記事

裁判官は裁判員に「経験則」を教えられるか(1)

一つの最高裁決定

ウガンダ在住のイギリス人地質学者ソウヤー・ジョフリー・ロバートさん(53歳)は、2010年5月末にウガンダを出国し、ケニアとベナンに立ち寄ったのち、パリ経由で成田空港に降り立った。空港での税関検査の際、彼が持っていたスーツケースの側面に細工が施されており、その中から粘着テープなどで2包に小分けされた覚せい剤約2.5kgが発見された。彼は覚せい剤密輸の罪(覚せい剤取締法違反と関税法違反)で起訴された。ロバートさんは、仕事で使う自動車やPCなどを買うために来日した;ウガンダの自宅を出発する際にメイドのエリザベスに荷造りを頼み、そのままスーツケースを持ってきた;中に覚せい剤が入っていることなど知らなかった、と言った。さらにロバートさんは、スーツケース内の荷物を日本に運ぶことを誰かから依頼されたということもないし、また、日本についたら誰かに連絡するなど荷物の回収方法について誰かに指示されたこともないと述べた。

千葉地方裁判所は、裁判官3名(後藤眞理子裁判長、裁判官角谷比呂美、同土倉健太)と6人の裁判員で公判審理を行い、ロバートさんを無罪とした。判決は、スーツケースの外観や重さなどから、中を開けてみたりしても異常に気づいたはずだとは言えない;税関検査時のロバートさんの態度は色々な意味に解釈できるのであって、直ちに薬物の認識に結びつくとは言えない、とした。また、荷物の委託や回収方法の指示がなかったという被告人の供述については、次のように述べて虚偽とは断定できないと指摘した。

「覚せい剤密輸組織は、目的地到着後に運搬者から覚せい剤を回収するために必要な措置を、予め講じているはずであると考えられる。しかしながら、そのような措置としては、様々なものが考えられるのであって、運搬者に事情を知らせないまま、同人から回収する方法がないとまではいえない。」(千葉地判平23・6・17未公刊・同裁判所平成22年(わ)第1190号)

検察官が控訴した。東京高等裁判所第3刑事部(裁判長金谷暁、裁判官土屋靖之、同伊東顕)は、原判決を破棄してロバートさんを懲役10年と罰金500万円に処する有罪判決を言い渡した。千葉地裁が指摘した、覚せい剤の回収方法には様々なものがあり、運搬者に知らせないで回収する方法がないとはいえないという点について、東京高裁は「現実に想定することが困難な、机上の論理」だと言った。東京高裁の裁判官は、密輸組織は必ず覚せい剤を回収する手立てを講じているはずであり、「運搬者が、覚せい剤密輸組織の者からにしろ、一般人を装った者からにしろ、誰からも何らの委託も受けていないとか、受託物の回収方法について何らの指示も依頼も受けていないということは、現実にはありえない」と言い、これを「回収措置に関する経験則」と名づけた。この「経験則」に照らせば、被告人の供述が虚偽であることは明らかであり、彼がスーツケースの回収に関し密輸組織から何らかの指示または依頼を受けていたことは明らかである、と断定した。

千葉地裁は、ロバートさんの渡航費用を誰が負担したかについて判断していない。しかし、東京高裁は「被告人が自ら渡航費用等の経費を負担したとは考え難く」密輸組織が負担したと考えるのが合理的だとした。そのうえで、東京高裁の裁判官はこう推論した――「そのような費用を掛け、かつ、発覚の危険を犯してまで秘密裏に本邦に持ち込もうとする物、しかも本件スーツケースに隠匿しうる物としてまず想定されるのは、覚せい剤等の違法薬物であるから、特段の事情のない限り、被告人において、少なくとも、本邦に持ち込むことを指示又は依頼された本件スーツケースの中に覚せい剤等の違法薬物が隠匿されているかもしれないことを認識していたものと推認される。」(東京高判平24・4・4未公刊・同裁判所平成23年(う)第1158号。強調は引用者)

ロバートさんは上告した。最高裁判所第1小法廷(裁判長横田尤孝、裁判官櫻井龍子、同金築誠志、同白木勇、同山浦善樹)は、ロバートさんの上告を棄却する決定をした。第1小法廷は、東京高裁が言う「回収措置に関する経験則」(覚せい剤を運搬した者が、誰からも委託を受けていないとか物の回収方法について指示や依頼も受けていないということはありえない)について、「例外を認める余地がないという趣旨であるとすれば、……適切なものとはいえないが」という留保を付けつつ、それを概ね肯定した。

「[密輸]組織にとってみれば、引き受け手を見付けられる限り、報酬の支払いを条件とするなどしながら、運搬者に対して、荷物を引き渡すべき相手や場所等を伝えたり、入国後に特定の連絡先に連絡するように指示したりするなど、荷物の回収方法について必要な指示等をした上、覚せい剤が入った荷物の運搬を委託するという方法が、回収の確実性が高く、かつ、準備や回収の手間も少ないという点で採用しやすい密輸方法であることは明らかである。これに対し、そのような荷物の運搬委託を伴わない密輸方法は、目的地に確実に到着する運搬者となる人物を見つけ出した上、同人の知らない間に覚せい剤をその手荷物の中に忍ばせたりする一方、目的地到着後に密かに、あるいは、同人の意思に反してもそれを回収しなければならないなどという点で、準備や実行の手間が多く、確実性も低い密輸方法といえる。そうすると、密輸組織としては、荷物の中身が覚せい剤であることまで打ち明けるかどうかはともかく、運搬者に対し、荷物の回収方法について必要な指示等をした上で覚せい剤が入った荷物の運搬を委託するという密輸方法を採用するのが通常であるといえ、荷物の運搬の委託自体をせず、運搬者の知らない間に覚せい剤をその手荷物の中に忍ばせるなどして運搬させるとか、覚せい剤が入った荷物の運搬の委託はするものの、その回収方法について何らの指示等もしないというのは、密輸組織において目的地到着後に運搬者から覚せい剤を確実に回収することができるような特別の事情があるか、あるいは確実に回収することができる措置を別途講じているといった事情がある場合に限られると言える。したがって、この種事案については、上記のような特段の事情のない限り、運搬者は、密輸組織の関係者等から、回収方法について必要な指示等を受けた上、覚せい剤が入った荷物の運搬の委託を受けていたものと認定するのが相当である。」最1小決平25・10・21裁判所ウェブサイトhttp://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20131023092307.pdf、6頁(強調は引用者)

第1小法廷の裁判官は、本件にはこのような「特段の事情」がないから、被告人は密輸組織の関係者から回収方法について必要な指示等を受けたうえで日本に運搬する委託を受けていたと認定するのが相当だとした(同前)。さらに、第1小法廷は、東京高裁が有罪認定に利用したもう一つの「経験則」――渡航費等の費用をかけ、かつ、スーツケースに隠匿できる物として想定できるのは覚せい剤等の違法薬物であるから、これらの事情があるときは、特段の事情がない限り、スーツケースの中に覚せい剤等の違法薬物が隠匿されているかもしれないことを認識していたと推認できる(「費用+隠匿=認識」の経験則)――についても「合理的で、誤りはない」と結論した(同、8頁)。こうして、6人の市民と3人の裁判官が証人や被告人の発言や態度を目の当たりにしたうえで数日間評議をした結果、被告人が自分のスーツケースの中に覚せい剤が入っているのを知っていたということには疑問が残るとした判断は、高裁と最高裁の合計8人の裁判官の書面審理によって覆された。初老の学者は言葉も通じない東洋の異国の地で長期間の拘禁刑に服することになった。

最高裁決定をどう読むか

日本の刑事訴訟法では、最高裁判所は憲法判断をしたり法令解釈を統一したりする役割を果たすだけではなく、裁判所に提出された証拠を吟味して事実を認定する機能も与えられている。控訴裁判所の事実認定に重大な誤りがありそれが著しく正義に反すると考えるときは原判決を破棄することができる(刑訴法411条3号)。ロバート事件も、東京高裁の事実認定に重大な事実誤認があるという被告人の上告理由に対して、最高裁は証拠を検討した結果事実誤認はないという判断をしたものと理解できる。特定の事件で提出された特定の証拠を検討して、原審の事実認定が正しかったと言っているだけである;だから、この決定で述べられていることが他の事件に影響を与えることはありえない、そう考えることができる。けれども、この決定はこうした「事例判断」を超えた、今後の別の刑事裁判にも適用されるべき事実認定のルールを定めたものだという理解があり得る。決定文自身の中に「この種事案については‥‥と認定するのが相当である」という表現がある。これは、本件と同様の覚せい剤密輸事件については、本決定が是認した「経験則」――「回収措置に関する経験則」と「費用+隠匿=認識」の経験則――を適用すべきだという、事実認定上のルールを設定したものだという理解である。第1小法廷の裁判官がいわゆる三行半の決定ではなく、理由を詳細に説明していることは、この理解を裏付けるかもしれない。しかし、この決定をそうしたルール・メーキングな決定だと理解することは、刑事裁判の鉄則についての重大な憲法問題を引き起こし、そして、裁判員制度を骨抜きにする危険性をはらんでいるのである。この最高裁決定をどう読むかによって、この国の刑事司法の将来の方向は全く違ったものになるであろう。その理由を説明しよう。

検察官の証明責任の程度と範囲

刑事裁判においては、被告人は自分の無罪を証明する責任を負担しない。無罪の証拠を提出する責任も負わないし、無罪であることについて事実認定者を説得する責任もない。犯罪の有無に関する証明責任――有罪の証拠を提出し、被告人が有罪であることについて事実認定者を納得させる責任――は全て被告人を刑事訴追した政府の側が負うのである。被告人が「有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する」(世界人権宣言11条1項、市民的及び政治的権利に関する国際規約14条3項)というのはそういうことである。

有罪の立証に必要な証明の程度を具体的に定めた法律の規定はない。しかし、個人の生命や自由の剥奪につながる有罪の認定に必要な証明の程度が非常に高度なものでなければならないことは言うまでもない。18世紀イギリスの偉大な法律家サー・ウィリアム・ブラックストンは「重罪を推認する証拠を受け入れることは慎重でなければならない。なぜなら、法は、10人の有罪の者を逃がす方が1人の無実の者を罰するよりも良いことと定めているからである」と述べた(4 William Blackstone, Commentaries, 352)。今日の文明国では、刑事裁判における有罪の証明は、民事裁判における証明基準――「証拠の優越」(preponderance of evidence)――をはるかに凌駕するもの、すなわち、「合理的な疑いを容れない程度の証明」(proof beyond a reasonable doubt)でなければならないとされている。アメリカ連邦最高裁判所は、1970年のウィンシップ事件(In Re Winship, 397 U.S. 358 (1970))において、刑事裁判における有罪の証明が「合理的な疑いを容れない」ものでなければならないことは憲法が保障するデュー・プロセスの要請であるとした。

「合理的な疑いの基準は、アメリカの刑事手続の機構のなかで必須の役割を演じている。それは事実誤認に基づく有罪認定の危険を減少するための第一の道具である。この基準は無罪の推定――それは根源的にして「定理のごとき初歩的な」原則であって、「その活力が我々の刑罰法の運営の基礎に横たわっている」――に具体的な実質を付与するものである。id., at 363.

「更に言えば、合理的な疑いの基準を採用することは、刑罰法の適用において地域社会が尊厳と自信を獲得するために必要なことである。無実の人が罰せられたかもしれないとの疑惑を人々に残すような証明の基準によって刑罰法の道徳的な力が弱められないということは、きわめて重要なことである。そしてまた、われわれの自由な社会においては、政府は適切な事実認定者を究極的な確実さをもって説得しない限り、個人を有罪と認定できないことについて、日常生活をおくるいかなる個人も自信を持っていられるということが大切なのである。id., at 365.

「合理的な疑いの基準の憲法上の価値に関していかなる疑問も残さないために、われわれは次のとおり明示的に判示する――デュー・プロセス条項は、被告人が訴追された犯罪を構成するのに必要な全ての事実について合理的な疑いを容れない程度の証明がなされない限り有罪とされないという保護を被告人に与えている。Id.(強調は引用者)」

わが国の最高裁判所も、有罪の立証のためには非常に高度の証明が必要だと言っている。最高裁判所昭和23年8月5日判決は、刑事裁判における有罪の証明の程度は「通常人ならば誰でも疑いを差挟まない程度に真実らしいとの確信を得ること」でなければならないとした(最1小判昭23・8・5刑集2‐9‐1123、1124)。最高裁判所昭和48年12月13日判決は、「反対事実の存在の可能性を許さないほどの確実性を志向したうえでの『犯罪の証明は十分』であるという確信的な判断に基づくものでなければならない」と言った。(最1小判昭48・12・13判時724-104、111)。そして、最高裁判所第1小法廷平成19年10月16日決定は、「刑事裁判における有罪の認定に当たっては,合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が必要である」とした(最1小決平19・10・16刑集61‐7‐677)。前述のようにウィンシップ判決は合理的な疑いの基準が「訴追された犯罪を構成するのに必要な全ての事実」に当てはまることを明言した。日本の最高裁はこの点について明言はしていないが、犯罪の主観的な要素については高度な立証は要求されないなどと言ったことはない。日本の最高裁判例も、主観的要素であれ客観的要素であれ、訴因となっている犯罪を構成する全ての事実について合理的な疑いを容れない程度の証明が必要であり、それは憲法の要請であると解しているというべきである。この点で日米の憲法解釈に差異があるという根拠はどこにもない。

【関連記事】
裁判官は裁判員に「経験則」を教えられるか(2)

あわせて読みたい

「裁判員制度」の記事一覧へ

トピックス

議論福島第一原発処理水の海洋放出は許容できるリスクか?

ランキング

  1. 1

    ひろゆき氏が日本の日付管理評価

    西村博之/ひろゆき

  2. 2

    田原氏「菅首相は地雷を踏んだ」

    田原総一朗

  3. 3

    北野武 死の「理由」憶測に持論

    NEWSポストセブン

  4. 4

    野党合同ヒアリングの悪者さがし

    千正康裕

  5. 5

    岡村結婚の裏に涙のエレベーター

    文春オンライン

  6. 6

    大阪市なくなるのは嫌という心理

    音喜多 駿(参議院議員 / 東京都選挙区)

  7. 7

    東京五輪中止の噂に組織委真っ青

    WEDGE Infinity

  8. 8

    在宅勤務のオンライン会議に弱点

    ヒロ

  9. 9

    白昼堂々万引きも放置? 米の現状

    後藤文俊

  10. 10

    給付金効果はあったが見えぬだけ

    自由人

ランキング一覧

ログイン

ログインするアカウントをお選びください。
以下のいずれかのアカウントでBLOGOSにログインすることができます。

コメントを書き込むには FacebookID、TwitterID のいずれかで認証を行う必要があります。

※livedoorIDでログインした場合、ご利用できるのはフォロー機能、マイページ機能、支持するボタンのみとなります。