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事件報道の役割についてちょっとだけ考えてみる

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もちろんこれらについて報道されることはこれまでもあったろう。しかし冤罪事件に国民の関心が集まる今こそ、その構造的背景と、考えられている対策をきちんと伝えることが、被疑者取調べのこまごまについて、一方的な情報を鵜呑みにしていちいち伝えていくよりよほど重要なのではないか。

しかし、報道の役割はそこではまだ終わらない。取調べのやり方に問題があると指摘するなら、そのやり方こそが日本の高い有罪率、ひいては治安に関する安心感をもたらしてきた大きな要因であることも指摘する必要がある。取調べの方法に制約を加えれば、それらにまったく影響がないとは考えられない。当然捜査関係者が危惧するところなんだろうが、被疑者を逮捕できないケース、逮捕・起訴しても証拠不足で有罪にできないケースが、今までより増えてくると考えるほうが自然だ。

そういうトレードオフを示して初めて、私たちは選択をすることができる。冤罪を生みにくいが犯罪者の一部が処罰されない社会と、犯罪者は概ね処罰されるがたまに冤罪を生み出す社会と、どちらの社会を私たち国民は望むのかについての選択だ。もちろんどちらも重要なことはわかりきってるが、ぎりぎりのところで相反する要素があることは否定できない。はっきりいって、今はその点をごまかし、検察や警察に過大な期待をかけ、過重な責務を負わせている。よくいう「無謬性」神話の根っこの1つはここにある。検察や警察にとってはその方が有利だから黙ってそれを受け入れているんだろうが、その弊害を防ぐことはできない。その一例が今回表に出てきた事件であるわけで、あの検事が悪いとか検察官はみんな心を入れ替えろとかそういう話で終わってもらっては困る。

さらに、事件報道のあり方自体も、もっと突っ込んでいくべきところだろう。私たちは、現在マスメディアが奔走して提供してくれるような、被疑者取調べの状況を刻一刻伝えるような事件報道を望んでいていいのだろうか。それが単に私たちの低俗な好奇心を満たすためのものでしかないとしたら、それはそのために功を焦る捜査機関が暴走するリスクに見合うものなのか。あるいはもっと根本的にいえば、国民としての「知る権利」を担保するシステムとしてのマスメディアの正当な活動であっても、結果として冤罪の可能性を高めてしまうおそれを伴なう。もしそうだとすれば、そのトレードオフはどのように調整されるべきなのか。誘拐事件の報道に特殊な配慮をするのと同じように、報道された場合とされない場合とのメリットとデメリットをはかりにかけて考えるという当たり前のことを、犯罪報道一般に関しても行っていくべきではないのか。国民に対して、こんな代償を払っても今のような事件報道をしてほしいのかと問いかけるべきではないのか。

おそらくそういう小難しい内容は、ニュースをエンタメとして見る多くの国民が報道に求めるものではないかもしれない。特に今は広告収入も厳しいし、稼がなくちゃいけないし。しかしニーズがないからやらないというのなら、マスメディアの方々(の少なくとも一部)が常々ばかにするネットのニュースとさして変わらないではないか。そういう、情報に対する真摯な姿勢こそが、マスメディア発の情報がもつ付加価値であり、社会がマスメディアの存在を必要とする基盤のはずだ。もし「社会の木鐸」を自称し、社会からそう扱われたいのであれば、本質的な問題から逃げるべきではない。

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