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島薗さん、福島の現状を考える上で、なぜ広島の被爆の歴史を知ることが重要なんですか?(もんじゅ君のズバリ!聞きますだよ第6回)

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不安になるのは市民の科学知識が足りないせい、とする欠如モデル

前編からのつづきもんじゅ:震災のあとによく聞いた言葉として「リスク・コミュニケーション」とか「欠如モデル(*不安になるのは市民に科学の知識が欠如しているせいだ、とする考え方)」といったものがありますね。
 専門家とよばれる方にたまに見られる態度として、「市民はよく知らないから我々が教えてあげないといけない」とか「一般人は誤解しているからあんなにビビるんだな」みたいな考え方があると思うんです。
 原発事故が起きたことで、僕たちの手元に届くニュースというのはけっして唯一の真実ではないんだなぁ、と思い知りました。もちろん嘘ではないんですが。ただ、ある視点からニュースソースを取捨選択し、編集した上で届けられている情報なわけです。「メルトダウンしてません」といってメルトダウンしていたし、「汚染水漏れてません」といって漏れていたわけですから。だからニュースを見るときにも、これはあるひとつの側面から見た真実でしかないんだ、と考えなくちゃいけない。
 リスク・コミュニケーションという言葉の使われ方や、科学者のみなさんの情報発信のしかたについて、先生はどうお考えになっていましたか。

島薗:リスク・コミュニケーションが重要なキーワードだと気がついたのは、2011年の夏から秋にかけてでしょうか。  いっぽうで「リスク社会」という捉え方が重要だということも再認識しました。原爆投下後の日本においてはアメリカが軍事的な理由で情報を操作していましたが、現代ではそういうことがなかなか通用しなくなっている。しかしそれに代わって、より巧妙な情報操作がおこなわれています。その点を理解しないと「なぜあの科学者がこんなことをいっているのか?」というところがわかりません。
 リスク論やリスク・コミュニケーションをすこし追いかけてみると、「科学でたしかに扱える領域」と、科学の外にある「政治的・倫理的な領域」の境界をうまくごまかして、科学なるものの領域を拡大して権威を通そうとする構造が見えてきました。

もんじゅ:「科学」という中心領域があって、それをおまんじゅうの皮のようにつつむ「科学にまつわるエトセトラ」の部分がある。その皮の部分までいっしょくたに「ここも科学だぞ」といって権威的に見せているわけですね。
 それは具体的にいうとどんな科学者さんのどんな発言があてはまるんでしょう。震災直後は「科学的・客観的にこうです」ということと、「だから心配しなくていい」「だから避難しなくていい」「だから飲んでも大丈夫」といった判断の押しつけがまぜこぜになっていたように思います。

予算を取るには、お金の出そうな研究テーマに設定せざるをえない

島薗:文系的にいえば、研究内容とその研究者のイデオロギーや価値観、人間関係などは切り離せない、というのは常識です。歴史認識にしたって、完全なる事実というものはなくて、どんな事実だってある特定の立場から見られたものなのだ、と考えます。  それが自然科学の場合には、立場や利害関係というものとは切り離された真実があるんだ、とふつうは考えますよね。 

もんじゅ:理系では、主観を排除した純然たる真実がある、と考えるわけですね。

島薗:そうです。だけど自然科学の場合にも、そうとはいえない要素が実はおおきい。そのことが今回の震災以降に強く認識されるようになったと思います。
 その問題のひとつには、「そもそもなにを研究するか?」という研究テーマ設定がありますよね。つまり、研究するにはお金がいるでしょう(笑)。

もんじゅ:だから、研究費の出るテーマを選んで研究することになる、と……。特に理系は文系にくらべて、研究にお金がかかりますし、動くお金が大きいですよね。

「利害関係がかかわる領域でさえ、科学的に評価できる」という驕り

島薗:たとえば電力中央研究所というところは、放射線の健康影響について研究していますが、研究目標がそもそも「放射線には健康への影響が少ないことを証明するため」なんですよ。目標がそうですから、それに合わないデータは自然と軽んじられてしまう。じゃあ、それはほんとうに真実へ向かって開かれた科学なのかどうか、疑われます。
 けれどそれが専門科学の「内側」にいると見えなくなる。専門家の集団というのは「われわれは純粋に科学的事実を扱っているんだ」といいながらも、自分たちが置かれている枠組みについては、あまり反省しないんです。そういったところをもっと学際的に検証していく必要がありますね。

もんじゅ:一見、客観的なデータについても、だれがどんな動機でおこなった研究の結果なのか注意する必要がありますね。

島薗:もう一点、リスク・コミュニケーションのあやうさというのは、「価値判断や利害関係がかかわることすら、科学的に処理ができる」と考えがちなところです。
 いろいろな要素をできるだけ数値化して科学で表せるようにし、安全の度合いを示す。そうすることでリスクを比較して、社会的な決定が下せるようにするわけです。しかしどうしても、その数値化には利害関係や立場性が忍びこんできます。

もんじゅ:なるほど。判断する側にとって都合の悪いリスクはちいさく見積もるし、反対に認めやすいリスクについては過大評価することがある、ということですね。

リスク論を医療におけるインフォームド・コンセントから考える

島薗:けれどこれはむずかしい問題です。わたしはこのことがわからなくなると、医療におけるインフォームド・コンセント(十分な情報を伝えられた上での治療方針の合意決定)と比べるようにしています。
 インフォームド・コンセントも、リスク・コミュニケーションの一種ですよね。「この治療法にはこういった危険もあるけどこんなメリットもあります。どうしますか?」と患者さんに選択肢を提示するわけです。
 患者さんは不十分な情報は相手に要求しながら自分なりの判断を下していく「べき」です。で、あるべき姿はそうなんですけど、実際はそうはならない。圧倒的に知識を持っているのは医師のほうだから、患者さんは「このお医者さんなら大丈夫」と思って任せるわけです。それとおなじようなことが原発事故でも起きたのです。

もんじゅ:事故は絶対に起きないといっているから大丈夫なんだろう、と任せていたら、大事故が起きてしまったんですね。

島薗:そうです。「素人にむずかしいことはわからないので、こちら(専門家)に任せるのが順当だ」という考え方が、生命科学とか医療の方には強いと思います。専門家のほうがリスクについてより正しい認識を持っていて、それを理解できない素人のほうが間違っているという一種のパターナリズムですね。
 しかしそうではない。たとえば医師と患者ではパースペクティブ(視点)がもともと違うんですね。素人の側から見ると、専門家とはまた違ったリスク評価もできるんです。本当はそのことを専門家と市民とでやりとりして両者が納得できる適切なリスク評価に近づけていくべきなのに、専門家側に「自分たちこそが適切な情報を持っている」という考え方が非常に強かった。
 一般の方が持つリスク評価の中には自分たちの身を守るための「不安」というものもあります。それだってひとつのリスク評価だといえると思うんですよ。しかし、専門家のほうに「放射線については不安を持つことこそがリスクを高める」というある種のドグマがある。これなんかは原発を巡る対立関係の中でつくられてきたものだと思います。

対立しつつも、やわらかな要素を含むコミュニケーションを

もんじゅ:普通の人と医師や科学の専門家といわれるような人たちが、意見のすりあわせをしてリスク評価をしていく……。それが理想ですけど、対話の場を設けて建設的な話ができるようになるまでは道のりが遠いような気がします。
 僕がツイッターでの情報発信をそもそも始めたのは、原発事故直後に「危ない!」といっている人と「大丈夫だ!」といっている人たちのあいだにまったく会話が成り立たなかったからです。極端な人たちと極端な人たちがいて、残り8割くらいの人は黙って「うーん……」と言葉を飲み込んでいるような印象がありました。ほんとうはその沈黙している人たちも含めて、おずおずとでもみんなで話し合いをできるようになればいいなと思っています。

島薗:もんじゅ君のようなゆるキャラによるコミュニケーションは非常に貴重だと思います。緊張関係、対立関係がありながらも、どこかに和解的な要素を含めながらコミュニケーションをしていくということがずっと求められていると思うんですよ。そして実際、そういう方向にすこしずつ動いているとわたしは思います。

もんじゅ:すこしずつ動いているというのは、日本の社会ですか。

島薗:日本もですし、世界的にもそういえると思います。福島を通して、原発問題をもうひとまわり大きく展開していくことが、我々の課題や責任であるような気がします。

もんじゅ:特に日本がそうなのかもしれませんが、意見の違う人同士が話をすると気まずくなってしまうところがありますよね。気まずいのは嫌だから、その話題そのものを出さないようにする。原発みたいなややこしい話にかぎらず、なんについてもそういうコミュニケーションのスタイルが少なからずあります。
 だけどそういうことが原発事故ともつながっている気がします。話しあわないことそのものが事態を放置して、悪化させてしまう。だから、賛成反対関係なく、後くされなく話ができるような風土ができていくといいなぁと思っています。

福島の健康調査は「影響はミニマム」という予測下で実施されている

島薗:対立してお互いにいがみあっているというのは、ある意味では避けられないことなので、それを避けるというのは違うと思います。対立は対立としてあるんだけど、それを通じて対立を越えていく芽が見えてくる、それをなんとか育てていくのが大切なんじゃないでしょうか。
 たとえば福島県の県民健康管理調査でいえば、当初は原子力規制庁が強引に、放射線影響を過小評価する政府側の医師をチームメンバーに入れようとしていたんです。ところがそこに地元の木田光一先生という福島県医師会の副会長の方が入られて、地元の立場から県民健康管理調査への疑問を強く呈された。これは大きな展開のきっかけになっています。

もんじゅ:福島の県民健康調査について、島薗さんはどういう印象をお持ちですか。

島薗:県民健康管理調査は「健康影響はミニマムである」という想定を持っておこなわれているんです。科学というものは、そういう予断を持つべきではありませんよね。放射線の健康影響について、特定の立場から結論を先取りしたかたちで医療支援と健康管理がおこなわれていることには大きな問題があります。
 たとえば甲状腺検査でも、「最初の3年ほどは被害は出るはずがない」ということをはじめから決めてかかっていたでしょう。もっと開かれた態度で望むべきですよ。

もんじゅ:いまでも甲状腺がんの子が見つかるたびに「これは震災以前からあったものです」といっていますね。そこは決めつけずに「わからない」というのが誠実な態度なのではないかと思います。

島薗:はい。あれは科学の態度としてもおかしいですし、被災者の抱える困難に対して非常に冷たい態度だと思います。こういったことは、特に現場に近い医師も経験しているし、市町村などの自治体の中にも認識している方が増えています。
 しかしその声を、福島県、環境省、復興庁などはできるだけ無視しようとしていますし、専門家もそういう意見を押しつぶそうとしているわけですが、それはだんだんと難しくなってきているのではないでしょうか。

国連人権理事会も「福島県立医大での健康調査には限界が」と指摘

もんじゅ:島薗さんら大学の有志の先生方が集まって構成された福島大学原発災害支援フォーラムと東京大学原発災害支援フォーラムでは、『原発災害とアカデミズム』(合同出版)という本も出されていますね。そのなかでは、「年20ミリシーベルト」という原発事故後の校庭利用基準や帰還基準が決まった経緯についても詳しく書かれていました。
 2011年4月、当時、内閣官房の参与だった東大の原子力の教授・小佐古敏荘さんが、年20ミリシーベルトというこどもたちの校庭利用基準について「わたしのヒューマニズムからしても受け入れがたい」と涙の辞任会見をしたことは強く印象に残っています。
 除染の努力もあり、もちろんいまは当時とくらべてかなり線量は下がっているわけですが、いまはどうなっているんでしょうか。

島薗:これについては専門家も政府も福島県も、みなお茶を濁しています。できるだけ多くの区域を帰還可能としたいのでしょう。そのほうが補償も少なくて済むし、県や地域社会が人口減によってこうむる害を小さくすることもできます。ですから、「健康影響はない」としたほうが当局にとってはメリットがあるということで、そういう方向性で処理するという考え方を最初から選んでいる。  しかしそれは被災者の立場からすればとても納得できませんよね。真実を隠すのはやめて必要な支援をしてほしい、そう考えるのは当然です。その支援のなかには、甲状腺がんの検査や血液検査などの健康管理も含まれるでしょう。
 しかし、国連人権理事会の特別報告書も、また日本医師会も「県立医大での県民健康管理調査では限界がある」としています。福島県に任せきりにするのではなく、国が一元的に情報を管理すべきだし、もっと健康支援に力を入れるべきでだと。また、県立医大一か所だけではなくて、地域の医師や保健所などの身近な医療支援をもっと活用したほうがいいということも日本医師会はいっています。

曖昧なまま、年20ミリシーベルトという基準が継続している

もんじゅ:もともとは「一般の人が最悪ここまでは被曝してもよい」とされているラインって、積算で年1ミリシーベルトですよね。福島の場合、それが震災後に「20ミリシーベルトまで大丈夫」だといわれてしまった。

島薗:そこらへんについても、ごまかしがものすごく多くて。政府は「1ミリシーベルトを目標にする」とはいっているけれど「20ミリシーベルトでは居住に困難だ」とは認めてはいないんです。
 2011年の11月、12月にワーキンググループ(低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ)をつくって、そこでもう1回、「20ミリシーベルトでいく」ということを確認しています。それ以後も、20ミリシーベルトで通そうということで、ずっとやってきています。

もんじゅ:じゃあ、大きく報道はされていないけれども、20ミリシーベルトという基準は継続されているということですよね。

島薗:そうです。政府の立場としては、それで貫くということで。

もんじゅ:うーん、当初は「だんだんと下げる」というニュアンスだったと思うのですが。20ミリシーベルトというラインは、いまもしっかりと生きているんですね。

「年1mSvで移住の権利」のチェルノブイリ法より冷たい?

島薗:チェルノブイリ法では「5ミリシーベルト以上であれば移住は必須。1ミリシーベルト以上では移住の権利がある」ということになっていますので、それとくらべると被災者に対して冷たいですよね。

もんじゅ:チェルノブイリ法というのは、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの各国にある原発事故の被害にあった人たちの生活支援や医療費助成などについて定めた法律のことですよね。事故からどれぐらい経ってできたんでしょうか。

島薗:1991年、事故から5年後です。

もんじゅ:福島第一原発の事故から約3年。あと2年経ったときにはどうなっているでしょうか……。もちろん、いまの日本はチェルノブイリの事故があったときの旧ソ連とはまったく状況も違うわけですし、チェルノブイリ法の話をすると「それは5年経ってからの話だから違うんだ」という反論もあるわけですが。

島薗:たしかにそういう人はいますね。でも、日本のいまの政府や専門家の考え方は、「20ミリシーベルトで通しちゃおう」ということだと思います。「20ミリシーベルトなら避難を解除して帰還をうながす」「ただし、個人の被曝線量はできるだけ1ミリシーベルトに近づけるように目指す」こういう二枚舌的な表現で、「1」と「20」だけで話を通そうとしています。

もんじゅ:「1」と「20」の間がないわけですね……(苦笑)。政府の原子力規制委員会も、エリアとしては年間20ミリシーベルトを基準にし、個人としては1ミリシーベルトを長期目標にすると11月に方針を発表しています。それに対して、与党である自民党も「空間線量ではなくて個人の線量のほうを基準に避難解除するのはどうかと」提案している。実質的に帰還のラインをゆるめているわけで、補償や除染費用の圧縮が視野にあるわけですよね。

島薗:「1」と「20」だけで話を通そうとしているけれど、実際は20ミリシーベルトだけなんですよ。これはおかしい。こどもにとっては高い線量を強いることになります。だからとても帰還する気にならないという人は多いですし、事実、そういう被災者調査の結果もいくつも出ています。

世界のキリスト教・仏教は、おおきな流れで見れば「脱原発」

もんじゅ:ところで、日本国内外の各宗教の原発や原子力に対する態度は、それぞれどんなものなのでしょう。福島の事故以降、どんな変化がありましたか。

島薗:福島の原発事故以前に、日本の宗教界でこういう問題に強い関心を向けていた団体は多くないと思います。ただ、そういうことに気がついて早くから動いていた人たちのグループというのは、いくつもありました。地域の原発立地反対運動には、仏教の僧侶やキリスト教関係者も参加していましたから。しかしそれはその宗教の教団全体から見れば、小さなグループです。
 ヨーロッパでは、チェルノブイリ事故の影響で、カトリックを中心にキリスト教会がしだいに原発批判の方向に動いていきました。福島事故を通じてその姿勢は一段と強まった。だから世界のキリスト教会は全体として原発に批判的です。
 また、仏教界も大きな方向性としては脱原発に向かっています。
 わたしの印象を申しますと、仏教界にはもちろん産業界の有力者らと関わりが深い人もおり、檀家や信徒には原発の利益に関わっている人もいるので、なかなか特定の方向性というのは打ち出しにくいんです。しかし、今回はたいへん多くの人たちが苦難をこうむっています。そういうなかで、経済組織、企業、政界、大マスコミとくらべると、宗教というものは人々の生活の場に近いところにいるんですよ。お寺でいえば地域の檀家さんとのやりとりで成り立っているわけですし、感覚としては第一次産業に近いものがある。

もんじゅ:たしかに、お寺さんというものを考えると、顔を合わせないことには始まらないという側面がありますね。

全日本仏教会が「原発によらない社会を求めて」という声明を出した

島薗:それに、地域社会が壊れてしまったらお寺というものは成り立たないのです。ですから、地域の方の感覚が教団にも理解できますので、仏教界は全体として脱原発の方向です。

もんじゅ:いろいろな仏教団体からの声明も出ていました。

島薗:2011年の12月1日に、伝統仏教のほとんどの団体が入っている全日本仏教会という連合体が出した「原子力発電によらない社会を求めて」という宣言文があるんですが、これはとても影響力が大きかったと思います。
(*宣言文の一部…「利便性の追求の陰には、原子力発電所立地の人々が事故による『いのち』の不安に脅かされながら日々生活を送り、さらには負の遺産となる処理不可能な放射性廃棄物を生み出し、未来に問題を残しているという現実があります。だからこそ、私たちはこのような原発事故による『いのち』と平和な生活が脅かされるような事態をまねいたことを深く反省しなければなりません。」)

 これを導いたのは、全日本仏教会の会長である臨済宗・妙心寺派の河野太通さんという方です。河野さんは、戦時中、仏教界は国に協力するばかりで若い人を戦地に送り出すことになんの批判も述べることができなかった、日本の侵略的な戦略に歯止めをかけることができなかった、そういう反省があるのだと述べています。
 ですから「原発にたよらない」というこの宣言は、原爆を受けたこと、またその前に戦争で多くの命を犠牲にしてしまったことともつながっているのだと思います。命を守るところにこそ宗教本来の役割がある、という共通認識が日本の仏教界にあるわけですね。全日本仏教会のほかに、西本願寺(浄土真宗本願寺派)、東本願寺(真宗大谷派)なども脱原発の声明を出しています。

宗教とは、人に悲しむ場所を与え、悲しみから力を生み出していく器

もんじゅ:島薗さんは現在、上智大学のグリーフケア研究所の所長をされているとのことですが、グリーフケアというのはいったいどんなものでしょう。宗教と密接に関わっているものなのでしょうか。

島薗:グリーフケアをわかりやすくいうと、親しい人が死んでしまい、心が傷んで立ち直ることが難しい人のための支援、ということです。
 死別の悲しみ、だいじなものをなくした喪失感……。宗教とは「悲しみを入れる器」だとわたしはいつもいっているんですが、人に悲しむ場所を与えながら、悲しみのなかから力を生み出していく機能が、かつての宗教にはあったと思います。
 たとえば、お通夜、お葬式、記念の法要といったような、死者を送り出し偲ぶ儀礼。そういうものは、悲しみから力を生み出していく働きを持っていたと思います。しかし現代ではそういう機能がなかなか働きにくくなってきて、悲しみを心のなかにためこんで、それに押しつぶされてしまうケースが増えてきている。
 また、絆が細くなっているといいますか、もろく少なくなっているといいますか、たったひとりの人間を失うと生活の根本が崩れてしまう、という状況が非常に多いと思いますね。

もんじゅ:すこし前に「無縁社会」という言葉がありましたが、頼る家族や縁者がとてもすくない方が増えているそうですね。

島薗:そうです。頼りになる絆がすくないだけに、そのひとつひとつが非常に重いわけですが、それが崩れると代わりになる支えがない。
 それから思いがけない死というのも、昔からあるんでしょうけれども、現代社会では普段は死がないものであるかのように振る舞われています。そのために、突然の悲しみに見舞われるとどうしていいかわからない。そういう別れに対処したり、おなじ経験をした人同士がお互いを支えあうということも必要でしょう。

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