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結論が凡庸になっても論理的な哲学的思考を手放さない――『21世紀の道徳 学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』(晶文社) - ベンジャミン・クリッツァー(著者)/ 批評家

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進化論の知見に基づきながら性差と恋愛について論じる

『ダーウィン左翼』や『輪の拡大』では、性差やジェンダーに関する問題はほとんど扱われていない。しかし、とくに最近では、「人間の行動や認知における男女差」の問題とそれに関する議論は、進化心理学に関する話題のなかでも最大のホットトピックとなっている。

人文学におけるジェンダーに関する議論といえば、フェミニズム的な問題意識と社会学的な方法論に基づきながら、「男女の間で思考や行動に差があるのは、女性の意思や自由を抑圧して男性にとって有利な社会を維持しようとする家父長制によって、社会的に構築されたものである」といった議論がなされることが多い。

それに対して、進化心理学の議論では、男女の思考や行動の性差は、多かれ少なかれ生まれつき備わったものであることが前提とされる。ジェンダー論では、「社会」や「権力」といったものが「男らしさ」や「女らしさ」を個々人に押し付けるトップダウンな世界観が想定されているが、進化心理学では、個々の男女に備わった生得的な特徴を平均値を表す指標として「男らしさ」や「女らしさ」といった社会通念が形成された、というボトムアップが前提とされることになる。

『21世紀の道徳』の第7章では、近年にフェミニストや男性学者たちがしきりに論じている「有害な男らしさ」という概念について、その概念が指摘するような男性に特有の問題が存在することを認めながらも、「有害な男らしさ」の原因は家父長制ではなく、男性に特有の「モノ化思考」という生物学的傾向に見出すべきである、という議論を行なった。

また、最近では、哲学や経済学や生物学をはじめとした多くの学問において、その学問の「男性中心主義」を見直して、これまでに無視されてきた「女性的」な視点やトピックを取り上げるべきだ、という運動が盛んになっている。倫理学の世界においても、論理や理性や抽象的な原理原則といった「男性的」な要素への偏りを批判したうえで、「共感」や「ケア」に基づく倫理を説くフェミニスト倫理学への注目が増すようになってきた。しかし、『21世紀の道徳』の第8章では、進化心理学の考え方を用いながら、「共感」に基づいた道徳の問題を指摘して、「理性」に基づいた道徳を復権させる必要性を論じている。

また、「特定のパートナーと恋愛して、結婚して共に家庭を築きたい」という願望ですら、フェミニズムやジェンダー論によると、家父長制によって押し付けられた「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」に基づくものに過ぎないとされる。近年の倫理学や社会学でも、同性愛や性的少数者、フェティシズムやポリアモリー(多夫多妻制)などに関するトピックは頻繁に取り上げられるが、ヘテロ・セクシュアルの人が特定の異性に対して抱く恋愛感情…いわば「ふつうの恋愛」について肯定的に取り上げられることは少なくなっている。

『21世紀の道徳』の第9章では、「特定の(異性の)相手に好意を持って、パートナーになって、絆を培いたい」という願望も、進化的な基盤を持つ生得的で普遍性のあるものであることを指摘したうえで、「ふつうの恋愛」に関して倫理学に基づく考察を行った。

幸福論の「正解」を探る

「幸福」は、古代ギリシアの時代から、哲学や倫理学にとって重大なテーマであり続けてきた。ただし、幸福に関してはあまりに多くの哲学者や思想家が論じてきたために、論者によって異なるさまざまな意見が乱立している状況だ。そして、数多くの意見があるということは、より「正解」のほうに近い意見もあれば、「誤り」のほうに近い意見も存在しているはずだ。

わたしたちが「幸福になりたい」と思うなら、「誤り」ではなく「正解」に近いほうの意見を参考にして、実践する必要がある。『21世紀の道徳』では、幸福に関する現代の進化論の知見や心理学の研究を参照しながら、幸福論の「正解」を探った。

第10章では、「ストア哲学」の考え方について考察した。ストア哲学では、性や食事に関する快楽を追い求めず、名誉や財産や社会的地位に関する欲求も捨てて、いま自分の手元にあるものに満足することが推奨される。そして、進化的に考えても、性欲や食欲などの短期的な欲求は、適切にコントロールする必要がある。

人間や動物に備わった欲求というシステムは、個体を一定以上の年齢まで生き延びさせて、異性と性交して繁殖して遺伝子を残すために設計されている。だが、逆にいえば、欲求とはあくまで遺伝子を残すためのシステムであり、個体の「幸福」を実現するためのものではないのだ。むしろ、短期的な欲求に振り回されることは、わたしたちの人生を不幸にする可能性が高い。ストア哲学は、「欲求」というシステムに潜む落とし穴を的確に見抜いた思想であると評価できる。

とはいえ、「すべての欲求を捨てて、価値や理想も追い求めずに、現状に満足した人生を送る」ということが正解であるとも限らない。むしろ、幸福を得るためには、短期的な欲求をコントロールしながら、長期的な欲求を満たす必要がある。

『21世紀の道徳』の第11章では、「人間が幸せに生きること」を科学的に探究する学問である「ポジティブ心理学」の知見に基づきながら、アリストテレスを主とする古代ギリシアの哲学者たちが論じてきた「ユーダイモニア(幸福/繁栄)」論を紹介している。アリストテレスは、「有意義な目標に向かって、自分の強みを生かしながら、努力を重ねる」という「活動」のなかにこそ幸福が存在する、と論じたのだ。

現代社会に生きるわたしたちにとっての「幸福」を考えるためには、「労働」や「仕事」というトピックについても考察することは避けられない。労働とは政治的で社会的なものであると同時に、個人の価値観やアイデンティティ結びついた実存的なものであるからだ。しかし、近年では労働の「政治的」な側面ばかりが強調されて、やりがいのある仕事が人生にもたらす価値といった「実存的」な側面は無視されてしまいがちだ。

とくに、最近の人文学や思想では、「働いたら負け」や「資本主義は奴隷制だ」といった極論に近い意見が大手を振るっているが、『21世紀の道徳』の第12章では、そのような意見を批判しながら、地に足のついた現実的な仕事論を展開している。

『21世紀の道徳』で取り上げたトピックは多岐にわたるが、進化論などの知見からもたらされる「事実」に関する知識を直視すること、そしてイデオロギーに影響された極論を述べたり、キャッチーで耳心地のいい主張をしたりする誘惑に負けずに、結論が凡庸になっても論理的な哲学的思考を手放さないことは、本書に収めた全ての論考に通底している。進化心理学の議論に興味がある読者、そして近年の人文学や「哲学」に違和感を抱いている読者にこそ、『21世紀の道徳』を手に取ってほしい。

プロフィール

ベンジャミン・クリッツァー批評家

1989年京都府生まれ。2014年に大学院(修士)を修了後、フリーターや会社員をしながら、ブログ「道徳的動物日記」を開始(2020年からは「the★映画日記」も開始)。批評家として、倫理学・心理学・社会運動など様々なトピックについての記事をブログやWebメディアに掲載。論考に「動物たちの未来は変えられるか?」(『atプラス 思想と活動』32、太田出版、2017年)、「ポリティカル・コレクトネスの何が問題か アメリカ社会にみる理性の後退」(『表現者クライテリオン』2021年5月号、啓文社書房)、「ウソと「めんどくささ」と道徳」(『USO 3』、rn press、2021年)などがある。

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