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人新世と気候工学――経済思想と環境倫理学の対話/桑田学×吉永明弘

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第二に「モラルハザード」の問題です。気候工学研究が進むことで、それが気候変動に対する一つの「保険」とみなされ、CO2排出削減努力が、とくにより大きな排出削減義務をもつ先進国のあいだで著しく低下するのではないかと懸念されています。SAIが緩和策(排出削減)失敗の際の「保険」とみなされていけば、緩和への政治・社会的努力はいっそう後退しかねません。ましてや、大胆な緩和策が進まない背景に現状維持の趨勢(政治的惰性)や政治の機能不全が存在するとすれば、現状から大きな利益を得ている化石燃料・資源の大量消費国は、さらなる緩和努力の先送りという「道徳的腐敗」に陥る懸念があります。

第三に、経路依存性やロックインと呼ばれる問題があります。気候工学をめぐる議論では、研究、実験、実施はそれぞれ区別されていますが、しかし現実にそれらを厳密に区別することが可能かどうかはきわめて不透明です。研究であれば問題ないだろうと思われますが、研究と一口にいっても、気候モデルでのシミュレーションから本格的な屋外実験、さらには国家規模の「マンハッタン計画」のようなものまで、そのレベルはさまざまです。しかし一定規模の研究資金が継続的に投入されるようになれば、制度的な推進力が働いて研究と実施の区別は曖昧なものとなるおそれがあります。

もっとも、ここに挙げたのは倫理的な問題のごく一部だろうと思います。

吉永 ありがとうございます。これは本来、環境倫理学者がなすべき仕事です。桑田さんは、ご論考の中で気候工学に関してこう書いています。

「気候工学(太陽放射管理)は唯一、経済的に競争力の高いテクノロジーであるらしいが、当然そこで前提とされるコスト計算は考慮すべき問題の大部分を欠落させている。その意味でも、環境倫理(環境正義や未来世代への責任)といった規範的な視点から計算不可能なことがらを明るみにすることは大切だろうし、技術デザインの背後にある政治的意図や権力関係を暴く技術哲学的分析も重要であろう。そしておそらく同様に重要なのは、意図的な気候改変の実践や思考の系譜を遡り、歴史的なコンテクストに位置付けなおしてみることである」(「フレデリック・ソディと〈破局〉の経済思想」『現代思想』2015年9月号、188頁)。

狭義の経済的な視点だけでなく、環境倫理的、技術哲学的、歴史的な視点が必要だ、ということで、環境倫理学と思想史の役割を共に重視しているわけですが、ここで環境倫理学の仕事として「計算不可能なことがらを明るみにする」ことが挙げられているのに興味を惹かれました。環境倫理学の主要な仕事はコスト計算に収斂されない価値の提示にある、とのお考えでしょうか。というのも、私が研究していたマイケル・ウォルツァーの分配的正義論はまさにこれです。それから宇沢弘文先生の「自動車の社会的費用」や「社会的共通資本」の研究もこれですよね。この定義だとお二方も環境倫理学者になり、私にとってはうれしい限りです。

桑田 以前に市民も含めて、気候工学について検討されるべき40の課題を考えるというワークショップに参加させていただきました(その成果はSustainability Science誌に共著論文として掲載されています)。その作業のなかで、環境倫理学や技術哲学の知見がいかに実践的な意義をもっているか、という点を嫌というほど感じました。それは主に言葉や概念の定義、価値の優先順位、社会的文脈や意味に関わる問題です。「どのような背景で登場した技術なのか?」、「そもそもある技術を『研究する』とはどういうことか」、「評価されるべき『リスク』や『コスト』とはいかなる性質のものか?」、「定量化不可能なリスクはいかに評価されるべきか?」例えばこうしたさまざまな厄介な問いをたえず提起し、議論に揺さぶりをかけておかないと、あっという間に「技術-工学的な問題」あるいは「コスト・ベネフィット」の問題に還元されてしまいかねないように感じました。数値では割り切れない問題を浮かび上がらせるうえで、倫理学を含めて人文学的な知がもっと社会のなかで役割を発揮すべきなのだと思います。

吉永 同感です。そしてまさに今おっしゃったことを倫理学の視点から行っている人がいます。アメリカの環境倫理学者シュレーダー=フレチェットです。彼女は『環境リスクと合理的意志決定』(昭和堂、2007年)という本のなかで、リスクを評価する際に数値では割り切れない側面が存在することを的確に説明したうえで、それを数値で割り切れる評価とすり合わせる道を模索しています。技術哲学や科学技術社会論の論点をふまえた環境倫理学を展開しているといえるでしょう。日本では『環境の倫理』(晃洋書房、1993年)という本の編者として知られていましたが、実はリスク論や原発論、そして環境正義の研究が彼女の本領です。彼女のEnvironmental Justiceという本の翻訳が1月に出ます(奥田太郎・寺本剛・吉永明弘監訳『環境正義――平等とデモクラシーの倫理学』勁草書房)。これで彼女の仕事の全貌が明らかになります。

ラスキンの経済思想について

吉永 さて、ここから本来のご専門である経済思想についてうかがいます。桑田さんが研究されている思想家は、ノイラートだけでなく、ポランニー、ラスキン、モリスという、経済学としては異端のほうに位置する人々ですね。さらには物理化学者で経済学者のフレデリック・ソディ、生物学者かつ都市論者かつ経済学者のパトリック・ゲデスといった人たちの業績も検討されています。

私は特に「思想史のなかの気候変動」のなかで論じられているラスキンの思想に惹かれます。一言で言えば、劣化する世界のなかでいかに善く生きるのか、ということがテーマ化されていますが、これこそが人新世における環境倫理学の重要テーマだと思うのです。これまでは気候問題の「緩和」に関する倫理学がメインでした。つまりCO2排出の削減が必要だが、その負担をいかに公平に分配するかということが論じられてきました。他方で現在では、気候問題の「適応」が大きなテーマになっています。これは気候変動によって災害などが多発することが確実視されている世界においてどのように「善く」生き残っていくか、という問題です。今道友信先生が『エコエティカ』(講談社学術文庫、1990年)の中で書かれているように、我々は単に生き残るだけでなく、善く生きることが重要です。先ほどの「劣化する世界のなかでいかに善く生きるのか」というテーマは、適応の時代における環境倫理学の大きなテーマであり、その観点からラスキンは再評価されるべきだと思いました。

桑田 ラスキンの環境思想はこれまでロマン主義の系譜のなかで評価されるのが一般的であったと思います。しかし、彼の思想にはそれに留まらない意味があると思います。たとえば、晩年の『19世紀の嵐雲』(1884年)では、産業が膨大な廃物をつくりだし、環境を汚染するなかで、産業と自然との境界が曖昧となり、そのなかで自然と人間の生がともに劣化していくような破局的な世界が描かれています。まさに現代の人新世の言説を想起させるような内容です。そのなかでとくに重要だと思うのは、ラスキンが自然の破壊や汚染だけを問題にしているのではなく、つねにそれらを人間の労働や生の質の劣化との関係から考えているところです。言い換えれば、ラスキンにおいて、自然と人間との関係の回復は、産業社会において劣化している「労働」や「消費」の変革という問題と不可分に結びつけられていました。

そのような眼でラスキンの経済論を改めて読み直すと、そこでは資本主義や奢侈への道徳主義的な批判ばかりではなく、「人間のエコノミー」と「自然のエコノミー」を総合的に捉えるような問題の立て方がされていることが分かってきます。ラスキンは、同時代の自由主義経済学にとって代わるべき真の「ポリティカル・エコノミー」は、人間の生存にとって不可欠な「清浄な大気、水、土」をもたらすものでなければならず、したがってこの科学の根底には自然についての知(自然科学)が備わっていなければならないと論じています。これは人間の生の基底をなす自然の物質的条件を含めて「生命」と「富」の関係を解明する科学としてポリティカル・エコノミーを再建するという課題ですが、その点でゲデスやソディのような自然科学者にとってもラスキンは大変魅力的に映ったのだと思います。

ちなみに、ラスキン自身は社会主義者ではありませんでしたが、モリスばかりではなく、19世紀末や20世紀初頭のイギリス社会主義の思想に強い影響を与え、ゲデスやソディもそれと非常に近いところで経済学の研究に取り組んでいました。斎藤さんの晩期マルクス解釈は、社会主義とエコロジーの思想史的な連関を示していますが、ラスキンの継承者たちにも、同様の問題(つまり自然の破壊や収奪と人間の生の破壊や劣化との重層性)が強く意識されていました。このことは、現代の人新世や気候工学の問題を考えていくうえでも決して外せない視点だと思います。

これと関連して、歴史学や思想史の分野では、およそ16世紀に始まるヨーロッパの植民地収奪の問題が環境破壊の問題とも関係づけながら論じられていますが、環境倫理学の側ではこういった問題はどう扱われているのでしょうか。

吉永 植民地収奪は、先に挙げた「環境正義」の問題でもあります。最も有名なのはインドの思想家バンダナ・シバによる「バイオパイラシー」(生物学的な強盗)の指摘でしょう。これは先進国の科学者が途上国の生物の細胞や遺伝子を特許化することによって富を得る一方で、原産地である途上国では従来通りの利用が禁止されてしまうという「不正義」を指摘したものです。シヴァはこれを植民地支配の延長だと明言しています(バンダナ・シバ『バイオパイラシー』緑風出版、2002年)

また、日本で「ローカルな環境倫理」を提唱した鬼頭秀一先生は、同じくインドのラマチャンドラ・グーハの議論を引用しながら、先進国の自然保護観、特に米国のウィルダネス保存(人のいない自然を人の手から守る)という考えを「普遍的な環境保護」として途上国に持ち込むと、途上国の土壌流出、大気、水質汚染、食料の安定性、貧困等々のようなもっと解決しなければならないことが見逃されてしまう、と述べています(鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』ちくま新書、1996年)。ここでも南北の問題が意識されています。

ついでに環境史と環境倫理学との連携について言えば、米国のなかで「ウィルダネス」と呼ばれていた地域には、かなりの数の先住民が暮らし、そこで耕作をしていたことが、環境史や考古学の研究から明らかにされています。環境倫理学者アンドリュー・ライトは、こうした研究を引用して、ウィルダネス保存から日常の自然(人の生活が絡んだ自然)の保全へという道筋を描いています。

桑田 なるほど、「ウェルダネス」という自然認識それ自体がもつ政治性は非常によくわかります。気候工学もそうなりかねませんが、ポストコロナの社会を考えていくうえで、先進国の「エコ」や「安全」の追求が外部や未来の他者を犠牲にし続けるかたちになることは絶対に避けなければなりません。環境倫理学と経済思想が互いに知恵を出し合ってこの問題を考えていければと思います。

吉永 ありがとうございました。今後もいろいろとご一緒できればと思っています。

プロフィール

吉永明弘環境倫理学

法政大学人間環境学部教授。専門は環境倫理学。著書『都市の環境倫理』(勁草書房、2014年)、『ブックガイド環境倫理』(勁草書房、2017年)。編著として『未来の環境倫理学』(勁草書房、2018年)、『環境倫理学(3STEPシリーズ)』(昭和堂、2020年)。最新の著作は『はじめて学ぶ環境倫理』(ちくまプリマ―新書、2021年)。

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