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- 2010年08月19日 00:00
「まとも」への解毒剤としてのウィルバー
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ケン・ウィルバーとは何者かということをものすごく乱暴に言うと、「賢い宗教とは何か」ということを研究している人である。
現代は、賢い科学とアホな宗教の支配する時代である。今の科学は随分賢いが、昔の科学は、占星術や錬金術のようなアホな科学だった。科学はそこから随分発展したが、宗教はその時のアホなレベルで留まっている。
本当だったら、もっと賢い宗教が出て来るべきなのだが、アホな宗教が氾濫しているので、宗教はそもそも全部アホだと思う人が多くて、「賢い宗教」とは何かをみんなイメージできない。
「賢い宗教」とは科学的な宗教かと言うとそうではない。科学にもアホな科学と賢い科学があるし、そもそも科学とは宗教とは別のジャンルである。
ウィルバーは、この乱暴な話に出てくる「アホ」「賢い」とか「別のジャンル」ということを徹底的に研究した。
「アホ」とか「賢い」とかおおざっぱな言葉で言うと話がまとまらないので、「発達段階(stage)」という抽象的な言い方をした。
自転車に乗るとか泳ぐということは、一回覚えると、忘れることの方が難しい。人間のすることには、そういう、一回覚えると簡単には元に戻らないことがある。そして、Bが起こる前に必ずAが起こるという順番がある。そういう非可逆的で順番があるものを全部「発達段階(stage)」という考え方で整理したのだ。
宗教には、どの宗教にも、そういう人間の発達段階の見取り図みたいなものがあって、いろんな宗教で突き合せをすると、どれも結構似たようなことを言っている。そして、それに、マズローとかの現代の発達心理学の最前線の研究をかぶせて、一番大きな見取り図を書いた。
それで、こういうことを整理する上では、ジャンルの仕訳も重要だ。国語で5を取る人が算数も得意とは限らないように、人間の営みにはいろいろな科目がある。そういう科目を整理して、四象限の図とか、多重発達ラインという考え方にまとめた。
その見取り図の大事なポイントは、「アホ」→「ふつう」→「賢い」とはならない、ということだ。どちらかと言うと、人間は「アホ」→「まとも」→「ぶっとび」という形で成長する。たとえば、オープンソースに関わる人は「ぶっとび」系が多い。
ウィルバーの言葉で言うと、「前慣習的段階」→「慣習的段階」→「後慣習的段階」だ。「まとも(慣習的段階)」とは、合理的な考え方ができることや、自分が属する集団のルールに従えることだ。現代人の多くはこの段階なのだが、「まとも」以前の「アホ」と「まとも」を超越した「ぶっとび」のごっちゃにすることを、「プレとポストの混同」と言って、これがいろんなトラブルの種になっていると言う。
もう一つのポイントは、発達段階には非可逆性や順序が確かにあるけど、だからと言って、誰もが無理に成長する必要はないということだ。ウィルバーが「アホ」と言わずに「前慣習的段階」という言葉を使うのは、どっちが偉いという話じゃないことを強調する為だと思う。
「前慣習的段階」のアホな宗教にしっくりくる人は、それで全然かまわない。最近のスピリチャルブームの中にもアホな宗教っぽいものがたくさんあるけど、そういうもの自体は無害だ。
問題は、自然と成長して「まとも」の限界を感じて次に行きたい人がたくさんいるのに、そういう人が収まる場所が無いことだ。そういう人は、「まとも」では満足できないが、これを否定すると「アホ」に退行するしかなくなる。
現代は、賢い科学とアホな宗教の支配する時代である。今の科学は随分賢いが、昔の科学は、占星術や錬金術のようなアホな科学だった。科学はそこから随分発展したが、宗教はその時のアホなレベルで留まっている。
本当だったら、もっと賢い宗教が出て来るべきなのだが、アホな宗教が氾濫しているので、宗教はそもそも全部アホだと思う人が多くて、「賢い宗教」とは何かをみんなイメージできない。
「賢い宗教」とは科学的な宗教かと言うとそうではない。科学にもアホな科学と賢い科学があるし、そもそも科学とは宗教とは別のジャンルである。
ウィルバーは、この乱暴な話に出てくる「アホ」「賢い」とか「別のジャンル」ということを徹底的に研究した。
「アホ」とか「賢い」とかおおざっぱな言葉で言うと話がまとまらないので、「発達段階(stage)」という抽象的な言い方をした。
自転車に乗るとか泳ぐということは、一回覚えると、忘れることの方が難しい。人間のすることには、そういう、一回覚えると簡単には元に戻らないことがある。そして、Bが起こる前に必ずAが起こるという順番がある。そういう非可逆的で順番があるものを全部「発達段階(stage)」という考え方で整理したのだ。
宗教には、どの宗教にも、そういう人間の発達段階の見取り図みたいなものがあって、いろんな宗教で突き合せをすると、どれも結構似たようなことを言っている。そして、それに、マズローとかの現代の発達心理学の最前線の研究をかぶせて、一番大きな見取り図を書いた。
それで、こういうことを整理する上では、ジャンルの仕訳も重要だ。国語で5を取る人が算数も得意とは限らないように、人間の営みにはいろいろな科目がある。そういう科目を整理して、四象限の図とか、多重発達ラインという考え方にまとめた。
その見取り図の大事なポイントは、「アホ」→「ふつう」→「賢い」とはならない、ということだ。どちらかと言うと、人間は「アホ」→「まとも」→「ぶっとび」という形で成長する。たとえば、オープンソースに関わる人は「ぶっとび」系が多い。
ウィルバーの言葉で言うと、「前慣習的段階」→「慣習的段階」→「後慣習的段階」だ。「まとも(慣習的段階)」とは、合理的な考え方ができることや、自分が属する集団のルールに従えることだ。現代人の多くはこの段階なのだが、「まとも」以前の「アホ」と「まとも」を超越した「ぶっとび」のごっちゃにすることを、「プレとポストの混同」と言って、これがいろんなトラブルの種になっていると言う。
もう一つのポイントは、発達段階には非可逆性や順序が確かにあるけど、だからと言って、誰もが無理に成長する必要はないということだ。ウィルバーが「アホ」と言わずに「前慣習的段階」という言葉を使うのは、どっちが偉いという話じゃないことを強調する為だと思う。
「前慣習的段階」のアホな宗教にしっくりくる人は、それで全然かまわない。最近のスピリチャルブームの中にもアホな宗教っぽいものがたくさんあるけど、そういうもの自体は無害だ。
問題は、自然と成長して「まとも」の限界を感じて次に行きたい人がたくさんいるのに、そういう人が収まる場所が無いことだ。そういう人は、「まとも」では満足できないが、これを否定すると「アホ」に退行するしかなくなる。
UCLAが最近行なった調査によれば、アメリカの大学生の79%が、スピリチャリティを、その人生のなかで大事なことと考え、4人のうち3人までが祈りを捧げるという!しかし、彼らは、その信仰を教授と話すことができない。教授たちは、大体において「オレンジ(引用者注: まとも)」から「グリーン(引用者注:まともからちょっとだけぶっとび寄り)」であるから、学生をバカにするだろう。しかし学生のほうも、もはや、その「アンバー(アホ)」の信条の神話的で、自民族、自集団中心的なヴァージョンには満足できない。(中略)これは、恐しい選択である。「アンバー」で生きてキリストを信じるのか、「オレンジ」に意向してキリストを捨てるのか。(中略)「オレンジ」のリベラルな教育は、少なくとも現在の形で言えば、スリチャリティを抑圧する。確かにこれは残酷な選択である。(インテグラル・スピリチャリティP268)



