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- 2014年06月21日 10:48
中国1989年~1994年 中国共産党に何が起きていたのか
1/2前回のポストで書き切れなかったことを書きます。前回お断りしたように、内容が「オタク」 な上、自分の学習ノートのつもりで文献を引用するので長文です。お許しください。
中国1989年~1994年
中国共産党に何が起きていたのか
天安門事件によって、思想信条の空白と共産党の正当性の失墜という問題に直面した共産党政権は、思想と正統性の立て直しのために、毛沢東時代にいったん断絶していた愛国主義教育を復活させた。「勿忘国恥」 という 「被害者の物語 (マスター・ナラティブ)」 が 「中国という国に構造的に組み込まれ、政治機構に深く根を下ろし、共産党の新たなイデオロギー上のツールとなった。」というのが前回書評で取り上げた 「中国の歴史認識はどう作られたのか」(以下原著名の 「勿忘国恥」 で引用する) の著者汪錚(ワン・ジョン) の基本認識だ。
そのことは、こんにちの日本で半ば 「常識」 と化しているが、最初にこの問題を指摘した鳥居民氏の 「『反日』で生きのびる中国」 (2004年草思社刊) のインパクトが強すぎたせいで、ややもすれば 「江沢民が1994年に愛国主義教育を始めた」 式に、単純に理解されてきた。しかし、「勿忘国恥」 を読むと、その理解は次の点で修正すべきだと分かる。
(1) 江沢民の発案ではない
教育を改めるべきという認識は、89年6月の天安門事件直後にも、実力者鄧小平から表明されていた (「勿忘国恥」p143及び末尾4章注7)。それは当時の中共の総意のように見え、江沢民総書記は党の機関としてそれを 「執行」 したように思える。(2) 愛国主義教育の起点は1994年ではなく1991年である
この年の3月、江沢民主席が教育部宛てに書簡を発し、人民日報にも掲載された。江沢民はこの中で、教育現場は 「被害者としての物語」 と共産党による 「外来勢力との闘争」 の歴史を強調するように求めた (「勿忘国恥」144p)。さらに、同年8月 「歴史的文物を充分に利用して愛国主義と革命の伝統について教育を行うことに関する通知」 (中宣部/国家教委ほか)、「小中学校で中国近現代史と国情教育を強化することに関する要綱」 (国家教委) が発出された (同書144p)。(3) 決定から実施までに 「空白の3年間」
しかし、91年にいったん 「機関決定」 されたはずの 「愛国主義教育」 が現実に動き出すのは94年であり、途中に3年の空白が挟まっている(同書p147)。今回書きたいのは、この89年から94年という時期に、中共の中で何が起きていたのか?だ。
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【エピソード1: 天安門事件から 「南巡講話」 に至るまで】
天安門事件の後、保守派の力が強まり、改革開放はいっとき頓挫しかけた。これに危機感を覚えた鄧小平は、引退後の身にも関わらず 「南巡講話」 で反撃に出て、改革開放を元の軌道に戻した。教科書的に要約すればそうなるが、もう少し肉付けしたい。前々回のポスト「改革か保守か-改革開放後の中国の経済政策とその変遷」のために読み直した馬立誠 「交峰-改革開放を巡る党内抗争の内幕」 (1999年中央公論新社刊) によれば、天安門事件から 「南巡講話」 に至る3年間は、まさに激動の時期だった。
80年代後半、経済はまったく上手く行っていなかった。インフレ、国有企業の衰退、腐敗と精神的退廃の顕在化・・・そして89年春、政治の民主化を求める学生運動が大きく盛り上がる。6月初め、党中央はこれを 「反革命動乱」 と認定して血の鎮圧を行うが (天安門事件)、たちどころに国際社会の非難を浴び、G7諸国から経済制裁を受ける。
同時期に東欧諸国で連鎖的な体制転換が始まり、91年には旧ソ連が解体した。「友邦が消滅していく」 ―― 中国にとっては甚大な衝撃であり、とくに保守派は、そこに西側の 「和平演変」 陰謀を見て取って、ますます頑なになった。「ソ連に代わって社会主義宗家を相続しなければならない」 といったムードも生まれた (これは鄧小平が 「韜光養晦」 講話で否定した)。
左派・保守派にしてみれば、近来の禍々しい出来事は 「改革開放のせい」 だった。天安門事件後、党や政府では厳しい思想調査が実施された。改革志向の職員が職場を追われ、改革開放の前線指揮所だった体制改革委はいっとき機能停止してしまった。90~91年は、保守派のメディアや論壇で左派の 「社会主義か資本主義かを問う」 キャンペーンが展開され、多くの人が 「貧しくて重苦しい昔に逆戻りか」 と、不安とやりきれなさを覚えた時期だったが、翌92年の初め、鄧小平が「南巡講話」の反撃を開始する。「愛国主義教育」 が機関決定された91年は、こんな時期だった。
【エピソード2: 日中外交】
天安門事件後に中国がG7の制裁を受けていた頃は、逆に日中関係に大きな進展が見られた時期でもあった。日本は、西側の制裁が中国を保守的な方向に追いやり、鄧小平が始めた 「改革開放」 が頓挫してしまうことを恐れたのである。では、この時期の中共は日中関係について何を考えていたのか--それを描写した書物として、当時の外相銭其琛の回想録 「外交十記」 (2003年 中国 世界知識出版社) がある。89年2月 昭和天皇の崩御と大喪
崩御の後、日本では昭和天皇の戦争責任問題について論議が起こった。竹下総理は国会で 「先の戦争が侵略だったか否かは、後世の歴史家が評価すべきだ」 と答弁、また味村法制局長官は 「国内法から見ても国際法から見ても、昭和天皇に戦争責任はない」 と答弁した。
これが中国との間で新たな紛議を生んだ。銭其琛は、中国が大喪に特使を派遣することについて、「国内からも海外華僑からも大量の手紙が届き、派遣の格式を上げるな、はては特使を派遣するな、と求めた」 と記している(「外交十記」114p)
大喪3日前の2月21日、竹下総理が答弁について、「日中共同声明での認識に変化はない、先の戦争でアジア諸国の国民に重大な損失を与え、国際的に侵略と認識され、強い批判を受けている事実はじゅうぶん認識している」 等の表明を行い、中国にも伝達された。中国はこの表明を諒として、銭其琛を大喪に派遣した。対中制裁解除
銭其琛は、天安門事件に対する西側の制裁と日本の立場について、次のように記している。
「制裁に加わった国の中で、日本は一貫して制裁に消極的な役割を演じた。G7による制裁にも、西側の一致した立場を崩さないために、渋々と同意した」 「日本は天安門事件翌年の90年には第三次対中円借款を再開する決定を行った」 「そうしたのは、日本自身の利益のためであるが、日本は西側の対中共同制裁戦線の弱い一角であり、自ずと中国が西側制裁を突破するための最もよい(最佳)突破口になった」 「91年8月に海部総理が訪中、西側制裁後中国を訪問した西側首脳となり、名実ともに対中制裁を解除し、二国関係の修復が完了したことを示した」 「海部総理の訪中中に、中国は核不拡散条約に原則として参加することを表明、日本は第三次円借款として1296億円を供与することを決定した」 (「外交十記」191p)92年4月には江沢民主席が訪日、10月には明仁天皇皇后両陛下が訪中した。
「天皇の訪中は、中日二千年の交流史上初めてのことであり、これで中日の往来は新しい高みに達した。同時に、この訪中は西側制裁を打破するために積極的な作用を及ぼし、その意義は明らかに日中二国関係の範疇を超えるものになった」 (「外交十記」 195p)どちらのエピソードも、とくに下線部を読むと、日本人として苦いものを感ずるだろう。



