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  • 新恭
  • 2010年07月29日 08:32

重苦しい社民党の夏

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「政権交代を逆戻りさせてはならない」「現実との格闘から逃げずに」。

社民党に離党届を出した辻元清美の苦渋の決断は、理念こそがレーゾン・デートル(存在理由)である小政党の、現実政治における限界を浮き彫りにした。

政権の内側、しかも副大臣として仕事をする。もちろん初めての体験だ。野党時代には見えなかった事情、知りえなかった情報が、眼前に迫った。それは、前原大臣、馬淵副大臣とておなじことだった。

政治主導を掲げ、官僚の抵抗に揉まれ、複雑な利害の絡む政治、行政のリアリズムに苦しみながら、前原や馬淵らとともに、開拓者精神でものごとを解決してゆく過程。それは辻元にとって貴重な体験だったに違いない。

むろんさまざまな批判は甘受しなければなるまい。将来の民主党入りが心の中に無いとはいえないし、社民党単独では勝てないという選挙区の事情もあろう。社民党支持者への裏切りと思われるのはやむをえまい。

それでも、辻元を民主党政権寄りに駆り立てるのは、まさに記者会見で口からほとばしったこの思いだろう。

「私は大阪の商売人の娘。泥ものむけど、政策を実行できるようちょっとでも進もうという体質です」

「現実との格闘」「泥ものむけど、政策を実行」。それは、そのまま社民党に欠乏していると、辻元がとらえている要素に違いない。旧社会党からのDNAなのかどうか、少なくとも辻元には物足りなく感じるのではないか。

55年体制下の社会党は、万年野党に甘んじ、自民党を批判することで存在感を保ってきた。

ベルリンの壁が崩壊した1989年、参院選で社会党は46議席を獲得、自民党を過半数割れに追い込み、土井委員長の「山は動いた」という名言を生んだ。

しかし、冷戦の終焉は、反共の砦である自民党の存在価値を低下させるとともに、その対抗勢力の役どころを演じてきた社会党の値打ちも押し下げるはずだった。

自民党と社会党は、地下水脈で結ばれ、互いに必要としあう運命共同体であった。

案の定、「山」はその後、悪い方向へ動いてゆく。93年の総選挙で136議席から70議席へと衆院勢力は半減、その年に誕生した細川非自民連立政権でも、与党とはいえ主導権は握れなかった。

社会党の運命を決定づけたのは、自民、社会、さきがけの連立政権で、首相の座に社会党委員長の村山富市が就いたことだった。

「頂上」に党首が立ったことが、転落の序章となった。

首相になり、米国という現実と向き合わざるを得なくなった村山は、安保条約を肯定し、非武装中立を放棄するという国会演説で、それまでの社会党の路線を180度転換した。

自民党と合体した社会党にレーゾン・デートルはもはやなくなり、支持者は足早に離れていった。

その結果、社民党と党名を変えてのぞんだ96年の総選挙では、わずか15人しか当選できず、野党第一党としての歴史に幕を閉じた。

社民党のジレンマは、政権党になって現実に直面したとき、「理念」という看板が、その言動を縛るということだ。

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