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- 2011年03月19日 21:26
地震で「働かないアリ」を思い出したので
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仕事をしたくなくてしていないわけではないから、結果として彼らは、突発的に生じるかもしれない仕事に備えて「待機」している状態であるわけだ。だから、刺激が大きくなって、つまりそのそこで仕事をする必要が高まってくれば、自然と働き始めることになる。複数のやるべき仕事があれば、そのうち刺激の強いほう、つまり必要度の高い方にとりかかる。
また、ミスをする個体にも価値がある。エサを見つけたアリは、接触刺激やフェロモンを使って、他のアリをそこへ誘導するわけだが、中には道をまちがうドジなアリがいる。しかしそうしたドジなアリがより効率的にエサまでたどりつけるルートを発見したりすることもあって、全体としては、そうしたアリが一部いたほうが、エサをうまく集められるらしい。
こうした多様性は、集団としての存続可能性を高める。皆が同時に反応するようなコロニーは、単位時間当たりの労働量が大きく、効率がいいが、同じタイミングで疲労して休んでしまうので、たとえば卵の世話をするといった、ずっとやり続けなければならない仕事があると、長く存続できないということを、著者らはコンピュータシミュレーションで導き出した。一見非効率とみえるムダを内包した集団の方が安定している、というわけだ。
ここから先は、自分の感想。
組織の「ムダ」の効用というのは、割とその界隈の人たちには広く知られている。この本に出てないだけなのか研究がなされていないのか素人なので知らないが、少なくとも経営学の分野で「ムダ」の価値が高まるときといえば、典型的に思い浮かべるのは、環境の不確実性が高い場合だ。上の例でいえば、対処すべき新たな事態がどんどん出現する状態、ということになろうか。そうした場合、手が空いててすぐ動ける個体がいることは、集団としての事態への対処能力を高める。もちろんアリは人間と比べてはるかに脳が小さいしシンプルなことしかできないわけだが、人間にとって人間の置かれた環境が充分複雑であるのと同じように、アリにとってアリの置かれた環境は充分複雑なのだろうから、似たようなことはいえるのではないかと想像する。
アリと人間が同じだといいたいのではない。しかし直面している問題の構造がほぼ同じであれば、アリの研究から得られる知見にも、人間にとって役立つ原理が含まれているかもしれない、というぐらいはいえるのではないか。あ、「働かないアリに意義がある」からといってニートにも、とかそういう安直なことをいうつもりはないので念のため。それはまた別の要素がある。いいたいのは、もう少し抽象的なことだ。
アリも人間も、誰かの指示ですべて決まるのではなく、個々の主体が現場で判断し動くことが求められる程度には複雑で不確実性の高い環境で生きていかなけれなならない。全員が均質で、まったく同じ行動パターンしかとれないと、全員が同じまちがいを犯すおそれがあり、結果として集団を大きな危険にさらすことになってしまう。同じような反応閾値モデルがあてはまるとされるミツバチは、巣の中の温度が高くなるとハチたちが羽ばたいて空気を入れ替える習性があるが、反応閾値が似た個体だけを集めるときめ細かい温度調節ができない、という研究もあるらしい。同質性が高い集団では、刺激への反応が極端になってしまいがち、ということか。
一方、多様な個性が混在し、一定水準のムダを許容するようになっていると、非効率が生じるという欠点はある。しかし、全員が一度にまちがったり、一度に動けなくなったりするリスクを減らすことができ、結果として集団全体の生存可能性を高めることができる。
もちろん、すべてがまったくばらばらの自分勝手でいいというものでもない。全員が従わなければならない共通のルールは当然あるはずだ。アリならそれは遺伝子に組み込まれた習性などであろうし、人間ならそこに一定レベルの教育や、社会や制度が要求するルールなども含まれるだろう。なんでもそうだが、要はバランスなのだ。そして、少なくとも人間の社会では、そのバランスも時によって変わっていくはずだから、常に調整を続けていかなければならないのも当然。
もともと日本は、集団内の同調圧力が強い文化の国だ。今ふうにいえば「空気」だろうか。当然、それに対抗して自己主張したり個性を認めようとしたりする動きもあって(あるいは最近は「個性を持たなきゃ」という同調圧力もあったりするのでややこしいがそれはおいといて)、いろいろせめぎあいがあるわけだが、何か大きなできごとがあると、それが一気にひとつの方向へ向いやすくなる。
今だとそれは、「自粛」ムードであったり、「不謹慎糾弾」ブームであったり、あるいは「沈痛な表情」競争であったり「全国民一丸となって復興がんばろう」大会であったりするだろうか。もちろんそういう気分になって当然という状況の方がたくさんいらっしゃって、そういう方をどうこういうものではもとよりない。現在はどうみても特殊な状況である以上ある程度は当然だし、そもそも同調圧力は別に日本に限った話でもないし。
ただ、この本を読んだことを思い出したのは、今こそ私たちは、多様性の力をより明示的に意識することが必要なのではないか、と思ったからだ。さまざまな立場の人がいて、いろいろな考え方がある。やり方はたくさんあるし、目的すら1つではない。「たくさんの人が苦しんだり悲しんだりする状況から脱したい」という点では最低限合意できるとしても、そのためにどうするかにはいろいろな道があるはずだ。皆で力を合わせなければならないことについては同意するが、ではちがう考え方をする人の足をひっぱっていいのかという点に関しては、少しだけ慎重でありたい。
かつて本田宗一郎が通商産業省の意向(つまり国策だ)に屈していたら、今世界第7位の自動車メーカーは存在しなかったかもしれない。今被災地の物流を支える物流業界の雄はたびたび事業拡大のため運輸省(それは業界の声を少なからず反映していた)と衝突を繰り返した。いわゆる「クール・ジャパン」の基礎となったのは、社会の良識派が「俗悪」として嫌悪し、たびたび糾弾した人たちだ。同じようなことが、今どこかで起きているのかもしれない。今批判されたり嫌悪されたりしている人たちが、実は今後社会をよくするためのカギを握っているかもしれない。一見ムダな「働かないアリ」に意義があるように、一見社会にとって有害にみえる考え方にも「意義」があるかもしれない。そういう発想を、少なくとも頭の片隅には置いておいたほうがいいのではないか、と思う。
批判をするな、とまでは思わない。意見を持つのは当然だし、議論はしたほうがいい。ただ、多数が正しいとは限らないよ、ということは意識しておいたほうがいいと思う。少なくとも、社会の方針決定に関与している人たち、社会をリードする立場にある人たちは、明示的に意識しておくべきではないだろうか。
また、ミスをする個体にも価値がある。エサを見つけたアリは、接触刺激やフェロモンを使って、他のアリをそこへ誘導するわけだが、中には道をまちがうドジなアリがいる。しかしそうしたドジなアリがより効率的にエサまでたどりつけるルートを発見したりすることもあって、全体としては、そうしたアリが一部いたほうが、エサをうまく集められるらしい。
こうした多様性は、集団としての存続可能性を高める。皆が同時に反応するようなコロニーは、単位時間当たりの労働量が大きく、効率がいいが、同じタイミングで疲労して休んでしまうので、たとえば卵の世話をするといった、ずっとやり続けなければならない仕事があると、長く存続できないということを、著者らはコンピュータシミュレーションで導き出した。一見非効率とみえるムダを内包した集団の方が安定している、というわけだ。
ここから先は、自分の感想。
組織の「ムダ」の効用というのは、割とその界隈の人たちには広く知られている。この本に出てないだけなのか研究がなされていないのか素人なので知らないが、少なくとも経営学の分野で「ムダ」の価値が高まるときといえば、典型的に思い浮かべるのは、環境の不確実性が高い場合だ。上の例でいえば、対処すべき新たな事態がどんどん出現する状態、ということになろうか。そうした場合、手が空いててすぐ動ける個体がいることは、集団としての事態への対処能力を高める。もちろんアリは人間と比べてはるかに脳が小さいしシンプルなことしかできないわけだが、人間にとって人間の置かれた環境が充分複雑であるのと同じように、アリにとってアリの置かれた環境は充分複雑なのだろうから、似たようなことはいえるのではないかと想像する。
アリと人間が同じだといいたいのではない。しかし直面している問題の構造がほぼ同じであれば、アリの研究から得られる知見にも、人間にとって役立つ原理が含まれているかもしれない、というぐらいはいえるのではないか。あ、「働かないアリに意義がある」からといってニートにも、とかそういう安直なことをいうつもりはないので念のため。それはまた別の要素がある。いいたいのは、もう少し抽象的なことだ。
アリも人間も、誰かの指示ですべて決まるのではなく、個々の主体が現場で判断し動くことが求められる程度には複雑で不確実性の高い環境で生きていかなけれなならない。全員が均質で、まったく同じ行動パターンしかとれないと、全員が同じまちがいを犯すおそれがあり、結果として集団を大きな危険にさらすことになってしまう。同じような反応閾値モデルがあてはまるとされるミツバチは、巣の中の温度が高くなるとハチたちが羽ばたいて空気を入れ替える習性があるが、反応閾値が似た個体だけを集めるときめ細かい温度調節ができない、という研究もあるらしい。同質性が高い集団では、刺激への反応が極端になってしまいがち、ということか。
一方、多様な個性が混在し、一定水準のムダを許容するようになっていると、非効率が生じるという欠点はある。しかし、全員が一度にまちがったり、一度に動けなくなったりするリスクを減らすことができ、結果として集団全体の生存可能性を高めることができる。
もちろん、すべてがまったくばらばらの自分勝手でいいというものでもない。全員が従わなければならない共通のルールは当然あるはずだ。アリならそれは遺伝子に組み込まれた習性などであろうし、人間ならそこに一定レベルの教育や、社会や制度が要求するルールなども含まれるだろう。なんでもそうだが、要はバランスなのだ。そして、少なくとも人間の社会では、そのバランスも時によって変わっていくはずだから、常に調整を続けていかなければならないのも当然。
もともと日本は、集団内の同調圧力が強い文化の国だ。今ふうにいえば「空気」だろうか。当然、それに対抗して自己主張したり個性を認めようとしたりする動きもあって(あるいは最近は「個性を持たなきゃ」という同調圧力もあったりするのでややこしいがそれはおいといて)、いろいろせめぎあいがあるわけだが、何か大きなできごとがあると、それが一気にひとつの方向へ向いやすくなる。
今だとそれは、「自粛」ムードであったり、「不謹慎糾弾」ブームであったり、あるいは「沈痛な表情」競争であったり「全国民一丸となって復興がんばろう」大会であったりするだろうか。もちろんそういう気分になって当然という状況の方がたくさんいらっしゃって、そういう方をどうこういうものではもとよりない。現在はどうみても特殊な状況である以上ある程度は当然だし、そもそも同調圧力は別に日本に限った話でもないし。
ただ、この本を読んだことを思い出したのは、今こそ私たちは、多様性の力をより明示的に意識することが必要なのではないか、と思ったからだ。さまざまな立場の人がいて、いろいろな考え方がある。やり方はたくさんあるし、目的すら1つではない。「たくさんの人が苦しんだり悲しんだりする状況から脱したい」という点では最低限合意できるとしても、そのためにどうするかにはいろいろな道があるはずだ。皆で力を合わせなければならないことについては同意するが、ではちがう考え方をする人の足をひっぱっていいのかという点に関しては、少しだけ慎重でありたい。
かつて本田宗一郎が通商産業省の意向(つまり国策だ)に屈していたら、今世界第7位の自動車メーカーは存在しなかったかもしれない。今被災地の物流を支える物流業界の雄はたびたび事業拡大のため運輸省(それは業界の声を少なからず反映していた)と衝突を繰り返した。いわゆる「クール・ジャパン」の基礎となったのは、社会の良識派が「俗悪」として嫌悪し、たびたび糾弾した人たちだ。同じようなことが、今どこかで起きているのかもしれない。今批判されたり嫌悪されたりしている人たちが、実は今後社会をよくするためのカギを握っているかもしれない。一見ムダな「働かないアリ」に意義があるように、一見社会にとって有害にみえる考え方にも「意義」があるかもしれない。そういう発想を、少なくとも頭の片隅には置いておいたほうがいいのではないか、と思う。
批判をするな、とまでは思わない。意見を持つのは当然だし、議論はしたほうがいい。ただ、多数が正しいとは限らないよ、ということは意識しておいたほうがいいと思う。少なくとも、社会の方針決定に関与している人たち、社会をリードする立場にある人たちは、明示的に意識しておくべきではないだろうか。



