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O君との再会 - 北川裕二

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「Oです。心配かけています。
おかげさまで、なんとか生延びました。
自宅兼会社で津波にあいました。
ぎりぎり3階へ上がり、ひと晩を明かしました。2階の半分まで水がきました。
家族そろって生きています。
しかし、同じ建物で叔父二人、社員ひとりが亡くなりました。
仕事のすべてが水没。どうなるかわかりませんが、とにかくやっています。
ちょうどさっきからドコモケータイが繋がり始めました。
また連絡します。(3/19)」



 3・11から三日が過ぎた3月14日、原発が爆発したとはいえ、次第に平常心を取り戻しつつあった僕は、地震のあった当初から心配していた旧友小笠原拓生君(以下O君と略す)の安否を確認しようとメールを送信した。彼は津波に直撃された岩手県釜石市に家族と共に暮らしていた。しかしメールの返信はすぐには返ってこなかった。返信があったのは5日後の3月19日だった。上のメールはそのときのものである。

 多くの人がそうだったように、ゴールデンウィークに僕は釜石へと向かった。O君に会う、というのが第一の目的だった。

 出発の日、釜石までの列車はまだ全線復旧してはいなかったので、池袋から夜行バスで向かった。早朝釜石の駅前に着くと、O君と奥さんがクルマで迎えに来てくれた。数年ぶりの再会。しばし抱き合う。おみやげには発売されたばかりの細野晴臣の新譜『HOSONOVA』を渡した。


 釜石市でもっとも甚大な被害を受けたのは、釜石港からすぐのところにある商店が軒を連ねる旧市街で、まさに釜石市の中心地といってよい繁華街だった。O君の自宅もその一角にあったがが、今は高台にある親戚の家に間借りしている。クルマも流された。今乗っているのは急遽購入した中古車だという。被災した0君の自宅の片付けを手伝うため、まずはそちらに向かった。

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小笠原君と奥さんの重子さん。自宅の前で


 釜石駅周辺は、ほんとにここが被災地なのかと錯覚してしまうほど既に復旧していて、到着したときは拍子抜けするほどだった。ところが橋を越えて、旧市街に差し掛かると次第に町並みが暗澹たる様相を帯びはじめた。津波の爪痕がその全貌を露にしはじめたからである。

 崩壊した夥しい数の、捩れてひっくりかえり、裂けて折り重なった家やクルマ、あるいはその他あれこれの瓦礫が今もそのときのままの状態である。ビルの壁が3階まで剥がれ落ちているところもあり、津波が相当の高さにまで達していたことがわかる。

 ああっ、あんなに大きな工場もなぎ倒されている!

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O君の自宅隣にある工場も倒壊した

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