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「日中関係史1972−2012」出版 その2―日中関係 笹川良一からの系譜―

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1972年の日中国交正常化から2012年までの40年間の日中関係について、『日中関係史1972-2012』Ⅰ政治、Ⅱ経済、Ⅲ社会・文化、Ⅳ民間の4巻として東京大学出版会から刊行されたことは前回お伝えした。

その中の『民間』編で、日本財団を中心に中国との関わりの歴史を筆者が口述したことを、園田成人・東京大学教授が編集していますので、以下、掲載します。

なお、具体的な事業についても詳しく掲載されていますので、ご興味のある方は『日中関係史1972-2012』民間編、東京大学出版会(3000円)をお読み下さい。

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【それでも交流は続けるべきだ】――笹川陽平


 私どもと中国とのお付き合いは、1982年から始まりました。
 初代国連大使の黄華夫人の何理良女史が友人を通じて「私に会いたい」と言ってこられ、ホテルニューオータニでお会いしたのが最初の接触です。その後、人口問題について計画生育委員会の主任から招待を受け、笹川良一と共に釣魚台に参りました。
 笹川記念保健協力財団は、以前からハンセン病制圧支援のための世界的ネットワークを作ってきましたが、長征にも参加し、医師として評判が高かったレバノン系アメリカ人の馬海徳(ジョージ・ハテム)氏は、中国でもハンセン病対策に尽力されておられましたが、長く中国では「ハンセン病は存在しない」とされてきました。馬海徳さんはそんなことはないと、私たちに協力を求めてきました。1985年、広東省で「第一回中国国際ハンセン病学術会議」が開かれ、私たちは財政的な支援はもちろんのこと、会議開催へ積極的に協力を行いましたが、これが中国との実質的な作業の始まりです。

戦略的だった中国との交流


 私たちは、今まで中国と多くの交流をしてきましたが、私としてはわりと戦略的に交流を進めてきたつもりでいます。
 中国は、その政治体制から、まずは政府の指導者の方々の面識を得る必要があります。当初はこの点に重点をおいて活動しました。鄧小平さんに会うところから始まり、歴代の党総記、国家主席をはじめ政治局常務委員クラスの方々とは、ほぼすべてのみなさんと面会してきました。物事がトップダウンで決まる国ですから、これは必要不可欠な仕事でした。
 他方で、1989年の天安門事件を契機に、中国が国際化するには、法制度を含め、制度の近代化は喫緊の改題であると考え、中央政府はもちろんのこと、地方の制度改革を進めてもらうべく専門家の来日プログラムを数多く実施しました。国有企業の民営化問題など、今となっては懐かしい議論をしたものです。
 黄菊さんが上海市長だった頃に日本へ招待して、浦東開発に関する説明会を日本ではじめて開催しました。あまりにも多くの代表団を招待するものですから、日本の省庁も「笹川さん、あまりにも多くの人々がおいでになり、困っております」と声を上げるほどでした。
 第三段階では、いわゆる人民レベルの交流を活性化させようと、日本語教育の充実をめざしました。1999年から2013年6月まで、日本科学協会を通じて、300万冊以上の日本語図書を寄贈しました。
 最新の資料でも、世界全体の日本語学習者のうち約7割が中国人ですから、中国のの日本語教育を支援することには大きな意義があります。
 私たちとしては、親日派を養成するという意図はまったくありません。それよりも、日本をよく知る知日派を作りたい。そのため教科書の作成に始まり、日本語教育の充実や図書の普及を目指すようになりました。中国の大学におけるクイズ大会や弁論大会、論文コンペなどを支援するようにもなりました。
 また、北京や上海といった大都市だけでなく、地方のメディア関係者やブロガーたちを招聘したり、沿海部ではなく内陸部の人たちの来日を支援するプログラムを実施したりするようになりました。こうした交流の変化は、最初から予期していたものではありません。実際に交流し、試行錯誤しながら、このような方向で進んできました。

交流そのものに困難はない


 もともと中国は海外、特に日本から知識を吸収したい気持ちが強くありました。しかも日本に対する親近感があったので、交流すること自体、特段むずかしくはありませんでした。この点について、2つのエピソードを紹介しましょう。
 1989年の天安門事件の後、G8(西側先進国)による厳しい経済制裁が実施され、中国は非常に困難な状況に追い込まれました。「何とかこの経済制裁を解除してほしい」。当時の国家主席であった楊尚昆さんから、こうした依頼を人民大会堂で受けました。当時私と同行したのが、経済同友会の牛尾治朗さんと東京大学の衞藤瀋吉先生でしたが、その時は台湾問題や北朝鮮問題を含め、多くのことをざっくばらんに意見交換しました。
 楊尚昆さんは、私たちに、初めて胸襟を開いて話してくださったのだと思ますが、帰国後すぐに竹下登元首相に事情を説明して、「これからの中国の将来や、隣国としての立場を考えると、現在の経済制裁を解除し、第三次円借款を開始すべきではないか」と進言いたしました。竹下元首相は、日本と中国との関係は西洋諸国とは異なり、長く深い関係がある。なんとかしようと明言され、竹下元首相一流の根回しによって、当時の安倍外相がホワイトハウスを訪問、海部首相がヒューストン・サミットで「中国への経済制裁を解除すべきだ」と提案することで、結果的に制裁が解除されることになりました。これは日本がG8で主導権を持って解決した第一号の案件となりました。
 これにより日本からの第三次借款が再開され、6800億円の借款が実施されるようになったのです。これが中国における近代化の実質的なスタートで、その意味でも、これは歴史的な事件であったと思っています。
 2つ目のエピソードに、北京大学で国際関係学院を立ち上げたことがあります。
 1990年代の初頭、中国には1200弱の大学があったものの、国際関係論を専門的に研究・教育する機関がありませんでした。中国が国際社会の一員として活躍するためには、国際関係論をしっかり学んだ学生を育てる必要があります。そこで、東大名誉教授の衞藤藩吉先生にも相談し、北京大学に国際関係学院の修士課程を作るといった、夢のようなプロジェクトが始まりました。
 実は、最初の3年ほどはうまくいきませんでした。ところが今では、中国の大学院修士課程の中でも、もっとも入試の難易度が高くなるほどに発展しました。卒業生は国務院や外交部、大企業やメディアなど第一線で活躍する優秀な卒業生を輩出してきました。その後、早稲田大学と東京大学との学生交換を始めるようになり、現在にいたっています。
 1か月間日本で指導教員を選定して研究を進めるプログラムもありますが、その際提出される研究計画書のリストを眺めてみると、ある時はアメリカ、ある時は台湾や日本の安全保障問題の研究と、学生たちが何に興味を持っているかがわかりました。中国の医者の来日プログラムや、この北京大学国際関係学院の創設は当時、中国の喫緊の問題であった。レベルの高い人材養成に大きく貢献できたとの自負もあります。

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