- 2014年01月24日 17:24
この国では、塾がエリートを育てている。
今、この国で、多くの人が教育に関心をもっていることは間違いない。そして教育に関しては誰もが一家言をもっている。そのうえそれを発言しやすい。発言が正しかったかどうかが判明するころには、発言者はたいがいもうこの世にいないからだ。教育の成否は次世代の社会によってしか証明できないからだ。言ったもの勝ちである。政治家から、役人、居酒屋の酔っ払いまで、言いたい放題のテーマなのである。
言いたい放題のことをすべてまともにやっていたら、教育現場は崩壊する。玉石混淆の議論の中から何を取り入れ、何を捨てるのかを、政治家、財界人、専門家たちで議論を尽くせば最適解にたどり着けるのか。必ずしもそうではないだろう。人間は理路整然と間違える生き物だ。「船頭多くして船山に上る」ということもある。場合によっては、「詰めこみ教育」「ゆとり教育」「学校群制度」のように、再び日本の教育を大きく迷走させる〝迷案〞が実行に移されてしまうかもしれない。
しかしあまり神経質になる必要もないだろう。仮に教育行政が舵取りを誤り、公教育システムに欠損が生じても、この国にはそれをバックアップするシステムがある。全国に約5万ある塾をはじめとする、民間教育システムだ。
国は、広くあまねく国民に、一様の教育を与えようとするが、国民は塾という存在を通して、自分たちが教育に求める多様性を具現化してきた。
公教育が「与えられた教育」であるとするならば、民間教育は「自ら求める教育」といえる。その2つがあることで、日本の教育は常にバランスを保ち、かつ、柔軟に進化し続けることができた。
仮に国が、国民の意に反した教育を国民に押し付けたとしても、私たちには、塾で学ぶという選択肢が残されている。これは、世界でもまれに見るハイブリッドな教育システムである。この国最大の資産であるとすら思う。
学校システムにさまざまな問題が指摘されている今、全国に約5万ある、塾という教育資産を活用しない手はない。しかしそれは、単に塾を学校教育に組みこむとか、塾を文部科学省の管轄下に置くとかいう話ではない。むしろ学校システムや教育行政を監視し、補完する役割として、また子どもやその親たちのニーズを映し出す鏡として、塾のもつ機能に期待するのである。
これまでもそうであったようにこれからも、公教育システムに欠損が生じれば、民間教育システムが、素早くそれを補完し、システム正常化へ導く力を発揮してくれるだろう。まるでDNAの二重らせんの一方に欠損が生じても、一方がそれを補い復元する作用をするように。
教育の安定は社会の安定。
民間教育システムの存在は、この国最大のセーフティネットであると私は思う。
しかし、日本の塾がいくら優れた教育を提供していようとも、塾に通うにはお金が必要だ。ゆえに「経済格差が教育格差」を生むのであり、塾や私学が格差を助長する装置になっているという批判も多い。
それに対して、オックスフォード大学教授の苅谷剛彦氏は、著書『大衆教育社会のゆくえ』の中で、数々のデータを示しながら「東大入学に有利な階層の子どもたちは、有名進学塾に行くための教育費や、私立の中高一貫校の授業料を負担できる『財力』のみによって、有利な立場にあるのではない」ことを指摘している。東大だけでなく、それより範囲を広げた「有力大学」に関しても同様。子どもの学歴に影響するのは、「親の財力」よりも、「学歴に対する親の意識」であるということだ。
仮にそれはおいておいたとしても、「不平等をなくすために塾や私学をなくすべき」という理屈は成り立たない。出た杭を打つようなもの。社会全体としてはマイナスである。それこそまさに「日比谷潰し」を目的に実行され、都立高校を凋落させた「学校群制度」と同じ発想だ。
では、塾に通える者と通えない者の境遇の差をどう埋めればいいのか。残念ながら、公的な助成金を受給する以外の答えは私の中にはない。きっと即効性の高い策は存在しないだろう。それが惜しい。
しかし思い出してほしい。かつて日本が貧しかったころ、村に「できのいい子ども」がいれば、村中でお金を出し合って都会の学校へ送り出すという文化があったことを。
なぜみなで優秀な子どもを支援したのか。その子が村に帰ってきて、人一倍の活躍をしてくれて、結果的に村民みんなの生活が潤うことを予見していたからだろう。
優秀な子が、村中の支援を得て、もっと優秀になったとしても、それをひがむ者はいなかった。より高度な教育を受けた子には、村中の人々の期待とそれに応える責任ものしかかることをみんなが知っていたからだ。それがノブリス・オブリージュ(高貴なる義務)。
教育とは本来、勝ち組になり、社会的に優位な地位を手に入れるために受けるものではなく、社会のために、個々の才能を最大限に引き出す営みであるはずだ。
私が中学受験を志す親子に対して講演を行うときに、決まって次のような話をする。
中学受験ができる人というのは限られている。ごく一部の恵まれた人たちだ。そのため、経済格差が教育格差につながるという批判もある。でも私は思う。教育の受益者は、教育を受けた本人ではなく、その人を含む社会である。
塾で勉強している子どもたちは、目の前のテストでライバルに勝つことに夢中になっているかもしれないが、究極的には勝ち組になるために勉強しているわけではない。本人たちは無自覚かもしれないが、最終的に世の中の役に立つ人間になるために勉強しているのだ。ほとんどの塾の講師たちもそれを願っている。
だから、恵まれた人が、与えられた環境を最大限に活用して、それを世の中に還元するならば、格差云々よりも、世の中全体がよくなるというメリットのほうが大きい。恵まれた環境を活かして、塾や私学に通うということに、何の遠慮もいらないと私は思う。むしろ、恵まれた環境を最大限に活かして、将来世の中の役に立つことは、恵まれた人の使命である。それが真のエリートのあるべき姿だと私は思う。
私はここに、教育という「きわめて私的に見えて実はこのうえなく公的な営み」の真髄があると考えている。日本人がもつ「身銭を切ってでも子どもによりよい教育を受けさせたい」という心意気は、単に親が子を思う気持ちではなく、社会が次世代を思う気持ちでもある。
塾という存在はそういう気持ちの総和の具現である。その気持ちがあるうちは、この国もまだまだ捨てたもんじゃない。
「塾という文化」があるうちは、日本もまだまだ大丈夫。
塾を必要悪だとか社会悪だとか非難するばかりの思い込み的な議論からそろそろ卒業してもいいのではないか。そうすることではじめて、この国の教育の全体像が正しく俯瞰できるのではないだろうか。



