記事
- 2010年10月30日 17:10
あるはずなのに見えないもの(エスニシティ)
1/3
図1は、要素Eを含む全体集合Pを概念的に示したものです。一方、図2は、同じ集合Pから要素Eが欠けている状態をあらわしたものです。
全体集合Pの定義を知っている人が図2を見たとき、おそらくもっとも一般的な反応は、「Eが欠けているね」とか、「どうしてEがないの?」のように、Eの欠損を指摘し、その理由を確認しようとすることでしょう。
ところが、実際の社会では、Eの欠落を指摘しただけで、「あなたはEだけで集合Pを語るつもりなのか」と反論されることがあります。それはいったい、どういう場合なのでしょうか。
先日、ある事件に関連して、ツイッターで議論をおこないました。ツイート群をまとめていただいたサイトが、http://togetter.com/li/63152 | http://togetter.com/li/63464 | http://togetter.com/li/63798 の3つです。発端となったのは、ぼくが書いたこのツイートです。
10月26日の朝。ほとんどのメディアが、自殺した少女の母親がフィリピン出身である事実に触れていなかったことを踏まえてのツイートでした。唯一その事実に言及した朝日新聞も、報じた内容は「署や市教委などによると、母親はフィリピン出身だが、この女児は日本語が堪能だったという」です。どちらかといえば、民族差別が原因につながったことを否定するかのようなニュアンスだといえます。
しかしながら、いじめを苦にして自殺するほど執拗に追い詰められており、かつ、母親が外国出身であるというケースで、はたして民族的出自がいじめの原因や手段に用いられていなかったなどと想定することは妥当でしょうか。
周知のとおり、いじめは非常に些細なきっかけで起こるものです。いじめる/いじめられるという関係は非常に流動的で、誰だっていじめのターゲットにはなりえます。偶発的、恣意的に、境界線は引かれますので、極端な場合、昨日の人気者が今日のいじめられっ子ということもありえます。
ただ、偶発的、恣意的であるということと、ランダムであるということは違います。なぜなら、基準の適用は恣意的でありながらも、既存の価値意識を反映して、つねに排除され、いじめられる側に置かれる者が出てくるからです。そして、日本において、民族的出自は、そうした恒常的に排除の機能を果たす基準として流用されやすい属性の一つなのです。
である以上、フィリピン出身の母親を持つ女児がいじめで自殺したという事件について、母親の出身が記事で言及されなかったということは、意図的に、その情報が隠蔽されたと解釈する方が自然です。
ぼくには、この事件の報道記事で言及される周辺情報の集合(P)の中に、明らかに、「女児の民族的出自という要素」(E)が欠落しているように見えたわけです。
ところで、この事件の報を聞いて、真っ先に思い出したのが、1979年、埼玉県上福岡市で在日朝鮮人である林賢一君が自殺した事件でした。
全体集合Pの定義を知っている人が図2を見たとき、おそらくもっとも一般的な反応は、「Eが欠けているね」とか、「どうしてEがないの?」のように、Eの欠損を指摘し、その理由を確認しようとすることでしょう。
ところが、実際の社会では、Eの欠落を指摘しただけで、「あなたはEだけで集合Pを語るつもりなのか」と反論されることがあります。それはいったい、どういう場合なのでしょうか。
先日、ある事件に関連して、ツイッターで議論をおこないました。ツイート群をまとめていただいたサイトが、http://togetter.com/li/63152 | http://togetter.com/li/63464 | http://togetter.com/li/63798 の3つです。発端となったのは、ぼくが書いたこのツイートです。
@han_org: 桐生市の小学生自殺にしても、これほど明白な民族差別もなかろうに、今なお、関係者すべてが民族差別としての問題化を避けて、いじめの問題に回収しようとしている。まるで、もともと民族的出自などなかったかのように。ぼくには、死してなお、民族浄化の被害を受け続けているとしか思えんな。 http://twitter.com/#!/han_org/status/28746984786
10月26日の朝。ほとんどのメディアが、自殺した少女の母親がフィリピン出身である事実に触れていなかったことを踏まえてのツイートでした。唯一その事実に言及した朝日新聞も、報じた内容は「署や市教委などによると、母親はフィリピン出身だが、この女児は日本語が堪能だったという」です。どちらかといえば、民族差別が原因につながったことを否定するかのようなニュアンスだといえます。
しかしながら、いじめを苦にして自殺するほど執拗に追い詰められており、かつ、母親が外国出身であるというケースで、はたして民族的出自がいじめの原因や手段に用いられていなかったなどと想定することは妥当でしょうか。
周知のとおり、いじめは非常に些細なきっかけで起こるものです。いじめる/いじめられるという関係は非常に流動的で、誰だっていじめのターゲットにはなりえます。偶発的、恣意的に、境界線は引かれますので、極端な場合、昨日の人気者が今日のいじめられっ子ということもありえます。
ただ、偶発的、恣意的であるということと、ランダムであるということは違います。なぜなら、基準の適用は恣意的でありながらも、既存の価値意識を反映して、つねに排除され、いじめられる側に置かれる者が出てくるからです。そして、日本において、民族的出自は、そうした恒常的に排除の機能を果たす基準として流用されやすい属性の一つなのです。
である以上、フィリピン出身の母親を持つ女児がいじめで自殺したという事件について、母親の出身が記事で言及されなかったということは、意図的に、その情報が隠蔽されたと解釈する方が自然です。
ぼくには、この事件の報道記事で言及される周辺情報の集合(P)の中に、明らかに、「女児の民族的出自という要素」(E)が欠落しているように見えたわけです。
ところで、この事件の報を聞いて、真っ先に思い出したのが、1979年、埼玉県上福岡市で在日朝鮮人である林賢一君が自殺した事件でした。



