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演劇から、「時代の裂け目」が見えてくる / 演出家・蜷川幸雄氏インタビュー1

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主張するということ、何かをつくるということは、時代や社会と斬り結ぶことでもある。表現と権力は常に複雑に絡み合う。60年に届こうかという演劇のキャリアを持ちながら、古川日出男、前川知大らの戯曲や、カズオ・イシグロの舞台化、ライフワークとも言えるシェイクスピア劇の上演など、挑戦の姿勢を崩さない演出家・蜷川幸雄氏に、「演劇と力」をめぐって話を聞いた。(聞き手・構成/島﨑今日子)

演劇は衝動をそのまま表せるメディア

―― 蜷川さんのお育ちになった環境には、ずっと芝居があります。子どもの頃から歌舞伎や文楽をご覧になっていて、高校では新劇。なのにまっすぐ演劇に進まれたわけではなくて、まずは絵をやろうと東京藝術大学を受験されて。

落ちました。

―― 絵は、一浪してでも二浪してでも進みたい道ではなかったのでしょうか。

なかったですね。開成高校の時代から、友人たちと一緒に新劇はよく見てたんですね。演劇がおもしろくって。藝大を受けたのは、高校一年で、学校や受験に反発して学校をさぼりがちになって落第してるから、他にやることもなくて、とりあえず一番身近にあるクリエイティブな仕事って絵を描くことだなあと思ったから。ですから、美術大学を受験するための予備校にも、塾みたいなところにも行ってない。本当に画家になりたいかと言ったら、そうでもなくって。

絵を描いていると、はがゆい思いをしてくるんですね。

―― そのはがゆさっていうのは、何なんでしょう。

高校時代って、生理的にも荒れ狂っているんだと思うんですけども、絵は身体のうずきを解決してくれない。たとえば、どんなに内面的な嵐があっても、激しいタッチで絵を描けばそういうものが反映されるかといったら、そうじゃない。絵は、細かい手作業の積み重ねで成立していくことが多いので、身体とズレるんですよね。体の中の衝動的なものと、メディアとしての絵の手法がズレる。

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そんなときに、三越劇場にぶどうの会[*1]の『蛙昇天』という芝居を見に行ったんですよ。山本安英さんが、「戦争は嫌です!」みたいな生々しい台詞を言いながら客席を走り回っているのを見て、これはおもしろいなあと思った。おもしろいっていうか、演劇って、衝動的なものをそのまま表せるメディアなんだなと思った。じゃあ、俳優になろうかなと思ったんです。ものすごい決意があったわけじゃなくってね。

[*1] ぶどうの会は1947年、山本安英、劇作家木下順二らによって結成。リアリズム演劇を追究した。64年解散。『蛙昇天』は、当時社会を揺るがせた「徳田要請問題(シベリア抑留引き揚げ者の一部が、当時の共産党書記長徳田球一が引き揚げを妨害したと主張し訴えた事件。通訳を務めた哲学者の菅季治が自殺した)」を題材にした木下順二の戯曲。

―― 当時は、サラリーマンや公務員という安定した職業に就きたいというのが一般的でしたよね。あるいは、ご実家のテーラーを継ぐという選択はなかったんでしょうか。

一浪してるし、そもそもそういう発想は全然なかった。親もそういうものは望んでいませんでした。「俳優の研究生みたいなのをやってみようかな」って言ったら、母親は「ああ、いいよ」と言ったんですね。きょうだいが多かったし、末っ子だったから、「別にあなたに過大な期待をしているわけじゃないから、自由にやれば」って。で、劇団青俳[*2]を受けたら、受かった。

[*2] 1952年、岡田英次、木村功、織本順吉、金子信雄らによって青年俳優クラブとして結成。54年、劇団青俳に。79年解散。

―― 青俳の試験では、演技力よりも発想がよくて、そこを買われて受かったという話ですけれど。

そうそうそう。つるべで水を汲むというのと、浅い川を渡るという、エチュードの出題があったんですよ。そう言われたから、ズボンをめくったり、「つるべの水だから、こうかな」とか考えてやったりしたんですけど、上手いはずがないんですよ。なんの訓練も受けていないし、エチュードなんて知らないから。

エチュードのほかに、言葉の連想ゲームみたいな試験があった。「ライオン」と聞かれて、「割れたスイカ」と答えたんですね。スイカが割れれば真っ赤で、ライオンの開いた口にそっくりだから。受かってから、劇団員の人に「おまえの発想は、カラフルだ。色彩が多い。それがおもしろかった」と言われたので、それで入ったのかなと自分では思ってるんです。

自分がのちに演出家になっても思うんですが、俳優を選ぶときって、まあ、そんなに決まった基準があるわけじゃない。演技力で言えば、演劇経験がある人がある程度上手くできるわけですね。だから研究生を選んだ青俳の劇団員たちは、自由だったんだろうと思う。

―― 当時は文学座[*3]、俳優座[*4]、民藝[*5]が新劇の三大劇団と言われていました。他にもたくさんある劇団の中から青俳を選んだ理由は、その自由さゆえということになるのでしょうか。

青俳には映画に出ていた俳優さんが多くいて、その映画も独立プロの映画ですから、その当時で言えば、ある程度進歩的な人たちの集団に思えたわけですね。木村功[*6]さんや岡田英次[*7]さんら、錚々たる人たちがいる。まだ無名だった西村晃さんもいた。みんな、ぼくより12歳ぐらい上なんだけど、あとから考えると、当時20代、30代で、若いんですね。いわゆるベテランは加藤嘉さんぐらいしかいなかったんです。そもそも、元の集団は「青年俳優クラブ」という名前ですから。劇団青俳は「青年俳優」からきてるんですね。そういうところだったんで、普通の劇団とちょっと違っていた。もちろん左翼的な進歩性はあるし、芝居のレパートリーも、安部公房[*8]の『制服』をやったりしている。そこを選んだ。

[*3] 文学座は1937年、岸田國士、久保田万太郎、岩田豊雄の発起によって結成。

[*4] 劇団俳優座は1944年、青山杉作、千田是也、東野英治郎らによって結成。

[*5] 劇団民藝は、民衆芸術劇場(1947年結成)を前身とし、50年、滝沢修、宇野重吉、北林谷栄らによって結成。

[*6] 木村功 1923~81年。46年、俳優座入団。49年、『野良犬』(黒澤明監督)出演。『七人の侍』では最年少の浪人、岡本勝四郎を演じた。映画、テレビドラマで活躍。

[*7] 岡田英次 1920~95年。46年、新協劇団入団。映画『また逢う日まで』(50年、今井正監督)、『二十四時間の情事』(59年仏、アラン・レネ監督)、『砂の女』(64年、勅使河原宏監督)など、テレビドラマ『白い巨塔』(76年、フジテレビ)など。

[*8] 安部公房 1924~93年。小説家、劇作家、演出家。『制服』(54年発表)は初の戯曲。

―― 位置的に言えばアバンギャルドで、思想的にも左という感じですか。

そうですね。

―― 文学座とか俳優座、民藝は、もはや古典のような位置づけだった?

ぼくには古くさく思えた。感覚的にですけどね。そういう、すでにできあがっているような、旧左翼みたいなのは嫌で、もうちょっとやわで、新鮮に見える集団を選んだんです。今思えば、きっとね。

―― それは蜷川さんのセンスですよね。

誰に教わったわけでもないですから。自分で見ていた演劇の中から、青俳を選んだ。支えている俳優が、平たく言えば、かっこいい人たちだったから青俳へ入った。

緊張しすぎて初舞台で大失敗

―― 蜷川さんが青俳にお入りになったころの演劇の状況はどうだったんでしょう。やっぱり演劇はインテリのものだったんですか。

そうですね。ヨーロッパの文化に対する憧れと 演劇としての具体的な成果みたいなものが新劇団にはあった。ことに三大劇団と言われる民藝、俳優座、文学座には、そういうものはきちっとありました。それは十分わかった上で、ただ、そこをぼくは選んではいない。

―― 俳優という仕事はおもしろかったです?

おもしろかったけど、緊張するわけですね。ぼくはあがり症なんですよ。人の目が気になったり、他人の目に対する恐怖心があるから緊張するんだというのは、すぐわかったんですが。

レッスンでも、舞台袖で洋服を着たり脱いだりしていると、ズボンを脱いだのかはいたのか、途中でわけがわからなくなっちゃう。

―― はははは。

緊張してるから。それに対して、演出家の倉橋健[*9]さんたちは「ああ、いいんだよ、緊張したっていいから。終わりまでやったのはよかったね」とか言ってくれて、やさしいんです。

[*9] 倉橋健 1919~2000年。英文学者。70~89年、早稲田大学演劇博物館館長。

―― やさしいですね。

下手な俳優を育てるという環境がありました。ぼくの俳優としての初舞台は、安部公房さんの『快速船』という芝居だったんだけど、スクリーンに新聞記事が映してあって、それを指さして帰ってくるだけなのに、(舞台に)出ていったら、スクリーンにぶつかって、揺らして、めちゃくちゃになってしまった。終演後に、倉橋さんに「すみませんでした」って謝りにいったら、「まあ、一生懸命やってできないものはしょうがないよ」って。

―― 懐が深い。

代役なんかやらされたりするわけです。それは一生懸命やるわけですが、うまくいかない。すると、「朝、稽古が始まる1時間前にこいよ、俺が教えてやるから」と言って、木村功さんが教えてくれたこともあった。

木村さんは、ぼくが緊張してうずくまってると、「おまえね、緊張してうずくまってたって上手くなんないんだから、キャッチボールしよう」って、道路でキャッチボールに誘ってくれたり。「緊張をほぐせよ」なんて言って、心やさしい。

―― それって、今も演劇でよく行われているワークショップの役割になるんですね。

そうですね。全員に対してやさしかったかどうかはわからないんですけども。ぼくがキリキリしてたんでしょうね。のめり込み型なんですね。そういう意味で、生意気なんだけど、かわいがられた。

―― 緊張というのはつまり、自意識が肥大しているわけですが、じゃあ、藝大を落ちたのも、緊張のせいかもしれません。

いや、それはない。落ちたのは、明らかに勉強不足ですね。受験の前の年の夏に、藝大の彫刻科にあった石膏室で夏期講習があって、全国から受験生が集まってくるわけ。休憩時間に周囲を見渡してみると、みんな圧倒的に上手いんですよ。ああ、俺なんて井の中の蛙だなっていうか、すごい連中はすごいなっていうのはもう十分わかっていた。自分がどれだけ勉強していないか、上手いと思っているのがうぬぼれにすぎないかというのは、よくわかっていたんですね。

―― 絵に比べると、役者としての能力は、そこまで他の人との落差を感じることはなかったんですか。

いや、ありましたよ。あるけど、肉体を動かすことはおもしろいから。感情的なものが発露できるわけね。どんな端役でも、そういう実演の生々しい魅力っていうのはあったかな。だから、うまくいかないなあと思うことはあったけど、それは耐えられた。というか、嫌じゃなかった。

―― 当時は、演劇はきわめて政治的な色合いが強かった。発言をしていくため、アジテートの一つとして演劇がありましたよね。政治的であることが、インテリの存在証明でもあったわけですし。

それはそうですね。ただ、ぼくらがいたような当時の進学校って優秀で、『資本論』とか『共産党宣言』なんて、高校時代に読んでしまっているんですよ。みんな、競うように読んでるから。落第しようが何しようが、優秀な連中は優秀で、夏休みになると、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んだり、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を読んだり、長編を読む。そういう意味では、世界文学と世界の政治的潮流の基礎になるものは、高校時代に読んじゃってるんだよね。

―― そういうインテリ層って、青年たちの何パーセントぐらいいたんでしょうか。

今とまったく状況は違うと思いますね。ことにぼくは、知らないことは恥ずかしいことだという意識が強くあったから。青俳に入ってからもそうでしたけど、研究生仲間には、俳優座の養成所や早稲田の演劇科を出てきたような連中がいっぱいいるわけですよ。その人たちの会話の中にわからない固有名詞が出てくると、すぐに本を買ったり、映画を観たりしていた。そうやって、ちゃんと共通会話ができるように、自分でどんどん勉強したんです。

―― それは、教養ですよね。劇団内のごくベーシックな会話の基礎に教養があったということですね。

そうですね。その中にいる人間も、ある種の人たちには、知らないことを恥ずかしいと思う、そういう感覚があった。それは大きかったと思いますね。ですから、青俳に入っても、ぼくは研究生でありながら、ものは読んでる、理論は知ってる、技法も読んでる。ただ、やると下手なんだ。

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