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- 2010年09月24日 14:27
報道被害を生む「客観報道主義」
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特捜検察の走狗であったり、ネタ元であったりして、「正義の検察」という幻想づくりにひと役買ってきた朝日新聞は、手のひらを返したように、検察の罪状追及を繰り広げている。
下野新聞時代から調査報道で名をはせた板橋洋佳記者の「FD改ざん」スクープは、現職検事を逮捕するという究極の組織防衛策を最高検にとらせるほどの、衝撃力をもっていた。
それは、「朝日新聞の取材」、すなわち記者の「主観」による報道が、捜査機関の発表、リークなどお墨付き情報に依存する司法・警察記者クラブの「客観報道主義」にまさったことを、つよく感じさせた。
本来、世の中に「客観的事実」なるものは存在しない。大マスコミは、官庁、検察、警察など権威筋の「主観」情報を、「客観」としてきただけだ。
その背景には、「記者の主観」による報道では、名誉毀損などで損害賠償訴訟を起こされた場合に逃げ道がないということがある。
その意味で、記者の調査報道を重視する板橋記者の勇気ある姿勢には共感をおぼえる。
ただし、朝日新聞自体には大いなる不満がある。たとえば23日の社説だ。
政治ゴロの画策した郵便不正に政治家が関与し、厚労省が組織ぐるみで協力するなどという、荒唐無稽というほかない話になんら疑問を抱かなかったとしたら、あるいは疑念を持ちながらも自ら検証することなく、そのまま報道していたのだとしたら、ジャーナリストとしての適格性に疑問をもたれても致し方ないだろう。
その点、産経新聞大阪本社、内野広信社会部長が書いた次の記事には、少なくとも反省らしき言葉は盛り込まれている。
下野新聞時代から調査報道で名をはせた板橋洋佳記者の「FD改ざん」スクープは、現職検事を逮捕するという究極の組織防衛策を最高検にとらせるほどの、衝撃力をもっていた。
それは、「朝日新聞の取材」、すなわち記者の「主観」による報道が、捜査機関の発表、リークなどお墨付き情報に依存する司法・警察記者クラブの「客観報道主義」にまさったことを、つよく感じさせた。
本来、世の中に「客観的事実」なるものは存在しない。大マスコミは、官庁、検察、警察など権威筋の「主観」情報を、「客観」としてきただけだ。
その背景には、「記者の主観」による報道では、名誉毀損などで損害賠償訴訟を起こされた場合に逃げ道がないということがある。
その意味で、記者の調査報道を重視する板橋記者の勇気ある姿勢には共感をおぼえる。
ただし、朝日新聞自体には大いなる不満がある。たとえば23日の社説だ。
「(検察関係者は)改めて自らの行動を振り返り、最高検による今後の捜査と検証にのぞまなければならない。それが村木さんへのせめてもの償いであり、国民に対する責任である」大阪地検特捜部がつくったストーリーの非現実性を疑うこともなく、ニセ情報を垂れ流し続けた朝日新聞としての反省の弁が、まったくこの社説から欠落しているのはどうしたことだろうか。
政治ゴロの画策した郵便不正に政治家が関与し、厚労省が組織ぐるみで協力するなどという、荒唐無稽というほかない話になんら疑問を抱かなかったとしたら、あるいは疑念を持ちながらも自ら検証することなく、そのまま報道していたのだとしたら、ジャーナリストとしての適格性に疑問をもたれても致し方ないだろう。
その点、産経新聞大阪本社、内野広信社会部長が書いた次の記事には、少なくとも反省らしき言葉は盛り込まれている。
厚労省元局長の村木厚子さんの無罪判決が確定した郵便不正事件は、犯罪報道のあり方について改めて考えさせられる事件となった。(中略)しかし、この文章にも事実認識の甘さが感じられる。特捜部に、過去の実績による「信用」がほんとうにあると思っているのだろうか。
今回の事件の捜査機関は巨悪を眠らせないという強い使命感と高い捜査力のある特捜部だった。過去の実績による「信用」を前提にして、捜査段階での報道が引きずられてしまったという指摘は認めなければならない。
さらに、特捜部の主任検事が犯罪行為をしてまで事件を作り出そうとしていた驚くべき実態が明らかになってきたが、報道機関としてなぜ事件の「真相」あるいは「構図」に迫り切れなかったのか検証していきたい。
昨年5月から始まった裁判員制度で、報道機関は裁判員に予断を与えないよう配慮するよう求められ、犯罪報道のあり方が問い直されている。犯人視しない報道とはどのようなものなのか。今回の報道を反省し、捜査情報をどう扱っていくべきか、さらなる模索を続けなければならない。



