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追悼 鹿野道彦 - 2011年鹿野代表・首相なら民主党政権が続いていたかもしれず

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<鹿野さんの指図で野田代表誕生>

 代表選の結果、鹿野さんは4位であり、1位の海江田さんと2位の野田さんで決選投票となった。図らずも親小沢vs.反小沢がここにきて再現したのだ。そこで鹿野支持に集った者は、大島敦さんの「せっかくだから鹿野さんを中心にまとまっていこう」という提案があり、鹿野さんの指示に従ってまとまって決選投票をすることとなった。

"鹿野さんが上着を着たままであれば1位に、脱げば2位に投票"というサインを示すことになり、結局鹿野さんは苦慮した挙げ句、2位に投票するようにとサインを出し、このおかげで野田さんが逆転し代表・首相になった。後日新聞等で「上着作戦」と報じられた。

 この時にも鹿野さんは「論功行賞で閣僚になったなどとは言われたくないから絶対要職には就かない」と言い張っていたが、私は「幹事長か財務大臣は受けてほしい。それぐらいは格からして当然だし、鹿野さんに引き締めてもらわないとこの内閣も党も何をしでかすかわからない」と進言した。ところが野田首相は農林水産大臣の続投を申し出てきた。鹿野グループ(素交会)の中から誰も閣僚にならないのはまずいという判断から続投を受け入れた。

<つまらぬ中傷で農相辞任>

 鹿野大臣と筒井農水副大臣は、中国への農産物の輸出に力を注いでいた。ところが、2012年秋、中国の農産物輸出協議会の件で怪文書がバラ撒かれ、民主党批判を繰り広げる二紙に大袈裟に報道された。中国に国家機密を漏らした「スパイの関与」などという言葉まで踊る一大事となった。

鹿野さんも筒井さんも新潟のコシヒカリや山形のつや姫を中国に輸出せんがため熱を入れただけの話である。そもそも農水省に重大な国家機密などあるはずがない。この騒ぎで2人は糾弾され辞任することになった。内部のものしかわからない内容の怪文書で、鹿野代表・首相だと困る勢力が仕掛けた違いない。

 この一連のことで「野田首相は留任を強く要請しておきながら失礼だ」と鹿野さんは怒り、すぐに行動に移った。私は任にあらずと大反対したが、13年秋の代表選で細野豪志さんを支持すると言いだした。その後、細野さんの立候補が立ち消えになると自分が立つと言いだした。

現職首相に立ち向かったところで、勝てるはずはなく、私は当然大反対したが、もう止まらなかった。そして、二度目の代表選敗北である。"民主党的"リーダーの危うさに同僚議員たちもようやく気付き始めたのだろう、他の四人の候補の中で国会議員票では2位を占めたのが救いであった。

<恐れていた突然の解散・大惨敗>

 ただ、気付くのが遅すぎた。13年末には野田首相は党首討論で安倍晋三自民党総裁の挑発に乗り、常任幹事会の大反対も無視して解散してしまった。私はこういうことを恐れていたのである。

 しかも、問題になっていたTPPを推進するという選挙公約まで盛り込もうとしていた。鹿野さんが中心となり我々は猛反対した。衆院解散後の夜暗くなった会議室で細野政調会長以下ひな壇の2氏が「一任を」で逃げようとしたが、鹿野さんは「長い政治家生活の中で同僚議員を落とす公約など見たことがない。絶対任せられない」と咆哮した、

 しかしながら結局押し切られ、2012年末の総選挙では民主党は57人しか残れないという大惨敗で、奈落の底へ沈んでしまった。鹿野さん自身までもが国会に戻れなかった。

<裏目に出てしまった政界復帰>

 惨敗選挙の直後、私は鹿野さん救済のためもあり、2013年の参議院選挙にあたり、衆議院で落選した3人の農林族議員を反TPPトリオとして比例区で立てたらいいのではないかと提案した。私の提言は立ち消えたと思っていたところ、6月30日に突然鹿野さんが参議院比例区に出馬することが決まった。

いくら山形県では知名度があるとは言え、他の県で票を集めるのは難しく、私は準備期間1カ月では遅すぎるので絶対やめたほうがいいと、再び止めに入った。しかし、ここでもまたまた聞き入れられなかった。

 この理由がまた鹿野さんの律儀な性格を反映していた。「海江田代表がわざわざ山形まで来て頭を下げて出馬してほしいと言ってきたのだから、断れるか」というのだ。私は政治生命を断つことになると必死で抵抗したが、鹿野さんから「秘書だけをよこせ、あんたは来なくていい」と聞き入れてもらえなかった。

私はしぶしぶ秘書を送り、それから3日後山形に馳せ参じ、ずっと鹿野事務所で選挙をやることになった。当時まだ長野県は二人区であり、羽田雄一郎議員が当選しやすい体制になっていたからである。この選挙で鹿野さんは落選し政界を引退することになってしまい、私の救済活動は裏目に出てしまった。

<密かな鹿野塾>

 しかし、鹿野さんはその後も政治への情熱は衰えなかった。そこで鹿野さんと志を同じくする仲間数人で数ヶ月に1回同じホテルの一室で意見を交わしていた。その後、この仲間から三人が代表になり、三人が幹事長となっている。鹿野さんこそが代表や幹事長といった幹部になるべき政治家だったのに皮肉である。残念ながら鹿野さんと比べるとどうも何かが足りない人たちばかりであった。

 また、政治問題が起こると私に指導電話がそれこそ頻繁にかかってきた。よくわからないが、なぜかしら私は元自民党の重鎮の羽田さん、亀井静香さん、鹿野さんといった人たちに追いかけ回されている。たまにこちらからかけることもあったが、いつしか「入院しているからかけてよこすな」と言われ、電話も途絶えていった。そして、21年秋の総選挙中に訃報が入った。

<鹿野首相なら民主党政権は続いていたかもしれず>

 もしも鹿野さんが自民党を飛び出さず清和会にいたならば、小泉元首相よりも先に首相となっていた可能性がある。そこまでは戻らなくとも、もし鹿野さんが2011年に代表・首相になっていたら、今も民主党政権が続いていたかもしれない。

 政界のifをいろいろ言い出すときりがないが、鹿野さんを代表・首相にできなかったことは返すがえすも残念でならない。残された我々が鹿野さんのできなかったことを実現して供養の証とする義務がある。ご冥福を祈るばかりである。

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