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半沢直樹とあまちゃんが示す、テレビドラマのあり方(1)〜二つの共通部分は?

ご存知のように、今年に入って「半沢直樹」「あまちゃん」二つのドラマが高視聴率を獲得した。「半沢直樹」の最終回は21世紀に入ってから放映されたドラマでトップ、「あまちゃん」の平均視聴率は朝ドラで二位という快挙だった。長期にわたるテレビ視聴率の低下の中で気を吐いたわけだが、なぜこの二作品がこのような快挙を達成することが出来たのだろうか?今回はこれについてメディア論的に考えてみたい。で、僕はこの二つのドラマの高視聴率の背後に現在のテレビの不調、そしてテレビというメディアの将来が見えると考えている。

メディアの不調はインターネットのせいではない?

内田樹は著書『街場のメディア論』(2010、ちくま新書)のなかで、「メディアの不調」というタイトルで既存のメディアの退潮について考察を加えている。一般にテレビや雑誌などのマスメディアの不調は、インターネットの出現によって情報ソースが多様化していることに求められると分析がなされるが、内田はこれを否定する。そして、その原因を論考のタイトルどおり「メディアの不調」に求めている。簡単にまとめてしまえば、要するにレベルの低いコンテンツを作っているからダメになっているだけであって、ちゃんと作れば、これは克服できると論じているのである。

「内田節」ゆえ、少々乱暴な議論であることは確か(まあ、そこが楽しいのだけれど)。ただし、この主張、僕は若干の留保を加えることで納得がいった。確かに情報ソースの多様化の中で、テレビのような既存のメディアは、あまたあるメディアの一つに成り下がり、他のメディアとの客の奪い合いが発生して、かつてのような「わが世の春」を謳歌することができなくなっているのは確かだ。しかし、それ以上に、この不調は激しすぎるのではないか。つまり、予想以上に低下している(まあ、これは様々なメディアによって人材が引き抜かれ、よい人材が集まりにくくなっていることもあるだろうが)。いくらなんでも、ここまで酷くはならないはずだ。

そこに「半沢直樹」と「あまちゃん」である。前者は初回19.4%からジワジワと視聴率を上げ、最終的には42.2%に達した。後者も平均視聴率20.6%という高視聴率を達成したのだ(両方とも尻上がりだった)。ということは、この二作品は「ちゃんと作った」から認められて視聴率をとっただけ、と考えることも出来る(多様化というマイナス要因を考慮すれば、かつてだったらもっと視聴率を稼げたのではないかとも考えられる)。ということは、この二つのドラマの「ちゃんと作ったところ」を分析すれば、テレビドラマの未来が開けるということになる。そこで、二つの作品に「共通するちゃんとしたところ」と「独自のちゃんとしたところ」、つまり魅力の二つの側面を析出してみよう。で、今回は前半として「共通するちゃんとしたところ」について取り上げてみたい。

中村伊知哉氏の分析への不満

慶応大学の中村伊知哉がこの二つの人気の秘密について論じている(http://ichiyanakamura.blogspot.jp/2013/09/vs.html。まず、「半沢直樹」の人気の要因については「ヒーロー願望」「わかりやすさ」の二点を指摘している。前者については等身大のヒーローがサラリーマンの願望を体現したこと、後者については勧善懲悪の時代劇を展開したことが取り上げているが、ちょっと説得力には乏しい。というのも、この二つの要素だけでは他のドラマとの差異化が図れないからだ。つまり、よくある図式の一つでしかなく独自性が見えない。一方、「あまちゃん」については「様々な人間模様」がポイントとしてあげられているが、こういった「群像」的なドラマも、やはりよくあるパターンの一つでしかない。また、たくさんの人間ドラマを描いたところで、これが魅力を放つとも限らない。日本のガラケーが「売らんかな」の姿勢で、機能を次々と加えた、いわゆる「全部盛り」を押し出したことがあったが、その後登場したスマホ(当初iPhone、全部盛りではない)に駆逐されたといった例でもわかるように、「合わせ技一本」というやりかたは必ずしも「量が質に転化される」ということにはならない。要するにどちらの分析にしても「それは他でもやっているよ」という可能性を排除できていないのである。だから説得力が弱い。

「半沢直樹」と「あまちゃん」の共通項は「情報圧」と「テンポ」

じゃあ、この二作品が視聴率を獲得した理由はどこに求められるのだろう?ということで、まず、「共通するちゃんとしたところ」について考えてみよう。この二作品に共通するもの、それは「情報圧」と「テンポ」だ。

ばらまかれる膨大な情報量

情報圧とは、圧倒的な情報量によって視聴者にかけられる圧力のこと。二作品は、ともに一つの番組の中に数本分の情報を詰め込むというやり方を採用している。これは例えば映画なら「スターウォーズ」「パイレーツ・オブ・カリビアン」「20世紀少年」あたりが典型的。これらはとにかく一回では分析不可能なほどの情報を見る側に降り注ぐ。だから、これを解析しようと映画館に複数回通ったり、ビデオで何度も繰り返し見たり、SNSで情報交換したりすることになる。これによって視聴者は情報という海の深海魚となり情報圧を感じるようになるのである(で、これが快感)。そして、こういった近年の情報圧を高める手法がテレビに持ち込まれたのが、この二つのドラマなのだ。朝七時半にBSで放送されていた「あまちゃん」は、その前の時間枠で朝ドラ「純情きらり」が放送されていたが、この二つを順番に見ると「きらり」の方はスカスカに見えた。だが、これは正しくは「きらり」がスカスカなのではなく、「あまちゃん」がギュウギュウだったのだ。(ちなみに、テレビでこの手法を採った嚆矢は「踊る大捜査線」あたりだろう。とにかく、細々とした情報を番組内に盛り込んだ結果、視聴者にネットやビデオでこれを掻き出すような作業をやらせることに成功し、視聴者は熱狂した)。

速いテンポ、そして短いエピソードによる情報拡散と、長いエピソードによる情報の圧縮

ただし、情報圧を高めるという手法だけでは視聴率獲得の決定打とはならない。これに加えられたのは「テンポ」だ。とにかく、ものすごくテンポが速いのだ。二つとも速いテンポ、つまり短いスパンでシーンが次々と変わり、次第に加速していく。ただし、ただ速いだけではない。じっくり見せたいところは突然遅くして、それまで速いテンポで提供されていた情報をまとめ上げる。たとえば「半沢直樹」なら麻生支店長や大和田常務を落とすシーン。「あまちゃん」の場合は、鈴鹿ひろ美が海女カフェで「潮騒のメモリー」を歌うシーン。後者では、薬師丸ひろ子に、なんとフルコーラスを歌わせている。そして、この長いシーンには、これまで短いスパンでばらまいた情報が何らかのかたちでびっしりと再現=回収される。半沢の麻生や大和田に対する思い、潮騒のメモリーにまつわるそれぞれの人間ドラマ。見ている側としては、そのことを腑分けできなくても、それまで無意識に詰め込んだ情報が一気に絞り出されるので(ちなみに、この長回しの時には、しばしば、詰め込まれて「課題」となったいた情報の「回答」が盛り込まれている。「半沢」は謎解きであり、「あまちゃん」は登場人物たちの思い=トラウマだ)、ここで理由はわからなくともでグッと感動するという仕掛けになっているのだ。

こういった情報とテンポが織りなすアンサンブルは、翻って、見ている側にある種のマゾヒスティックな緊張を感じさせることになる。視聴者はつぎつぎと情報の連射を打ち付けられることによって、いわば「前戯」を徹底的に受け、次いで長いエピソードシーンで、これを一気に発散させることで「エクスタシー」に達するのだ。しかも、その間、ずっと緊張を強いられるのである。ちなみに、この手法を用いた傑作は映画『ニュー・シネマ・パラダイス』で、ラストの試写室のシーンでひたすら過去の映画のキスシーンとハダカのシーンが流れるのだが、これでほとんどの観客の涙腺が開きっぱなしになるのは、このメカニズムを採用しているからに他ならない(クドカンはあまちゃんの第二部、東京編の最終回で、映画「潮騒のメモリー」の試写会のシーンを用意しているが、これは完全にこの映画へのオマージュだ。もちろん技法もそのまま使われている)。

イリンクスの快感

社会学者のR.カイヨワは「遊び」の要素としてアゴン=競争、アレア=偶然、ミミクリ=模倣、イリンクス=めまいをあげているが、「半沢直樹」と「あまちゃん」がわれわれにもたらす緊張の快感は最後のイリンクスに該当する。解読がまったく不能なほどの膨大な数の情報の前に晒されたとき、われわれは一般的に、緊張し、めまいに陥るが、その際には二つの反応パターンがある。一つは、情報量におののいて、それを拒絶しようとしたり不安に陥ったりするという反応だ。たとえば、大型書店に出かけたときに、思わずクラクラしてしまうのがこのパターン。もう一つは、反対にその情報の海の中に身を投げてしまうという反応だ。ディズニーランドで遊ぶ状態がこれで、全てがディズニーで埋め尽くされた環境の中に身を置くことで、自らがディズニー世界に身を投げ、これと一体化する(ミニーのカチューシャを買い求めてパーク内を闊歩するなんて行動がその典型。このカチューシャをパーク外でつけていたら、ものすごく不自然だろう。でもパーク内では何とも思わない、というか、こうすることが快感になる)。そうすることで自我は崩壊し、ディズニーという揺籃に囲まれてホリスティックな感覚の中でエクスタシーを感じることが出来る(ロックコンサートで熱狂することもこれと同様)。ディズニーに優しく包まれるのである。

「半沢直樹」と「あまちゃん」は、視聴者にその都度ものすごい情報量を提供しつつ、次々と新しい情報を速いテンポで繰り出し、そしてこの繰り出すパターンに緩急をつけていく。しかもこれはどんどんと加速し(加速度は「あまちゃん」より「半沢」の方が上。詳述は次回)、緊張感を強めさせながら、次第に視聴者を作品の展開の中に巻き込んでいき、その自我を消滅させる。そして、最終的に視聴者をエクスタシーへと誘うのである。

こういった手法を「半沢直樹」「あまちゃん」以前にすでに採用し、傑作を作った先達が二人いる。一人は伊丹十三。伊丹は映画「お葬式」「マルサの女」「あげまん」など数々の名作を世に放っているが、いずれも情報圧とテンポを活用したイリンクス的展開を得意としていた。もう一人は和田勉で、NHKドラマ「ザ・商社」の中でまったく同じ手法を用いて張り詰めた緊張感を持続させ、テレビドラマ史上屈指の傑作を作り出している(本作で夏目雅子が演技を開眼させ、スターダムへとのし上がっていったことはつとに有名だ)。この手法を二作品のスタッフたちは踏襲しているとみた。ちなみに「あまちゃん」の中には、この二人にまつわる人物が二名登場する。一人は宮本信子。ご存知のように宮本は伊丹十三の妻で、伊丹作品の多くに主演している。もう一人は塩見三省演じる「琥珀の勉さん」。本名は小田勉で、これは和田勉をモチーフにしたものだろう。クドカン、ひょっとしてこの二人をリスペクトしているのかも?いや、多分、確信犯だろう。それほどまでに作風は近い。

さて、今回は二つの作品に「共通する」メディア論的な独自性、つまりストーリーや要素=内容ではなく、作風というメディア性=形式に焦点を当てて、その魅力、つまり「ちゃんとしたところ」を考えてみた。次回は、二つの作品の「異なったちゃんとしたところ」についてみていこう。(続く)

【関連記事】
「半沢直樹」の魅力を分析する〜半沢直樹とあまちゃんが示す、テレビドラマのあり方(2)

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