- 2022年02月19日 16:49 (配信日時 02月19日 06:00)
毛沢東の遺志を継ぐ習近平が五輪後に陥るジレンマ - 樋泉克夫 (愛知県立大学名誉教授)
2/2習近平政権が遂げた「告げる書」の実現
なぜ、そこまで「毛主席の遺志」にこだわるのか。66年の文革発動前後から中国の動向に関心を持ち続けている筆者としては、ここまで経済大国になり先端技術先進国になった現在でも、中国政治の根底に毛沢東の影を認めざるを得ないからである。
たとえば「南面して座す君主に対し臣下は北面して侍す」との中国古来の世界観を踏襲するかのように、北京のど真ん中に位置する天安門には、いまなお巨大な毛沢東像が南面して掲げられている。あれは首都の中心を飾る巨大なモニュメントではなく、“静かに君臨”する可視化された最高権力と見なすべきではないか。
「毛主席の遺志」の筆頭には「党の一元化指導を強化し、党の団結と統一を固く擁護し、党中央の周囲に緊密に団結する」との一項が記されているが、それは、昨年2月に習国家主席が党総書記として主催した「党史学習教育動員大会」において実現したと言えるだろう。この大会で、彼は党の全業績を自らに収斂させる力を確保する大前提である党史解釈権を手にしたのだ。
昨年3月の全人代(全国人民代表大会=国会)に臨んで習国家主席が「漢語の普及活動を真剣に進め、国の統一的な教材の使用を全面的に推進しなければならない」と語り、「中華民族の一層の一体化」を推進するために漢語(標準中国語)の普及を強く打ち出したが、それを「各族人民の大団結」の一環と見なすことは可能だ。
もちろん「各族人民の大団結」の実態が少数民族が営々と築いてきた豊かな固有文化の破壊に繋がり、圧倒的多数の漢族による「各族人民」に対する文化的ジェノサイドに通ずることであり、断固として許されない蛮行であることは敢えて指摘するまでもないことだが。
「鄧小平批判を深化させ」ることに関しては、昨年2月に開催された「華国鋒生誕100周年記念座談会」において、習近平政権の理論面の支柱される王滬寧中央政治局常務委員が党中央を代表して行った講話に色濃く見られる。華国鋒賞賛から華国鋒を失脚させた鄧小平への批判を読み取ることは可能だろう。
「ブルジョワ階級の法権を制限し、わが国プロレタリア階級の独裁をより前進させ」ることに関しては、一昨年秋の阿里巴巴集団(アリババグループ)総帥の馬雲(ジャック・マー)の〝失踪〟を機に見られるようになった巨大先端企業経営陣による経営の自主規制が、それに当たるだろう。独禁法をタテにした巨大IT関連企業への締め付け、企業活動への介入、芸能界への厳しい対応、教育面での統制強化などが、「わが国プロレタリア階級の独裁をより前進させ」ことに繋がると考えているのではないか。
先端技術の開発と利用、南シナ海の内海化、海軍力増強、宇宙空間における超野心的な試みの数々――衛星破壊、有人宇宙ステーション、月や火星の探査など――は、「毛主席の建軍路線を断固として執行し、軍隊建設を強化し、民兵建設を推し進め、戦備を増強し、警戒を高め、敢えて侵略を試みる一切の敵を殲滅する備えを常に怠らず」の具体化であり、かくして「わわれは断固として台湾を解放する」ことを志向していると見なすことは可能だろう。
問題の多い一帯一路にしても、「わが国人民と各国人民、特に第三世界の国々の人民との団結を強化し、国際社会において手を結ぶことのできる総ての勢力と連合し」の部分に無理にでも結びつけたなら、「毛主席の遺志」の実現を目指していると強弁できないこともない。
敢えて批判は承知の上で習近平政権が推し進める内外路線を〝好意的〟に受け止めるなら、ここまでは「断固として毛主席の遺志を受け継」いでいると言えなくもない。だが、「わわれは永遠に覇権を唱えない。永遠に超大国にはならない」との「毛主席の遺志」と「戦狼外交」の4文字に象徴される強硬な外交姿勢の間には整合性は微塵も感じられないことを、敢えて強調しておきたい。
五輪後、そして焦点は「2027年」
ここで冬期五輪後の習近平政権の動向を考えて見たい。
五輪開始以前から、五輪後を想定してさまざまな議論が見られた。李克強首相を軸とする共青団勢力の反撃を予想する見方もあれば、中には1月19日に海外の中国語ネットに流された4万字に及ぶ論文「方舟と中国」のように、「習近平は統制経済をテコに自らの専制王国を目指し、民衆の価値観や理想を抹殺し、彼らの将来を奪ってしまった。共産党歴代指導者中、最も無能だ」などの見解も聞かれる。
だが、一般的に考えれば過去に見られた林彪事件(1971年)、ニクソン訪中(72年)、四人組逮捕(76年)あるいは天安門事件(89年)のような超弩級の大変事でも起こらない限り、今秋の第20回共産党全国大会での習近平政権3期目継続は揺るがないだろう。
そこで単に五輪後と言うのではなく、習近平政権の今後を中長期的に捉えたいと思うのだが、その場合、やはり焦点は2027年となるはずだ。それというのも27年は習近平政権3期目の最後の年に当たるだけではなく、前年の26年は毛沢東の死から半世紀であり、1年先の28年は鄧小平が対外開放に踏み切って半世紀後に当たるからである。
つまり習近平政権3期目の最後の年となる27年は、「2つの半世紀」を挟んで、習近平政権は微妙な立ち位置に置かれるのだ。
今秋から始まる3期目の5年間を現在の強硬路線で突き進み、12年以来の3期15年の成果を毛沢東に結びつけて評価するのか。はたまた鄧小平が踏み切った開放路線を前向きに捉えるのか。27年に政権を後継者に委ねるのか。それとも4期目に突き進むのか。
いずれにせよ共産党式政治に則るならば、習近平は27年には毛沢東、鄧小平、それに自らの歴史的評価を逼られることになるに違いない。
その時、共産党政権の歴史の中で毛沢東、鄧小平、習近平の3人の指導者をどのように位置づけるのか。大難題である。おそらくこれからの5年間、習近平政権は現在の内外強硬路線を突き進む一方で、大難題を前にして「イデオロギーの自家中毒」に悩まされるのではないか。
であればこそ、いま構想すべきは「イデオロギーの自家中毒」を昂進させる手立てであり、そのための思想の戦いだと強く思う。費用対効果を考えるなら、それが最も効率的な「習近平包囲網」ではなかろうか。
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