- 2014年06月04日 07:00
その傷のブルースを見せてくれ――写真家・齋藤陽道のまなざし - 荒井裕樹×齋藤陽道
2/5「キレイごと」を引き受ける覚悟
荒井 ワタリウム美術館で対談させてもらったとき(注:荒井裕樹×齋藤陽道 筆談対談「アートがひとを〈癒す〉とき」2014年1月25日)、「齋藤さんの写真の欠点はなんですか?」という質問をしたら、後日メールで「キレイごとすぎる」と送ってくれましたよね。実はぼくも似たような引け目を抱えていて、齋藤さんの言葉がすごく響きました。齋藤さんは具体的に、自分の写真のどのへんが「キレイごと」だと思いますか?
齋藤 ぼく自身が相手と接しているとき、なにも知っていないのにこんないいように撮っていいのかという恥ずかしさがあります。「わかっていない」ということをどこかに差し置いたまま、ただ楽しいだけの写真を撮っているという想いがあります。それでいいのか、といつも思う……。
でも、なにかを暴いたり、みせつけるのではなくて、その人のふつうさを見たいとも思っていた。報道やドキュメント的な写真は、ぼくとしては、もう、見飽きている。ふつうの生活を過ごすための覚悟を、特別なものとして撮るのではなくて、「とほうもないふつうさ」として撮りたかった。純粋に、だれもが見たことのない写真を見たいと思ったそのときに、ふつうさを追求した写真こそが見たことのないものになるな、と直感したんです。
荒井 齋藤さんが言う「ふつう」って、すごく深いんですよね。今日はその深みを何とか言葉にしてみたいな……。
齋藤 ふと思ったのですが、作家や写真家という言葉があるなら、ゆらぎつつも自分の道を哲学して生きる人はみんな「人間家」ですよねー。障害者とかマイノリティと言ってしまうと、ほんとうに語弊があるんだけども、自分の身体や心と向き合っている人には「人間家」と言っていいくらいのみなぎる魅力を感じます。そして、障害はたまたまその人の一部でしかないんだなと思わせられる。そういう人にたくさん会いたいと思いますねえ。
荒井さんは、どのあたりが「キレイごと」だと考えているんですか?
荒井 「研究者」という立場にいるのであれば、客観的で大局的な視点を持ってないといけないのに、どうしても「人」に目が行ってしまうところですかね。学生の頃から病気や障害に関わる差別の問題について考えてきたんですけど、社会の構造を分析したり、問題の所在を指摘したりするよりも、その渦中に生きる「人」のことばかり考えてしまいます。
でも、「言葉」が響いたり届いたりする対象というのは「社会」じゃなくて、あくまで「人」だと思うんです。ぼくはどうしても「社会を変える言葉」というのが具体的にイメージできなくて、「“その人”に響く言葉」について考えることからしかはじめられない。これは「キレイごと」と言われようが変えられないし、変えようがない。「“その人”に響く言葉」を考えることが「キレイごと」なのであれば、ぼくは腹をくくって「キレイごと」を言い続けなきゃいけない。
齋藤 なんだか似ていますね。
荒井 そうですね。
齋藤 でも、写真を撮るときに、言葉でのやりとりを超えていると思えることも確かにあります。ぼくにとっては「キレイごと」であっても、ぼくが撮ったとは思えないほどに、写真自体がすごいパワーをもって生まれてしまったときには、そのときは「キレイごと」を引き受けないとなと思います。
荒井 写真自体がすごいパワーを持っている。
齋藤 うん、ぼく個人を超えて、どこかに飛んで行けると思えるもの。
わが身を引き受けてひらけた「まなざしの声」
荒井 世の中に作家ってたくさんいるんですけど「他の人も書いているから、私は書かなくていいか」とはならないですよね。やっぱり自分にしか書けないものがあると信じているから、みんな書き続けるんだと思うんです。そう考えると、齋藤さんだけが撮れるものって何だと思いますか?
齋藤 「障害も個性」とかそういうつまんない風に誤解されやすいので、こう言うのは、ちょっと怖いけど、やっぱり「わが身をひきうける」ってところから作家性ははじまると思っています。
荒井 「わが身を引き受ける」というのは齋藤さんの? それとも被写体の?
齋藤 「作家」という人みんながやっていること、かな。
ぼくの場合は「きこえ」を引き受ける必要がありました。音声社会の中で、きこえないということは、ほとんどの人とダイレクトな生のやりとりができないということです。筆談もメールもスカイプも、やっぱり間接的だと思います。気軽なケンカがしにくいから。
15歳のときにろう学校に入学して初めて手話に出会いました。それから5年間、手話が自分の頭に馴染んできた20歳のときに、ほとんど呪縛されていた音声言語から解放されたと思えた。このとき、聞こえない、もとい、“わからないことの最中”にいることを引き受けようと思ったんです。
音声社会の中ではやっぱりぼくは取り残されている感じがどうしてもぬぐえません。世代的に、手書きの手紙、ダイヤル式電話からプッシュホン、FAX、ポケベル、ショートメール携帯電話、……そうしてパソコン、スカイプ、スマフォ。情報革命の恩恵を受けてきています。また情報保障の道を切り開いてきた、ろうの先人たちがいるということも分かります。でも、ぼくにとっては、文字の言葉を伝える手段がひろがっていくたびに、いざという生な対面のときに、どうしようもない溝となって離れていくものも感じています。書き言葉に頼りすぎていると、その乖離が著しくなっていくなと思っていて……こわい。そうではなくて、もっとぼくの心身から生まれた、ぼくだけの言葉を見つけたいと思っていたんです。そこから「まなざしの声」という感覚がひらけたし、他にもたくさん気付いたものがあります。ぼくにしか撮れないものはない。でも、ある。なんだろう。んー。さしあたり「まなざしの声」という感覚はぼくのものだなと思えます。



