- 2022年02月11日 16:47
五輪イヤー侵攻はロシアの〝お家芸〟過去傍観の米は露の面子保つ解決策を
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樫山幸夫(ジャーナリスト、元産経新聞論説委員長)
【まとめ】
・プーチン大統領は、北京五輪閉幕前にウクライナに侵攻するか?
・ロシアは旧ソ連時代を含め、五輪開催年にしばしば他国への軍事侵攻を強行してきた
・唯一の超大国となったアメリカは強硬策一辺倒ではなくプーチン大統領がメンツを保ちながらこぶしを下ろす方法を考えるべきだ
ロシアによるウクライナ侵攻は、北京で開会中の冬季五輪の閉幕を待たずに強行されるという観測がなされている。
それが現実になれば、「平和の祭典」を踏みにじる暴挙というほかはない。
過去を振り返ってみれば、ロシアは、旧ソ連時代を含めて、オリンピックの年に他国へ侵攻したことが何度もある。
アフガニスタン侵攻、南オセチア紛争しかり・・
プーチン大統領には、〝ジンクスを守る〟ことなどに、ゆめゆめこだわらぬことを求めたい。
■ 無駄に終わったアフガニスタン介入
五輪イヤーのロシア侵攻と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、1979年暮れのソ連によるアフガニスタン侵攻だろう。1980年新年の各紙で報じられた。
1980年の冬季五輪はアメリカのレークプラシッド、「夏季」はソ連自らホスト国としてモスクワで開催予定だった(当時は冬季、夏季を同年に開催)が予定されていた。
内部抗争を繰り返すアフガニスタンの左派政権と反政府勢力との抗争が続き、政権側が圧倒的に不利となったことから、新指導部がソ連に介入を要請した。
当初は、ブレジネフ書記長ら当時のソ連共産党、政府高官の間にも慎重論が少なくなかったようだ。しかし、アメリカが反政府勢力に対して密かに武器供与を行っていたこともあって、「この地域で影響力を失う危険性がある」として、12月24日、軍事介入に踏み切った。
西側各国は「主権国家に対する侵略行為」だとしてソ連を強く非難。アメリカのカーター政権が音頭をとってモスクワ五輪ボイコットを呼びかけ、日本、統一前の西ドイツ、韓国、中国など50近い国が同調して参加を見送った。イギリスは政府の要請を拒否した五輪委員会が独自に選手団を派遣した。
〝幻のモスクワ五輪〟をめぐっては、選手たちの間で、多くの悲劇的なドラマが生まれたが、詳細は別な機会に譲りたい。
■ 今に至る後遺症、アメリカの威信低下招く
ソ連は、この武力介入によって、ベトナム戦争でのアメリカ同様、泥沼にはまり込み、アフガンを自らの勢力下に置くという目的を達成することなく1989年に完全撤退した。
9年にわたる長期戦のソ連側の戦死者は1万4000人、アフガン側はその数倍にのぼるという見方もある。
ソ連撤退後もアフガニスタンには平和が訪れることはなかった。
ソ連と戦ったムジャヒディーンと呼ばれる兵士、武装勢力が群雄割拠し、そのなかからイスラム原理主義者のタリバンが権力を掌握、人権抑圧的な政策を続けた。
ムジャヒディーンに各国から参加した義勇兵はその数20万人、アメリカでの9・11同時テロを断行したアルカーイダの指導者、ウサマ・ビン・ラーディンも一員だった。
9・11の後、ビン・ラーディンを匿ったタリバンをアメリカが攻撃、一時は勝利を収め、新しい政府が作り上げられた。しかし、政権はいずれも安定を欠き、そのすきをついてタリバンが復活。その攻勢によって昨年、アメリカが屈辱的な撤退に追い込まれたのは記憶に新しい。
ソ連のアフガン侵攻の残滓は現在まで残ってるといっていい。
■ 前回の北京五輪はグルジア攻撃
比較的、最近の例では2008年、時あたかも北京夏季五輪と時期を合わせるように起きたグルジア(現ジョージア)の南オセチア紛争がある。
8月7日、ロシア領の北オセチア共和国への編入を求めるグルジア・南オセチアをめぐっての武力衝突が起きた。
グルジアが先制攻撃したといわれるが、ロシアの過剰な攻撃は、以前から介入の準備をしていたことをうかがわせ、グルジアが挑発に乗ってしまったというのが真相のようだ。
EU(欧州連合)議長国のフランスの仲介で、8月中旬に停戦にこぎつけたが、ロシアは南オセチアに軍の駐留を続け、両国の関係は現在も緊張状態が続いている。
プーチン氏は連続3選を禁じた憲法に則って大統領をいったん退き、首相職にあった。メメドベージェフ大統領はプーチン氏の指名で〝ワンポイント〟として選出された経緯があり、プーチン氏が実質的なトップとしてこの問題でも指揮を執っていた。
この年の北京五輪は8月8日から24日まで開かれた。武力衝突の時期はまさに五輪期間中だったが、プーチン氏にとっては、一顧だにする価値もなかったようだ。
■ メキシコ五輪の年「プラハの春」踏みにじる
歴史をさかのぼって、記憶しておかなければならないソ連の蛮行は、1968年のチェコ事件、さらに古いところでは1956年のハンガリー動乱がある。
前者についていえば、世界体操界の〝名花〟とうたわれたベラ・チャスラフスカ選手のメキシコ五輪での活躍と結びつけて「あの事件か」と思い起こす読者もおられよう。これは後述する。
1968年初めから春にかけて、チェコスロバキア(その後、チェコとスロバキアに分離)国内で、長い経済停滞にあえぎ、言論抑圧に苦しむ国民が勇を鼓して自由化を求め始めた。
ソ連に忠実だった共産党第一書記兼大統領が辞任。改革派の旗手、アレクサンデル・ドプチェク氏が第一書記の後を襲った。
氏は「人間の顔をした社会主義」を標榜し、党中央委員会で、党への権力一元化見直し、スターリンによって粛清された犠牲者の名誉回復、言論、芸術活動の自由化、西側との経済関係強化などを打ち出した。
〝プラハの春〟とよばれる、この民主化運動を苦々しく眺めていたソ連のブレジネフ政権は、9月に前倒しされた党大会で、これらの自由化政策が追認されると、いっそう深刻な事態を招くとして、その前に介入することを決断した。
侵攻の名目にされたのは、「社会主義陣営全体の利益は一国の利益に優先する」というブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)だ。戦前のコミンテルン(共産党の国際組織)を主宰したソ連らしい乱暴な論理だった。
8月20日深夜から、ソ連軍にハンガリー、ポーランドなど4カ国を加えた20万人の部隊がチェコに越境、たちまち全土を制圧した。
犠牲者の数などははっきりしないが、20日から翌朝までの間だけで、100人以上の市民が犠牲になったといわれる。
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