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- 2011年02月24日 00:00
「家族」「学校」「会社」「巨大メディア」という壁
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「中国では、googleが使えない、情報統制信じられん!」というような言論を日本ではよく目にするが、日本も同じ穴の狢じゃないかと思うのはおそらく私だけではないだろう。
日本は、たしか、「みんしゅしゅぎこっか」だったはずなのだけど、大半の人々が情報統制されてしまっているのではないか??日本には、「家族」「学校」「会社」「巨大メディア」という時代遅れの怪物が言うことを無意識のうちに刷り込まれている人々がまだまだ多くいるのではないだろうか。
ベルリンの壁を私は映像でしかみたことはない。
でも、日本にも、目には見えないベルリンの壁があるみたいだ。
その壁のむこう側とこちら側で、まったくもって、人々のこの社会への見方が変わってしまう。そんな壁が日本にはあるのではないか。
私は、村上龍という作家がとてもとても好きだった、高校生の時からの大ファンだった。村上春樹と同じ苗字だということで意味も無く比べられることが多い作家だけれど、圧倒的に私は、村上龍が好きだった。それは、彼が徹底的に、閉鎖的なコミュニティの中で群れる個性を埋没させた人間達を批判する、作品を書いており、私はそれにすごく共感していたからだ。
思えば、私は中高時代の6年間、クラスという閉鎖的な逃げ場のないシステムの中で、「いじめられない」ように、自分の主張を徹底的に押し殺し、たわいもない会話を心がけることに心血を注いできた。二度と戻りたくない時代はいつだ?と言われれば、私は間違いなく、「あの中高6年間だろう」と答えるだろう。でも、今私はあの経験がとてもよかったと思えるようになった。それは、私の中に「これは死んでも嫌だ!」と思えるものができたからだ。だから、私はその「死んでも嫌だ!」と思えるものに対し、代替できるものを自分は創らなければ、非常に生きづらくなってしまう、だから、どんな試練があってもやりにぬくことができるという、確信めいたものをもつに至っている。
私が、ツイッターやfacebookを評価し、「露出リテラシー」や「創職」といった概念をブログで発信しているのも結局のところ、閉鎖性から逃げる道を与え、自分の主張を殺さなくても生きることができる人々が増えればとてもいいなと思うからだろう。
閉鎖的なコミュニティで生きるしか方法がないのと、それ以外への逃げ場があるのとでは圧倒的な差があると私は考えている。
私の高校生時代の友人のAの妹は高校を中退しニートになり、今もニートを続けている。
その子が私にこんなことを言った。
「あなたは、私のことをぜんぜん差別しないんだね、へんだとも思わないんだね、だから私はあなたといるととても安心するし話そうと思える。」
この言葉を聞いた時私は、「あたりまえじゃないか。」と思った。「あなたは自分に正直で私のように狡猾ではなく、我慢できないタイプだったから、ニートになったにすぎないのだから。」
そう心の底から思っていた。
私はウェブ進化論という本を読んで以来、ウェブの世界へ力を入れ始めたけども、これもここではあの閉鎖的で没個性な社会とは違うものが可能になるかもしれないという思いがあった。だから、ツイッターやfacebookが登場した時、とてもとても嬉しく思ったのだ。
今は時代の変わり目だという人々がいる。たしかにそうだろう。
もう、あの「家族」「学校」「会社」「巨大メディア」という怪物の言うことなんてききたくない。きかなくても生きていける方法を考えることができる。
そしてそう思えた人々は自由に活動を始めている。
ウェブメディアはまだまだ影響力はないと言われているが、私はそう思わない。
日本は、たしか、「みんしゅしゅぎこっか」だったはずなのだけど、大半の人々が情報統制されてしまっているのではないか??日本には、「家族」「学校」「会社」「巨大メディア」という時代遅れの怪物が言うことを無意識のうちに刷り込まれている人々がまだまだ多くいるのではないだろうか。
ベルリンの壁を私は映像でしかみたことはない。
でも、日本にも、目には見えないベルリンの壁があるみたいだ。
その壁のむこう側とこちら側で、まったくもって、人々のこの社会への見方が変わってしまう。そんな壁が日本にはあるのではないか。
私は、村上龍という作家がとてもとても好きだった、高校生の時からの大ファンだった。村上春樹と同じ苗字だということで意味も無く比べられることが多い作家だけれど、圧倒的に私は、村上龍が好きだった。それは、彼が徹底的に、閉鎖的なコミュニティの中で群れる個性を埋没させた人間達を批判する、作品を書いており、私はそれにすごく共感していたからだ。
思えば、私は中高時代の6年間、クラスという閉鎖的な逃げ場のないシステムの中で、「いじめられない」ように、自分の主張を徹底的に押し殺し、たわいもない会話を心がけることに心血を注いできた。二度と戻りたくない時代はいつだ?と言われれば、私は間違いなく、「あの中高6年間だろう」と答えるだろう。でも、今私はあの経験がとてもよかったと思えるようになった。それは、私の中に「これは死んでも嫌だ!」と思えるものができたからだ。だから、私はその「死んでも嫌だ!」と思えるものに対し、代替できるものを自分は創らなければ、非常に生きづらくなってしまう、だから、どんな試練があってもやりにぬくことができるという、確信めいたものをもつに至っている。
私が、ツイッターやfacebookを評価し、「露出リテラシー」や「創職」といった概念をブログで発信しているのも結局のところ、閉鎖性から逃げる道を与え、自分の主張を殺さなくても生きることができる人々が増えればとてもいいなと思うからだろう。
閉鎖的なコミュニティで生きるしか方法がないのと、それ以外への逃げ場があるのとでは圧倒的な差があると私は考えている。
私の高校生時代の友人のAの妹は高校を中退しニートになり、今もニートを続けている。
その子が私にこんなことを言った。
「あなたは、私のことをぜんぜん差別しないんだね、へんだとも思わないんだね、だから私はあなたといるととても安心するし話そうと思える。」
この言葉を聞いた時私は、「あたりまえじゃないか。」と思った。「あなたは自分に正直で私のように狡猾ではなく、我慢できないタイプだったから、ニートになったにすぎないのだから。」
そう心の底から思っていた。
私はウェブ進化論という本を読んで以来、ウェブの世界へ力を入れ始めたけども、これもここではあの閉鎖的で没個性な社会とは違うものが可能になるかもしれないという思いがあった。だから、ツイッターやfacebookが登場した時、とてもとても嬉しく思ったのだ。
今は時代の変わり目だという人々がいる。たしかにそうだろう。
もう、あの「家族」「学校」「会社」「巨大メディア」という怪物の言うことなんてききたくない。きかなくても生きていける方法を考えることができる。
そしてそう思えた人々は自由に活動を始めている。
ウェブメディアはまだまだ影響力はないと言われているが、私はそう思わない。



