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「電通と喧嘩してテレ東を辞めてよかった」田原総一朗(87)と毒蝮三太夫(85)初の"超老"対談

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電通と喧嘩してテレ東を辞めてよかった


田原 僕も毒蝮さんもお互い、当たり障りのあることを言い続けてる。それが共通点。あと共通点というと、お互いに「フリー」だってこと。

毒蝮 フリーランサーってことですね。俺は会社勤めをしたことはないけど、役者でもありタレントでもあり、自由に色んな仕事をさせてもらってます。

田原 僕は会社を辞めてフリーになった。これがこの歳になって結果的にはありがたい。何しろ仕事に定年がない。

毒蝮 テレビ東京の社員でいたままだったらとっくに定年で、そのあとも働こうとしたら色んなとこに頭下げなきゃなんない。田原さんは電通とケンカして良かったんだ(笑)。電通とケンカになってテレ東をお辞めになった。

田原 当時僕はテレ東のディレクターだった。1976年に「原発反対運動」ってのがあった。一方で「原発推進運動」があった。僕はそれを取材した。バックに電通がいることがわかった。それを僕は「原子力戦争」と題して筑摩書房で連載した。すると電通が、そんなヤツがいる局にはスポンサー入れないぞって脅してきた。今はもうテレ東も大した局だけど、当時は三流のテレビ局だから電通という大手広告代理店からスポンサーをもらえなかったら収入が途絶えて倒産してしまう。

それで、連載を辞めるか会社辞めるかどっちかだとなった。僕はどっちも選択しなかった。そしたら局長やなんかが動いて、僕の退社がドーンと発表された。それで1977年に僕は会社を辞めた。辞めたのが42歳。何もなかったら定年まで会社にいた。たぶんそれで終わってた。

毒蝮 42歳、後厄で厄払いしたんだ(笑)。それでフリーのジャーナリストになって、世間にもどんどん知られるようになって今に続いている。でも、会社辞めてフリーでうまく行く人もいるけど、ポシャる人も多いですよ。

田原 今から思えば非常にラッキーだった。

毒蝮 田原さんは若い頃からマスコミ志望だったんですか?

田原 僕は高校から大学の頃、作家になろうと思ってた。大学生の時に石原慎太郎の「太陽の季節」が出た(1955年)。それを本屋で立ち読みした。マイッタ。弟の裕次郎のことをモデルに書いている。リアリティに充ちてる。僕は彼女もいないのに恋愛小説を書いてた(笑)。そのあと大江健三郎の「飼育」(1958年)。そのふたりを読んで作家はあきらめた。大江は昭和10年生まれで毒蝮さんとほぼ同世代。

毒蝮 俺は昭和11年生まれだから大江さんはひとつ上ですね。大江さんと言えばノーベル賞だけど、俺がラジオ(「毒蝮三太夫のミュージックプレゼント」TBSラジオ)で中継に出てる時にスタジオゲストで大江健三郎さんがいらした時があったんです。スタジオの大沢悠里ちゃんが、「まむしさん、大江さんと話しなよ」って言うから、いやいや俺は外でババアくたばれとか言ってるわけでしょ、だから「そんな偉い人としゃべるのイヤだよ」って言ったんだけど悠里ちゃんが、「いいからしゃべりなよ」って。

だからこっちは中継場所から「ノーベル健ちゃ~ん」って呼びかけたの(笑)。何しろノーベル賞受賞だからね、ずっとスタジオでは大江さんを下にも置かないもてなしだったのに、急に「ノーベル健ちゃ~ん」だからみんなビックリしちゃった(笑)。だけど大江さん「ハイハイハイハイ」って応えてくれた。シャレのわかる人でしたよ。

田原 「ノーベル健ちゃん」なんて言えるのは毒蝮さんぐらいですよ(笑)。小中陽太郎が東大で大江健三郎と同期だった。小中さんは神戸の生まれで高校から東京だった。大江さんは四国(愛媛県)出身でしょ。四国から東大に入って来た大江を、小中はちょっとバカにしてたんです。

毒蝮 夏目漱石と正岡子規みたいなもんだ。正岡子規は四国松山、漱石が「坊っちゃん」でもそうだけど、イナカッペって書いてますよね。

田原 そうそう。だけど小中陽太郎は大江に抜かれちゃった。僕は小中と親しかったから聞いてた、「正直言って大江をバカにしてた」って。大江は松山弁で、標準語をしゃべらなかったから。


毒蝮 あいつはどこの出身だからどうだこうだって話は尽きないですよね。田原さんは滋賀の彦根ですよね。ご先祖が彦根藩の近江商人だそうで。

田原 僕はね幼稚園の時から親父に言われたの、「お前は大きくなっても政治家や役人にはなるな」と。今、世の中は薩長の時代だと。彦根は井伊直弼が出身だから。

毒蝮 幕府側だ。

田原 井伊は薩長に殺された。だから彦根は薩長の敵だと。それで親父は「政治家や役人になっても絶対に偉くなれない、出世できないからなるな」って。

毒蝮 世の中の主流と非主流を説いたんだ、幼稚園児に(笑)

田原 もうひとつ言われたのは、近江商人は「三方よし」だと。商売で成功するには「売り手によし 買い手によし 世間によし」であって、商売を通じて「商人、客、社会」の三方に良ければ儲かるんだと。

毒蝮 田原さんの親父さんは歴史を背負って生きてたんでしょうね。あのね、俺のラジオの現場をアシストしてくれる女の子で、毛利藩の毛利輝元の子孫がいましてね。その子のお父さんが毛利家二十四代とかの当主で、今も周りから「殿」って呼ばれてる(笑)。毛利は長州藩ですから、その子はお父さんから事あるごとに「会津には行くな」「会津の人とは会うな」「会津の人とは友達になるな」ってずっと言われてたって(笑)。そしたらこないだそのお父さんが会津と手打ちをしたとかナントカ言ってたな(笑)。現代にもまだまだあるんですよね、江戸が明治になってからの因縁が。

田原 会津若松は白虎隊。白虎隊は勤王。薩長と戦って敗れて若者たちが自害しました。明治維新で薩長が政治の中枢になって、会津若松は反体制となった。その反体制ぶりが典型的に出てたのが民主党だった渡部恒三。僕は彼と仲が良かった。

毒蝮 ズーズー弁の。

田原 ズーズー弁を隠さない渡部恒三、ズーズー弁にプライドを持ってる。

毒蝮 明治維新が約150年前でしょ。これが遠い歴史のようで案外身近だったりする。維新で薩長が政治を握って、日本の総理大臣は長州山口県出身が占めている。伊藤博文から始まって戦後は岸信介、佐藤栄作、安倍晋三とつながってます。

田原 毒蝮さんは東京の生まれ?

毒蝮 これがきちんと言うと、親父とおふくろが関東大震災で焼け出されて、東京はダメだってなって大阪に逃げたんですね。そこで夫婦別れして、おふくろが2度目の結婚をしたんです。そこで生まれたのが俺で。だから昭和11年に大阪の阿倍野区阪南町ってとこで生まれたんですが、すぐに東京に戻って、品川の中延で同潤会の木造アパートに移り住んだ。そこで育って9歳の時に空襲に遭ったんです。

田原 毒蝮さんは空襲に遭ってる。

(田原総一朗・毒蝮三太夫 BLOGOS超老対談 第2回に続く

(構成:松田健次 田野幸伸 撮影:弘田充)

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