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思考停止の時代(2)~そのメカニズムを分析する

「思考停止」について考えている。前回は思考停止が「自らの立ち位置や前提を一切振り返ることなく、議論を展開すること」=認識論の片肺飛行であること、そして○○至上主義であること、突き詰めれば「他者への視線の欠落」であること、そして最近メディアを騒がせるアジェンダ(喫煙、飲酒、体罰、原発、捕鯨、竹島……)が思考停止に陥っていること、つまり他者の立場を考慮することなく、一方的に自説を展開し続けていることを指摘しておいた。でも、なぜ、こういった「思考停止」が発生するのか。今回は、そのメカニズムについて、メディア論的側面から情報化社会の進展との関わりで考えてみたい。

情報の洪水がもたらしたもの



情報化社会がわれわれにもたらしたこと。それは「情報の洪水」という事態だ。これは情報化の進展によってアクセスできる情報が膨大になるという意味だが(ちなみに、情報はかつてから洪水状態だった。ただし、そのほとんどにアクセスできなかった。それが今や様々な情報を大衆レベルでも入手可能になったという意味で「情報の洪水」と捉える)、これはちょっと困った状況をもたらすことにもなった。

かつて、情報アクセスの可能性が低かった時代、言い換えれば情報の選択肢が少なかった頃、人々は否応なくほぼ同質の情報にアクセスせざるを得なかった。これをきわめて俗っぽい例を出しながら説明してみよう。

例えば飲酒。かつて飲み方での第一声は、決まって「とりあえずビール」だった。「とりあえず」ということは、次には他のアルコールに手を伸ばすということだが、これも選択肢は限られていた。つまり日本酒か焼酎あたり。だが、これにだんだんとバリエーションが加わってくる。ウイスキー、ブランデー、ワイン、チューハイあたりが加わり、さらにウォッカ、テキーラ、ジン、ラム、バーボン、そしてカクテルが。でもって、現在ならマッコリとかグラッパとかシェリーとか泡盛、ウーゾ……もうキリがないくらいさまざまなアルコールが出現する。もちろん、これらはいずれもかつてから世界のどこかで親しまれてきたもの。ただし、当該文化圏に暮らしていなければ、一般的にはアクセスは困難な代物だった(たとえばウーゾだったらギリシャかキプロスへ行くか、専門の輸入業者から結構な値段で購入しなければならなかった)。ところが、こういった世界のアルコール、今や日本でも容易に入手可能だ。僕が好きなリキュールの一つにポートワイン(酒精強化ワイン)があるが、これだってネットで銘柄まで指定して簡単に購入できる。

ここで並べたアルコールを情報に置き換えてもらえばよいだろう。つまりインターネットと流通の発達が膨大な情報へのアクセスを可能にしたのだ。

ならば、それぞれがそれぞれの嗜好に応じてそれぞれの生活を楽しめばよい、ということになる。ところが、この「アクセス可能性の増大」はキッチリ副作用も持っている。それぞれがそれぞれに自らの嗜好に応じて行動をした結果、なんのことはない、まとまりがつかなくなってしまうという事態が発生したのだ。

再びアルコールの話に戻ろう。僕が学生の頃、コンパの1杯目はやっぱり「とりあえずビール」だった。ところが今の学生は違う。幹事はかつてのように店を決めて集金するという作業の他にもう一つ大きな、そしてやっかいな仕事が待っている。それは事前に「1杯目の注文」を参加者に尋ねることだ。つまり「とりあえずビール」はとっくに終わっていて、カルアミルクだ、モスコミュールだ、ブラディマリだ、マイタイだといった具合に、細かいメニューの注文をとらなければならなくなっているのだ(店の方もこれに合わせて酒を用意するわけで、楽ではないのだけれど)。

「世界に一つだけの花」というとらえ方の陥穽~どうやって行動したいいのかわからない

で、結局、こうなると前述したようにまとまりがない。だが、このまとまりのなさはSMAPの「世界に一つだけの花」みたいなきれいな話に収まることが、必ずしもない。バラバラ、実は大変困ったことでもあるのだから。

われわれは共同作業したりする際には共通の基準が必要だ。つまり、何らかの行動をしようとする場合には、それを行う「雛形」的なものを必要とする(社会学では、これを「行為の準拠枠」とか「一般化された他者」と呼ぶ)。で、こういった共通項=基準があることで相手が何をするのかを、それを基準にしながら推しはかることが出来るし、自分もまたそこから自らの行動パターンを選択することが出来る。で、こういった「雛形」、実は情報が限定され、それによって、それぞれが限定された共通の行動パターンに押し込まれていたからこそ形成できていた(つまり予測可能だった)し、それを踏まえて行動することで社会内でたち振る舞うことができてもいた。

だが情報の洪水は必然的にこのパターンを破壊させていく。情報化の進展によってどんどん情報提供が可能となり、それに合わせて個々のニーズも多様化、みんながバラバラという状況が生まれると……あたりまえの話だがこの雛形が見えなくなる、あるいは崩壊していくのだ。

人間は社会的存在。だから誰かと支え合って生きていかねばならない。言い換えれば他者を必要とする存在。しかし、情報社会化、消費社会化は他者という生身の人間をシステムに置き換えるという作業を加速度的に進行させていった。そして、人間的な関わりの多くがいわばアウトソーシング化し、支え合わなくてもよくなった。そこで、見えなくなったのが他者の存在、そしてこの雛形だ。これは人間の様々なシチュエーションでの重層的な関わり合いの中で黙契的に身体に刻印されてきたものだからだ。しかし、こういった雛形=行為の準拠枠が見えなくなってしまったとき、われわれはどうやって対処していけばよいのか。つまり、どうやって相手と関わったらいいのか。もちろん、かつてのように「とりあえずビール」みたいな嗜好を強制されるようなやり方はまっぴらという前提がつくけれど。

オタク化によるやり過ごし

そこでこの雛形と他者を見つける新しい方法を見いだした。それは、なんと雛形を破壊し、他者の存在を見えなくした当の情報化社会、消費社会のシステムにどっぷりとつかることによってだった。

自らの嗜好に基づいて行動すると、そこに嗜好を共通させる人間はいない。でも、これでは孤立したまま。しかも寂しい。行動パターンも読めない。だから、どうしたらいいのかわからない。でもなんとかしなければ。そこでネットに象徴される多様化された情報環境へとアクセスする。すると、同好の士、つまり同じ嗜好を持った人間を見つけることが可能になる。もちろん同好の士が同じ物理的空間に居合わせることは、まず期待できない(これを見つける場所が電脳空間だから当然だ)。これらの同好の士と電脳空間上で交わり交流し続ければ、自らの欲望に応じた孤立した嗜好であっても、これを承認する他者が存在することになる。だから安心だ。そこで、人々はいっそう電脳空間にアタマを突っ込む。そして、とりあえず電脳空間上の他者を可視化する。で、こういったネット上で知り合った人間関係から、リアルでは失われた雛形=行為の準拠枠を見いだしていくというわけだ(こういったニーズがあるからこそSNSは急激な勢いで普及した)。こういったかたちで人格を形成していくことを「オタク化」と呼ぶ。ということは、オタクというのは一部の人間ではなく社会的性格=現代人が共通して備えている性格ということになる。

ヴァーチャルの立ち位置でリアルを押し切る!

ただし、この雛形と他者はかつてのような雛形や他者の完全代替というわけにはいかない。何のことはない、ヴァーチャルな、そして自ら選択したタコツボ的な電脳空間上でこの雛形が有効であったとしても、やっぱりリアルな現実空間では無効だからだ。ヴァーチャル=オッケー、リアル=ダメという図式。しかし、頼るものは前者しかない。後者の空間では情報化と消費化によって雛形を獲得する可能性はもはや失われているのだから。だから、否応なく、このタコツボ的、オタク的な基準に自らを依拠させていくことになる。

ところがこれも問題だ。なんと言っても、これを支持するパイが小さい。かつてのように「とりあえずビール」というような一般性はないのだ。例えば、僕が「とりあえずポートワイン」といったら(食後酒だから実際にはこういったシチュエーションはないけれど)、これを「いいですねぇ!」といって乾杯してくれる人なんか、一部のポートガル好きの人間=ポートガルオタクくらいしかいないはずだし、そんな人間をリアル空間上に見いだすことは限りなく難しい。だから、安定性を欠いている。

でも、問題なのは、前述したように結局これに頼るしかないということ。だから、仕方なく、これにフェティッシュに依拠するということになる。つまり、もっぱら自らの雛形=パラダイムに入れ込むのだ。しかも代替になっているこのヴァーチャルな世界が唯一なわけで、他と比較をしようがない。だから、本人はこれが正しいと思って疑うところを知らない。つまり「とりあえずポートワイン」と「とりあえずビール」が同じ「絶対的」感覚になっている。いいかえれば「みんな、まずはポートワインでいいよね」ということが「誤り」であることに気づかない。

いや、実は無意識のレベルでは気づいている。認識こそしてはいないが、この「正しさ」が心許ないことを身体が知っているというところだろうか。だって、ヴァーチャル世界で形成した代替の雛形=行為の準拠枠がリアルな世界ではまったく通用せず、しばしば痛い目にあっているはずなのだから。だから、その不安を抑圧するために、この代替の雛形に熱狂的・フェティッシュに入れ込んでいく。何のことはない、そうやっていないと不安なのだ(こういった精神症状を精神医学的では強迫神経症=パラノイアと言う)。で、この入れ込む行為は「萌え」と一般的には呼ばれているものでもある。

さて、こんな心性を持った人間が議論したらどうなるのか。結果は明らかだろう。自らの立脚点に熱狂しているがために、この立ち位置がどういった正当性を備えているかについての省察は一切ない。つまり立脚点の相対化、つまり議論についての存在論的問いがなくなる。その一方、不安定な雛形をそれでも維持するために、この立ち位置に萌え、さらに不安定さの混入を事前に回避するために、認識論レベルの理論武装を徹底させる。その一方で不安を回避するために相手の話には一切耳を貸さない。さらにネット上の同好の士とSNSを使ってコミュニケーションを交わし、この代替=ミクロコスモス=タコツボの正当性をがあたかも普遍性があるかのように偽装し続ける。そうやって起こった必然的結果が「認識論の片肺飛行」なのだ。

そして、これを誰もがやり始めることで発生する事態が「神々の闘争」だ。つまり、誰もが○○至上主義となり、他者に対して不寛容となり、一方的に主張する。あるいはヘゲモニーを握ったと感じたら相手の論理などまったく聞き入れることなく一方的にまくし立てる。そう、これが「思考停止」のメカニズムに他ならない(ちなみに、これがミクロなかたちで奇形的に発生する一連の行動がクレーマーやモンスターペアレントのクレームだ。)。そして残念ながら、これに「待った」をかけることもできない。なぜって?これを「みっともないからよしなさい」と諫めるためには「一般化された雛形」が必要だからだ。だが、それはなくなっている。いいかえれば「やっぱり、先ずはとりあえずビールにしましょうよ」という黙契が消滅している。だから、みんな言いたい放題になって歯止めがきかないのだ(よって、僕がアルコールについての価値観を相対化していなければ「とりあえずポートワインにしましょうよ」と言い続ける=萌え続けることになる)。

思考停止とは情報化と消費社会化が生んだ必然、そして個人の存在論的不安の裏返しとして出現した事態なのだ。広大な情報世界へのアクセス可能性の増大は、それらを吟味して相対的価値観を持てるようになるどころか、かえって極小の世界に人々を閉じ込めて、意固地にすると言う逆説的結果をもたらしてしまうのである。

【関連リンク】
思考停止の時代〜情報化社会は不寛容社会?(1)

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