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その傷のブルースを見せてくれ――写真家・齋藤陽道のまなざし - 荒井裕樹×齋藤陽道

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「わからない」にどれだけ長く座っていられるか

荒井 その「まなざしの声」って、具体的にはどんなイメージ?

齋藤 赤ちゃんとか、動物とか言葉をもたないものと……向かい合っている時、ぼくの場合「泣き声」「鳴き声」の聞き分けもできないから、まさしく見つめ合ったときのそのときぐらいしか接点がないはずなのですが、それでも時折ふと、「うん……」とうなずいて、何かをせずにはいられないような衝動を残すことがあるんですよね。そのときの気持ちの揺れ動きというのはとてつもない。こんなにも小さなものいわぬものなのに……と思う。言葉じゃないもので、衝動を誘発させる雄弁な何かがやっぱりある。同時に、「あ、ぼくは彼らを侮っていた」と反省もさせられる。

あと、ぼくの写真って基本的に、真正面からの「日の丸構図」なんです。これってダサいんだって。誰でも撮れる手軽な構図だから。そういう意味で、ぼくにしか撮れないっていうものはないと思っています。でも、いろんな幅広い存在のまなざしを感知するということを何よりも優先しているので、その真ん中においた構図で撮っています。構図にこだわっていると、声っていうのはすぐに消えてしまうから。

あと日の丸構図をつづけていることにはさらに大事な理由があるけれど、これはもっと写真が溜まってこないと見えてこないものなので、いつかですね。5年後かな……。50年後かな……。

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荒井 「まなざしの声」を確信したきっかけってなんですか?

齋藤 赤ちゃんの写真を撮ったあとに、犬を撮って。そのあと確かおじさんと、カマキリを続けて撮ったことがあって……。接しているとき、どの存在もぼくには同じくらいの強度を持って迫ってくるんです。違いがわからないくらいに。そもそも違いがなかったと思えるくらいに。そのとき「あれ? なんだろう? こんなに見た目や受けとった言葉の数も質も違うのに、なんで同じように感じるんだろう?」と考えたことが始まりです。

荒井 「まなざしの声」を感じる対象と感じない対象の違いって何ですかね? 齋藤さんの耳が聞こえなくても、それでも何らかの形で齋藤さんと繋がろうとするかしないか、という点ですかね?

齋藤 繋がることを求めているかどうかはわからないです。カマキリからしたらぼくは敵ですもんね! でもそういう敵対心も含めて、個と個として向かい合うとき、かな。

荒井 「個と個として向かい合う」って、きっと齋藤さんのなかの大切なテーマなんでしょうね。齋藤さんはいつも「境界線」を超えたいと言っていて、写真集『宝箱』(ぴあ社、2013年)にも、誰が引いたかもわからないような「境界線」を越えて出会いたい、という趣旨の文章を書いていましたね。齋藤さんのいう「境界線」って、ともすると「障害がある人/ない人」「耳が聞こえる人/聞こえない人」と受け止められてしまう気がするんですけど、そんなに単純なものじゃなさそうですね。齋藤さんの言う「境界線」って、どんなイメージですか?

齋藤 「境界線」というのは言い換えると、言葉に直して「これでわかった」と思考停止することです。だから、わからないということにどれだけ長く座っていられるかということを思います。

そうして言葉以外のもので何かを知ることができたら、と思う。写真を通すことで、自分が持っていた言葉や概念を越えて「あ、わかる」と思える何かが現れることがある。言葉じゃないなにかがある……。こういうときに、やっぱり写真は、ぼくが操ってできるものじゃないなと感じます。

はかなさと、ゆるぎなさ

荒井 以前、齋藤さんが「すべてのものがたいらにたつ境地を撮りたい」って言っていたのが、とても鮮明に記憶に残っています。これって「障害があってもなくても、人はみんな同じ」という安易な意味合いではないと思うんですね。

齋藤 ぼくは最初の写真集の『感動』(赤々舎、2011年)、その前身となった『同類』(「写真新世紀東京展2010」優秀賞)、つまり写真を始めた当初から「すべてのものがたいらにたつ境地」をみていました。

「平等」「平和」「たいら」。そんなものありえないとぼく自身が強く強く実感しているけど、そんな自分を超えて「あ……」と思えるものが見たいんです。しょぼい自分を消し飛ばしてくれるほどのものが見えたとき、なにかが変わってくる。少なくとも自分は変わってゆく。

荒井 「たいら」なんてありえない、と思ってしまう自分を超えるものかぁ…………。うん……いま話をうかがっていて、ポートレイト「絶対」シリーズのことを思い出していました。

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「絶対」シリーズって、「絶対」っていうすごく強い言葉をタイトルにしているわりには、何か特別な物事、特別な人、特別なイベントが映っているわけではない。でも、不思議とそれが特別に見える。そんな瞬間を捉えてる。

「特別」って2つの種類があると思うんですね。「みんなのなかの特別」と「わたしのなかの特別」と。前者だと、たとえば100人くらいの人がいたとして、そのなかで「1番頭がいい」とか「1番かっこいい」とか、他と比べて突出している状態を意味してる。後者だと「大切な時間」とか「大事にしたい人」とか、自分のなかのかけがえのないもののことを意味してる。それは誰のものが1番かなんて順位づけできない性質のものです。

人って全員が全員、前者の意味での「特別」になれるわけじゃない。でも、後者の意味での「特別」はみんな持っているし、全員が全員「特別」な存在です。それで、その「特別」を限界まで突き詰めていったものが「絶対」なんだろうと思うんです。

「ぼくらは一人ひとりがかけがえのない存在で、二度と繰り返せない“いま”という大事な瞬間を生きている!」というのは、言葉にするのは簡単だけれど、でも「じゃあ、それを実感させてください」とか「目に見える形で描き出してください」というのは、はっきり言って不可能に近い。でも、それに挑戦するのが文学やアートなんだと思います。

ぼくらが生きている時間の圧倒的大部分は、生きることの意味なんて考えないような、平凡で何気ない日常ですよね。そんな日常のなかで、かけがえのない存在が、かけがえのない瞬間を生きているという奇跡みたいなことが、とても「ふつう」にそこで起こっているということ。齋藤さんは、その欠片や破片みたいなものを見せてくれている。

齋藤 なーんて、うれしい言葉……。この「絶対」の撮り方に至ったのは、最初、偶然でした。ともだちを逆光で撮ったとき、ぺかーんと、うそみたいにきれいな円のフレアがでたんです。これも写真の教科書とかだと、おやめなさいって書いてある。フードつけなさいって。でもぼくフードよく無くすから好きじゃない……。それはおいといて、なんでダメなのかがよくわからなかったんです。ほんとうに。こんなにもきれいな丸がでたがっているのならそれを生かしたいと思った。フレアという悪手を、ひっくりかえして、ほんとうに生きるものにしてやる、と思っていた。今思うと、フレアに自分を重ねていたような気がしないでもないです。

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撮るとき、逆光なのでやっぱりとてもまぶしいです。太陽を直視するということだから目が痛い。ファインダーはびかびか乱反射する。ほとんど、見えない。そのとき視覚はあてにならなくなってくる。それでも、MF(マニュアルフォーカス)で、ピントを合わせる。あんまりあんまり見えない。でもでも。見る。

基本的にスナップなので、被写体のその動きと、刻々沈みゆく太陽の動きと、ぶわぶわと精霊のように飛びかうフレア。その3者を同時に収めるようにして見ている。それぞれがうまくリンクするのは、ほんとうに一瞬だけ。

ひとたび動かしたら壊れてしまいそうなバランスの中で見えたもの。とてもはかない。その、はかなさを追求していって見えたこれは、逆に、揺るぎないものだなって思えたんです。細い一瞬だからすべてがあるって思える。その裏表がくっついている一体感に気づいた時は……うれしくなりましたね。

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