題を専門に勉強してきたわけではなかったので、当初はこの組織が具体的に何をどのようにやっているのかよくわかりませんでした。ただ、学生時代の留学経験のおかげで、いろいろな国の人たちと混じり合って仕事をすることには慣れていました。

Q:1990年代初頭、「 UNHCRがなくなるかもしれない」という噂が流れたそうですが、なぜですか?

A:私がUNHCRに就職した1989年頃は、世界史の大展開の時代だったんです。

1989年の11月にベルリンの壁が崩壊し、1990年になるとUNHCRが資金難からリストラを始めたのです。東西冷戦が終わることで、難民問題はこれから減るだろうと思われていたからかもしれません。元々、難民問題というのは、東から西への人の流れがあり、難民を西側で受け入れるという大枠でとらえられていたため、ベルリンの壁が崩壊し、これから東西冷戦が終わっていくということは、難民問題も解決にむかい、難民の人たちも自分の国に帰っていけるだろうと思われていました。

私の周りでも、退職する人や、ポストカットされる人もいました。実は私のポストもカットされましたが、システム部門が人材を募集していたため、そこに移動することになりました。

Q:4年間ジュネーブ本部で勤務されていたということですが、東京事務所に転勤したきっかけは何ですか?

A:新しい部署に移ってすぐ、次の新しい高等弁務官として1991年2月に緒方貞子さんがやってきました。日本人女性の登場に、とてもびっくりしました。

緒方さんが着任してまもなく、1991年に湾岸戦争、1992年にバルカン紛争が始まり、すごく大変な時代がやってきました。私自身も、それまで、難民問題について深いところまでわかっていなかったのですが、もっとちゃんと理解したいと思っているときに、東京の駐日事務所で民間から寄付を集めるポストが創設され、そのポストならお役にたてるかもと思い応募してみました。

Q:それまでのジュネーブでのコンピューター関連の業務とはだいぶ変わりますが、東京で働いてみて、ご自身の中でどんな変化がありましたか?

A: UNHCRがどういう活動を行っている組織なのか、ようやく全容が見えるようになりました。ジュネーブにいるときは、大きな組織の一部門にいて、もちろん日々の仕事はプロフェッショナルとしてやっていたものの、なかなか全容が見えにくかったんです。

東京にきて、UNHCRの活動を人に説明するのが主な仕事のような部署にいたので、人に理解してもらえるよう、自分でもよく勉強して、初めてしっくりきました。

世界にはいろいろな問題が起きていますが、実は自分も関わりの中にいる一人の人間であり、いろいろなことが繋がっているのだという実感がわいてきました。昔は、テレビや新聞を読んでも、様々な出来事は、外の世界の事って感じだったと思います。UNHCRという組織が社会で起きている様々なことに敏感に影響を受ける組織だったため、全体の動きを感じながら働くことができて、その上、トップに緒方貞子さんという日本人女性がいて、年に何回か日本に帰ってくるというのも大きかったです。世界にすごく自分が関わっているという感覚をもって、一生懸命仕事をさせていただきました。

Q:4年間、東京の駐日事務所で勤務された後、ミャンマーに赴任されたとのことですが、きっかけは何だったのですか?

A:実は、4年間の東京勤務は、とてもやりがいのあるものだったのですが、頑張りすぎて、くたびれてしまいました。労働時間も長かったので、体調もおかしくなり、1年程、休職することにしました。

その休職中に、内閣府の青年国際交流事業「東南アジア青年の船」に、ナショナルリーダーとして乗船することになり、東南アジアをまわり、東南アジアが好きになりました。そんな時、ミャンマーに赴任しませんか?というオファーの電話をUNHCR本部から受けました。

UNHCRのフィールドで勤務する職員は、時々、日本に一時帰国すると駐日事務所を訪れ、現地での話を聞かせてくれるのですが、その方々の話を聞くたびに、自分は、出張でブータンの難民の方々がいるネパールに行ったことはあるものの、やっぱり最前線を知らないって思っていたんです。赴任先はミャンマーのマウンドーという、学校も、医療機関もない、未開発の地域に宿舎がある奥地での任務というのは聞いていたので、すごく不安でしたが、UNHCR職員として本当の最前線フィールドに挑戦しないで辞めてしまうと、一生後悔すると思い、勇気をだして思い切って応募しました。

Q:ミャンマー赴任中は、どのような任務を遂行されていたのですか?

A:ミャンマーには 97年12月初めから、99年まで約1年半赴任していました。そこは、難民キャンプではなく難民が帰還した地域でした。ミャンマー北西部ラカイン州では、そこに住んでいたムスリム系の人たち約25万人が1992年頃に、バングラデシュに逃げて難民キャンプで暮らしていたのですが、私が赴任した1997年頃には、既に約23万人が帰ってきていました。そこで、私たちは、帰還した人々の“re-integration(再統合)”をサポートするプロジェクトを進めていました。

全く開発されていない極貧地域のため、あちこちにかかる橋もボロボロで、渡る時にはこの橋崩れるのではないだろうかと心配になるくらいで、平均台のような橋を渡ったり、相当、ワイルドな生活を送っていました。

Q:ミャンマー赴任中、業務上、大変だったことはどんなことですか?

A人道支援として、帰ってきた人たちが、ひとまずそこで再定着するための支援を行っていました。難民を返しても、すごく食糧が不足する時期もあるし、仕事もないし、ものすごく貧しいし、かつ、ミャンマーの軍隊も駐屯していて、一歩間違えると、またその人たちが難民として流出するという繰り返しになりそうな危険な状況が続いていました。そこにUNHCRが存在することが抑止力になっているという状態だったのです。ミャンマー人のローカルスタッフからは、「やっぱりUNHCR居てくれることに価値がある」、「いなくなったら自分も国外に脱出する!」と言われることもありました。常時、不安定な情勢でした。イスラム圏と仏教圏が入り混じっていて、歴史的にも複雑な地域でした。

世界各国から職員が集まっていましたが、職員の出身国によっては、その地域ならではの偏見の影響を受けることもあり、そこに暮らしてみないとわからない、センシティブなことがいっぱいあるということを知りました。

Q:ミャンマー赴任中、生活の中で、大変だったことはどんなことですか?

A:環境が厳しかったので、ほとんど毎月のように下痢をし、予防接種だけでも、何本も打うちました。捻挫をして松葉杖生活も体験しましたし、日本では考えられないくらいインフラは脆弱でした。食事も水も悪い。電話の設備もなく、衛星電話が切れてしまったこともあり、外の世界とのコミュニケーションが完全にとれなくなってしまったこともありました。マラウィ、フィリピン、ベトナム系のアメリカ、フランス、中国…10カ国ぐらいから、いろんな国出身の同僚がいたのですが、万が一、なんらかの事件で全員がここで死亡して遺体が一緒に埋まってしまったら・・・、何百年後にこの辺りが発掘されたとき、いろんなDNAを持つ骨が見つかって不思議がられちゃうかもねという話を、同僚としていたくらいです。

Q:そんな多国籍チームでチームワークを築くのが難しかったり、喧嘩したりしたことはなかったのですか?

A:ありました(笑) スーダン人の同僚と意見の食い違いで衝突をし、疲れていたので、言い過ぎてしまい…。後から謝り、二人で田んぼを見ながら、「We have to help each other, We have to rely on each other」なんて言いながら、慰めあったのをよく覚えています。

そこに集まったメンバーは、たとえ国やバックグラウンドが違っても、みんな難民支援という共通の目的をもっていたので、チームワークは築きやすかったと思います。

皆、何とか少しでも物事をよりよくしていこうという気持ちはすごく強かったです。毎日の仕事が終わっても、自分の本当の家に帰れるわけではなく、外の世界とのアクセスも殆どない環境でした。なおさら、そこにいる同僚が仲間であり、何かあったらお互いに助け合わなければと思っていたので、たとえ対立することがあっても、ちゃんと和解して仲直りするようにしていました。

次回はインタビューの第2弾をアップしたいと思います。楽しみにしていてください。

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