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もうひとつの沖縄戦後史──「オッパイ殺人事件」と経済成長 - 岸政彦 / 社会学

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凄惨を極めた沖縄戦が終了したあと、沖縄の人びとは収容所に収容され、無人となった各地に強引に広大な基地が建設された。あるいは、ずっと前から暮らしている村を無理やり立ち退かされ、そこに基地が建設された。

収容所に収容された人びと、家や田畑を焼かれ奪われた人びとは、生まれた村を離れ、コザや金武などの基地周辺の街へ、あるいは、首座都市として急激に膨張しつつあった那覇へ移動した。1920年から1950年までの30年間、那覇市の人口は10万人前後で安定していたが、1950年から1975年の25年間で30万人にまで膨れ上がっている。沖縄戦とそれに続く基地建設によって土地を奪われた農民たちや、産業構造の変化のなかで農業に見切りをつけた人びとは、いっせいに都市に流れ込み、自由な労働力となっていった。

人口の激増と那覇都市圏への一極集中は、同時に、沖縄史においてまれにみる経済成長をもたらすことになった。戦後の初期の段階においては、米軍がもたらしたガリオア資金などの経済援助や公共投資などが、焼け野原だった沖縄に貨幣経済を復活させた。しかし、その後、沖縄経済は「自力で」発展していく。

その背景になったのが、この人口増加と都市化である。地方や離島から那覇に流れ込んだ人びとは、労働者でもあり、消費者でもあった。物価と賃金は連動して上昇しており、人びとは先を争って、アメリカや日本から輸入された消費財を購入し、貨幣を流動させた。この時期の沖縄は、公共投資よりも民間投資が経済成長を主導しており、貯蓄率も極端に低く、ある経済学者によって「分不相応な」と表現されたほどの消費ブームに沸いていた。都市に流入する人びとにむけて住宅需要が高まり、建設ラッシュが発生したが、またそのことが、更なる人手不足を生み出していた。いまでは信じられないことだが、ほぼ「完全雇用」に近いほどの低い失業率を達成していた。

50年代に経済成長が始まってから、わずか20年かそこらで、沖縄社会は根底から姿を変えた。60年代にはさらに離農が加速し、産業構造は第3次産業に偏っていった。

爆発的に拡大した都市は、その内部に、スラムや貧困、犯罪、暴力といった問題を抱えることになった。路上の突発的な暴力、共同体のなかの「血の鎖」のなかで発生する怨恨、ひたすら増殖する売春街、放置される不衛生なスラム、そして猟奇的な殺人事件。

このような社会状況のなか、特に人口を増加させていた浦添で、この事件は起きた。当時の浦添は、那覇のベッドタウンとして急速に拡大していた。戦前から1950年ごろにかけて、1万1000〜1万2000人で安定していた人口が、1960年には2万5000人まで急増している。10年で2倍以上になっているのだ。流入してきた人びとの多くは離島や北部などの周辺部出身者で、基地建設によって土地を奪われたり、農業を捨てて都市部で仕事を得ようとしていた。膨れ上がった那覇都市圏(那覇、浦添、豊見城、南風原など)のなかでも、浦添の人口の伸びはすさまじい。人口増加は高度成長期が終了してもとどまることなく、2000年には10万人を突破している。おそらく、沖縄の市町村のなかでは、もっとも人口増加が激しかったのが、この浦添である。浦添で生活史の聞き取り調査をすると、よく、「ここは寄留民の街です」という語りが聞かれる。寄留民とは、沖縄の表現で、「よそから移動してきて住み着いた人びと」のことだ。浦添は、戦後の人口増加と都市化によって拡大した、「移動の街」であった。

     *  *  *

事件の主人公となったAは、地元の大地主だった親から、8000坪もの土地を相続で受け継いでいる。敗戦後に米軍が統治していた沖縄でも、日本の民法が有効とされていたが、それは戦前の明治民法で、たとえば事実上の長子相続である「家督相続」が認められていた。前代の戸主から次の世代の戸主へ、「家」のすべての財産が相続される制度である。日本本土では、戦後すぐに民法が改正され、この制度は廃止されたが、実はアメリカの施政権下におかれた沖縄では、かなり後までこの民法上の規定が残っていた。琉球政府によって古い民法上の規定が日本本土と合わせて改正されたのは、1957年である。私は、沖縄社会に色濃く残る「血縁規範」も、こうした戦後の歴史的条件がもたらしたものではないかと考えている。いずれにせよ、地主の長男であるAがすべての財産を相続できたのは、そういうわけだった。

そしてAは、せっかく譲り受けた家の財産を、すべて蕩尽してしまう。おそらく当時の浦添は、これから拡大していく那覇都市圏の重要な一部分として、いくらでも宅地の需要があったことだろう。Aのパーソナリティだけの問題ではなく、悪質な不動産業者などがいっせいに「地主のボンボン」であるAに群がっていたであろうことは、容易に想像できる。8000坪もの土地をすべて売り払っても、事件直前に手持ちの現金がほとんどなかったことから考えて、彼は、先祖から譲り受けた大切な土地を、二束三文で売り飛ばしてしまったのだろう。

被害者のB子は、宜野湾の真栄原の「飲食店」で働いていたが、Aに「身請けされた」というところから、この店はあきらかに売春宿である。沖縄の売春といえば、コザの照屋などの米兵相手の売春街がよく語られるが、言うまでもなく地元沖縄の男性相手の商売も、当時隆盛を極めていた。宜野湾の真栄原新町、あるいは「真栄原社交街」は、当時だけではなくつい最近になって沖縄県警が本腰を入れて排除するまで、非常に有名な売春街だった。多額の前借があったことから、おそらくは人身売買によって地方や離島から連れてこられて、住み込みで働いていたのだろう。当時はこのような、「貧しさからの売春」が多かった。こうした売春業や売春街の拡大も、戦後の沖縄史におけるひとつの重要な要素である。

また、B子の両親はブラジルに移民している。沖縄からの出移民は、戦後になってもおこなわれていたが、大規模におこなわれたのは戦前である。移民の全容についてはここで詳述できる余裕はないが、渡航費を自前で用意するケースも少なくなく、もしかしたらB子の「前借」とは、貧しい両親がブラジルで「一旗あげる」ための資金だったのかもしれない。

ブラジルへ移民したことと、B子が真栄原で働いていたことのあいだにどのような関係があるかは、いまとなっては一切不明だが、そこに「貧困」があることは間違いないだろう。そして、貧困の「解決法」が、戦前の移民から、戦後は本土出稼ぎと那覇都市圏への集中へと移行したということが、このB子の断片的な「家族史」のなかにも表れているのである。

そして、Aの、まるでストーカーのような異常な独占欲。定職にも就かず、犯罪を繰り返し、先祖から受け継いだ土地をすべて失ってしまったA。真栄原から身請けしたB子と所帯をもつときに、彼は自宅ではなく、わざわざ隣町で下宿を借りている。おそらく家族とは一切の縁が切れてしまったのだろう。彼は新聞記事のなかで、記者からのインタビューに答え、家族から見放されましたと答えているが、土地をすべて手放し真栄原新地の女性と結婚した彼は、事件の前からたったひとりきりになっていたのではないだろうか。甘い言葉ですり寄ってきた不動産業者やブローカー、あるいは犯罪者仲間たちは、このときにはすべて、彼のもとから去っていたことだろう。たったひとりになったAにとって、B子はどのような存在だったのだろうか。

そして、同じように、遠いブラジルの親から離れ、たったひとりで体を売っていたB子にとって、Aはどのような存在だったのだろうか。定職にも就かず手持ちの金も使い果たした彼のために、B子は小禄の空軍基地内でのペンキ塗りの仕事を見つけてきた。はじめのうちは二人で仲良く仕事にでかけていたが、やがてAはその仕事すら放棄してしまう。それでもB子は、Aのもとを離れようとはしなかった。事件当時、B子は妊娠4、5ヵ月だった。殺された夜、B子は、次の日の朝食のしたくをし、普段着で林のなかに出かけている。Aは取り調べのときに、「心中に失敗した」という主張を繰り返していたが、B子の様子からみて、Aを信じ切っていたようにみえる。その夜、真っ暗な雑木林のなかで、どのような会話がなされたのだろうか。

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