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- 2011年07月06日 23:00
国会だけでは無理な「総理(閣僚)の器」
小説家の島田雅彦さんが、ツイッターで発信している。
「菅総理、康夫ちゃんをスルーしないで、堂々と反原発で開き直ったらいいぢゃないか。どうせ原発推進派の同僚たちからも見限られてるんだから。」
康夫ちゃんとは、元長野県知事で、現・参議院議員の衆議院議員の田中康夫氏のことだろう。
菅総理には、失うものはもう何もないはず。周囲への気配り、政治的配慮が不要となったいま使えるカードは田中康夫氏じゃないか。わたしもそう思う(別に総理にと言っているつもりはありません)。
まじめな話、わたしは、総理はもちろん、どの閣僚であっても、知事や市区町村長といった首長経験が求められるのではないかと思っている。
内閣総理大臣は国会議員の中から選ばれる議院内閣制をとっているが、国民の多くがかりに菅さんをやめさせてもだれがやるの? だれがやっても同じ、いまの難局を突破できる力量を持っているのか、と思っている。自民党の谷垣さんにも、そんな期待値は大きくは膨らまない。
日本の国民が嫌と言うほど見せつけられてきた能力のない総理の数々は、日本の議員の仕事の質と関わっているのではないかと思う。
自民党にせよ民主党にせよ、国会議員に当選して、閣僚級のポストに就くまでなんの仕事をしてきた? 国会議員になるまでなんの仕事をしてきた?(政治家の秘書だったり?)
週末になると有権者のもとに姿を見せる国会議員の姿を見れば、おおよその想像はつくはず。
中身のない挨拶をして、中身のない会話をして。
そして、選挙でも名前の連呼だけウグイスと呼ばれる女性にさせておいて、企業・団体回りに明け暮れる。
いったいどこで政策を勉強しているのか。かりに勉強していたとしても「勉強会」と称する、派閥もしくは超党派の集まりの中にどれだけの意義を見いだすことができるだろう。
東京で行われている「政治」のなんたるやは知らない。
しかし、5年、10年、15年と、国会議員生活を重ねていく中、そのうち、派閥の幹部、長に上りつめていったとしても、そこで身につくものは総理として必要な技量のうちの何で、何が不足するのだろう。
総理も、各大臣も、政治の長ではなく、行政府の長なのだ。
行政は経営(マネジメント)が出来てなんぼの世界のはずだが、そんなことわからなくても総理や大臣が務まるぬるま湯体質が日本にはあったのではないか。
そんな中で現在の行政府の長に求められる力量は身につくとは到底思えない。
わたしは、菅さんは「アホ」だとは思わない。むしろ、日本の政治の世界の中では有名な大学の工学部出身であってその能力が期待されたはずの有能な人材のはずいであったが、機能はしない現実に洗われている。
前にも書いたように、残念ながら、日本の総理の選ばれ方は、所詮は、地方議会の議長選びと一緒。議院内閣制のもとでは、700人の国会議員の中から、たまたま、多数党となった政党の中の派閥力に長けたり、派閥の力学からおはちが回った人に幸運の女神がほほえんで総理というポストを用意してきた。
そのように総理というポストを用意してもらえるのも実力のうちだが、日本の国をマネジメントしていく力が備わっているかどうかとはまったく別次元の話だ。
いま求められている能力は、国をマネジメントとしていく力だ。
国会議員から総理になった人々にはおそらく身につけることができなかった才能だろうと思う。
しかし、その能力を磨く機会は、大統領制によって選出される地方自治体の長という職の中ではかなり存在するる。
アメリカ大統領の中にも、知事出身者が多く存在する。
たんに国会を長く経験するだけでは総理にふさわしい人は見いだしにくいのが実情ではないか。
菅さんも、ここまで開き直れるのであれば、もはや、国会の慣例に従うシガラミはもうなさそうだ。
いままでの総理には出来なかったことで、できることで、正しい選択は何か、この際、見つけておいてほしい。
「菅総理、康夫ちゃんをスルーしないで、堂々と反原発で開き直ったらいいぢゃないか。どうせ原発推進派の同僚たちからも見限られてるんだから。」
康夫ちゃんとは、元長野県知事で、
菅総理には、失うものはもう何もないはず。周囲への気配り、政治的配慮が不要となったいま使えるカードは田中康夫氏じゃないか。わたしもそう思う(別に総理にと言っているつもりはありません)。
まじめな話、わたしは、総理はもちろん、どの閣僚であっても、知事や市区町村長といった首長経験が求められるのではないかと思っている。
内閣総理大臣は国会議員の中から選ばれる議院内閣制をとっているが、国民の多くがかりに菅さんをやめさせてもだれがやるの? だれがやっても同じ、いまの難局を突破できる力量を持っているのか、と思っている。自民党の谷垣さんにも、そんな期待値は大きくは膨らまない。
日本の国民が嫌と言うほど見せつけられてきた能力のない総理の数々は、日本の議員の仕事の質と関わっているのではないかと思う。
自民党にせよ民主党にせよ、国会議員に当選して、閣僚級のポストに就くまでなんの仕事をしてきた? 国会議員になるまでなんの仕事をしてきた?(政治家の秘書だったり?)
週末になると有権者のもとに姿を見せる国会議員の姿を見れば、おおよその想像はつくはず。
中身のない挨拶をして、中身のない会話をして。
そして、選挙でも名前の連呼だけウグイスと呼ばれる女性にさせておいて、企業・団体回りに明け暮れる。
いったいどこで政策を勉強しているのか。かりに勉強していたとしても「勉強会」と称する、派閥もしくは超党派の集まりの中にどれだけの意義を見いだすことができるだろう。
東京で行われている「政治」のなんたるやは知らない。
しかし、5年、10年、15年と、国会議員生活を重ねていく中、そのうち、派閥の幹部、長に上りつめていったとしても、そこで身につくものは総理として必要な技量のうちの何で、何が不足するのだろう。
総理も、各大臣も、政治の長ではなく、行政府の長なのだ。
行政は経営(マネジメント)が出来てなんぼの世界のはずだが、そんなことわからなくても総理や大臣が務まるぬるま湯体質が日本にはあったのではないか。
そんな中で現在の行政府の長に求められる力量は身につくとは到底思えない。
わたしは、菅さんは「アホ」だとは思わない。むしろ、日本の政治の世界の中では有名な大学の工学部出身であってその能力が期待されたはずの有能な人材のはずいであったが、機能はしない現実に洗われている。
前にも書いたように、残念ながら、日本の総理の選ばれ方は、所詮は、地方議会の議長選びと一緒。議院内閣制のもとでは、700人の国会議員の中から、たまたま、多数党となった政党の中の派閥力に長けたり、派閥の力学からおはちが回った人に幸運の女神がほほえんで総理というポストを用意してきた。
そのように総理というポストを用意してもらえるのも実力のうちだが、日本の国をマネジメントしていく力が備わっているかどうかとはまったく別次元の話だ。
いま求められている能力は、国をマネジメントとしていく力だ。
国会議員から総理になった人々にはおそらく身につけることができなかった才能だろうと思う。
しかし、その能力を磨く機会は、大統領制によって選出される地方自治体の長という職の中ではかなり存在するる。
アメリカ大統領の中にも、知事出身者が多く存在する。
たんに国会を長く経験するだけでは総理にふさわしい人は見いだしにくいのが実情ではないか。
菅さんも、ここまで開き直れるのであれば、もはや、国会の慣例に従うシガラミはもうなさそうだ。
いままでの総理には出来なかったことで、できることで、正しい選択は何か、この際、見つけておいてほしい。



