記事

誰もに優しい社会をいっしょに――「障害者の権利に関する条約」批准に寄せて ‐ 青木志帆

1/3

2013年12月4日、国会は、特定秘密保護法をめぐる大混乱のなかにあった。報道も連日、大きな紙幅を割いて同法の行方を追っていたが、一方そのころ、参議院本会議では、障害者の権利に関する条約(以下、「権利条約」という)の批准承認が可決された。そして2014年1月21日には、日本は世界で140番目(EUを含めると141番目)の批准国となった。

この批准によって、同条約は憲法と法律との間に位置づけられることとなり、同条約に反する国内法を作ることは許されなくなる。同条約が国連本会議で採択されたのが2006年12月、日本がこれに署名したのが2007年9月であることを考えると、批准までにはずいぶんと時間がかかっており、それだけに、障害当事者にとっては悲願の批准であった。

悲願、ではあるのだが、この条約を日本が批准したことはもちろん、その内容も一般にはあまり知られていない。この条約を知り、遵守してもらわなければならないのは非障害者なので、この状態は非常にまずい。

さらに、この条約の対象となる「障害者」の範囲は、障害者問題に関わったことのない人一般が想定する範囲よりもはるかに広い。たとえば、「がんサバイバー(がんの急性期から復帰して寛解状態を維持している人)」や認知症患者にも及ぶ可能性を秘めている。いずれなんらかの慢性的な健康不安が発生したときでも自分らしく生きていきたいと考えるすべての人に、ちょっと関心を持っていただきたい条約である。

そこで、この条約が必要とされた背景や、内容、批准によってこれから日本が解決しなければならない課題について、基本的なところを述べる。

権利条約が必要とされた背景

この条約は、その名の通り、障害者の権利についての国際規範を示すものである。国際人権規範といえば、世界人権宣言や国際人権規約といった中核的な国際人権文書があり、後者については法的拘束力もある。それにもかかわらずなぜ、わざわざ「障害者」に特化した人権条約が必要とされたのか。

現代立憲主義のもとでは、「平等」は「実質的平等」あるいは「結果の平等」を志向するとされるものの、自由競争を前提とする資本主義社会を前提とする以上、平等の概念を考える上で、能力主義を完全に捨象することは難しい。そのために、能力差から生じる結果の不平等に対しては、平等権に基づく差別解消の枠組みではなく、社会権的、生存権的アプローチでカバーする、という社会通念ができあがった。要するに、健康で文化的な最低限度の生活を保障する「福祉的」支援の対象として把握する、ということである。このため、差別禁止事由も、人種、性別、身分といった、個々人の「能力」とはそれほど関係のない事由が並んでいる。

この状態をそのまま放置して社会が構築された結果、能力的にどうしても非障害者と差が生じる障害者は、生存権として「健康で文化的な最低限度の生活」は保障されているが、それ以上はなかなか権利として保障されているとは言いがたい。障害者のさまざまな権利――表現の自由、居住・移転の自由、選挙権、労働基本権など――は、非障害者の邪魔にならない範囲で保障されてきたにすぎないような状態だ。

福祉的支援で保護はするが、それ以上に障害者の主体的な権利主張には応えきれない。すると、非障害者の世界と障害者の世界は、やがて見えない壁で分離され、障害者はどんどん社会参加の権利も機会も逸してしまう。しかし、当然のことながら障害者も人としての尊厳を持ち、人の役に立って生きたいという自己実現の欲求がある。自分たちは「保護」の客体ではない、という思いが募る。

そこで、障害当事者たちは、社会の一員として非障害者とともに生きるために、自らを権利の「主体」と捉え、非障害者と同様の人権を保障するよう強く求めた。こうしてできたのが、「障害者の権利に関する条約」である。この条約は、けっして目新しい人権を提唱しているわけではない。これまで非障害者に当然保障されてきた諸権利を、徹底的に「他の者との平等を基礎として」保障することを要求する、差別禁止条約である。

日本の社会通念よりも広い障害

そうした背景から生まれたため、非障害者の中で共有されている概念も、障害者の目線で捉え直せば意味が変わるものがある。

(1)障害の捉え方

一般的に「障害者」という言葉から思い浮かべるのは、「目が見えない人」「足が動かない人」「知的能力に制限のある人」などだろう。そのように、「障害」の根拠をその人個人の身体の機能障害(inpariment)に求める考え方が、いわゆる「医学モデル」と呼ばれる障害の捉え方である。

医学モデルを前提とすると、社会参加への取り組みは、その機能障害を治癒して非障害者の健康状態に近づけようとする方向で行われる。ところが、そうした取り組みでは、障害者は、身体の機能障害という自分にとってなんら帰責性のない事情により、治癒するまでの間は障害のない人と一緒のサービスを受け、共に何かに取り組む、という「参加」の経験を得られない。治らなければ、一生参加できないままであるということになる。

そこで障害者は、「自分の身体」ではなく、非障害者を基準として形成された文化、慣習、規範、構造物などの「社会のありよう」の方に障害、支障がある、と考えるようになった。これが、先ほどの「医学モデル」に対して「社会モデル」と呼ばれる障害の捉え方である。

(2)「機能障害」の幅

日本の場合、「機能障害」のイメージは、障害者手帳を持っているような、「固定的かつ永続的な、身体の機能障害」であろうと思う。しかし、権利条約はそのように限局された考え方ではない。

たとえばユニークフェイス(アザや発疹、大きく変形した顔や身体をもつ人のこと)や、慢性疾患(がん、HIV、てんかん、糖尿病などの難治性疾患など)も、社会的障壁との相互作用によって社会参加を阻害する「機能障害」であると考えられている。だから私は、冒頭で「将来がんになる人も関係する」と述べたのである。この条約が対象としようとする「障害」は、日本の社会通念よりもはるかに広いのである。

合理的配慮の不提供という「状態」を含む差別

「差別」を国語辞書で引いてみる。

すると、「取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと」とある。一般的に「差別」とは、このように「差をつける」「取り扱う」といった、「何らかの意図に基づいた作為」をイメージするだろう。そして、かなりの割合で「やってはならないこと」というネガティブなイメージが伴うだろう。

しかし、権利条約が社会からなくそうとする「差別」とは、そういった不法行為の加害行為の一態様としての「作為」「行為」だけではない。なんらかの社会的障壁によって、障害者の社会参加が阻害されている「状態」をも含む。それが、不作為による差別として新たに提唱される、「合理的配慮の不提供」という差別類型である。「合理的配慮の不提供」については、詳しくは、Synodosジャーナルにおいて、国際人権法の川島聡先生が執筆なさっている「障害者差別解消法Q&A」のQ14以下をご覧頂きたい。

「社会モデル」的に障害を捉えれば、これまでの社会は、「非障害者」を標準として形成されていることから、文化、規範、建造物、慣習など、ありとあらゆるところで障害者の参加が阻害されている、と考える。そうすると、非障害者と同一の待遇を平等に保障するだけでは、非障害者の環境に順応できない障害者をかえって排除する結果になる。そこで、こうした社会参加への障壁を除去するためには、障害者側から、「合理的な別異の取扱」を求めることを権利として保障しなければならない。この、「合理的な別異の取扱」のことを「合理的配慮」というのである。

ただし、「合理的」とついている以上、不合理な配慮、つまり、配慮する側にとって求められる配慮が過重な負担となる場合は免責される。これを提供しないことも、障害者の社会参加を阻害するとして「差別」に当たるのである。

あわせて読みたい

「障害者」の記事一覧へ

トピックス

ランキング

  1. 1

    共産党の式欠席に「ありえない」

    音喜多 駿(参議院議員 / 東京都選挙区)

  2. 2

    渋野騒動 日テレのスポーツ軽視

    WEDGE Infinity

  3. 3

    竹中氏もMMT認めざるを得ないか

    自由人

  4. 4

    簡単に休業要請 橋下氏「最悪」

    橋下徹

  5. 5

    韓国はなぜ延々謝罪を要求するか

    紙屋高雪

  6. 6

    株バブル過熱で短期調整の可能性

    藤沢数希

  7. 7

    無策の菅政権「日本危なくなる」

    畠山和也

  8. 8

    秋篠宮さまにみる結婚反対の本音

    女性自身

  9. 9

    なぜベーシックインカムに反対か

    ヒロ

  10. 10

    上司無視…モンスター部下の実態

    PRESIDENT Online

ランキング一覧

ログイン

ログインするアカウントをお選びください。
以下のいずれかのアカウントでBLOGOSにログインすることができます。

コメントを書き込むには FacebookID、TwitterID のいずれかで認証を行う必要があります。

※livedoorIDでログインした場合、ご利用できるのはフォロー機能、マイページ機能、支持するボタンのみとなります。