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- 2022年01月23日 12:19
追悼 鹿野道彦 - 2011年鹿野代表・首相なら民主党政権が続いていたかもしれず
1/2<清和会のプリンスが政治改革で離党>
鹿野道彦さんが、昨年の総選挙の最中の10月に亡くなり、26日に葬儀が行われた。12月13日に都内で開催した偲ぶ会には、民主党時代の鹿野派(素交会)のメンバー、鳩山元総理、枝野元代表等の他、野党からだけでなく安倍元総理までもが会場に駆けつけた。鹿野さんは福田赳夫元首相の覚えがめでたく、"清和会(現安倍派)のプリンス"と呼ばれ、当時清和会は鹿野派になるとまで言われていた。ところが鹿野さんは小選挙区制導入時に、政治改革を訴えて自民党を飛び出してしまった。竹下派経世会が中心に離党したが、清和会からも鹿野さんと増子輝彦さんが揃って離党し、その後非自民を貫き通すこととなった。
私を政治の世界へ引き入れた羽田孜さんと北沢俊美さんも同じく飛び出し、非自民のまま政治家を全うした。この離党組メンバーで今も野党に残る現職は、岡田克也さんだけになった。
<鹿野農水相に副大臣として仕えて心服>
2009年の民主党政権の実現は、羽田さんも心配し私も早すぎると気をもんでいた。案の定鳩山政権が1年で終わり、それに続いた菅政権も消費税問題でガタつき、2010年秋、菅降ろしの風が吹いていた。私はそのころ鹿野農林水産大臣に副大臣としてお仕えしていたが、閣内にいる時にあの3.11東日本大震災に直面することになった。そこで鹿野さんの凄さを改めて思い知らされることになった。的確かつ迅速に組織を動かし、震災直後の避難所はもちろんのこと、供給源を失った都市部でも食料不足は一切おこらなかった。これは鹿野さんの手腕に他ならなかった。
別件であるが、野田首相がTPPを推進しようとするのを阻止できたのも鹿野さんのおかげである。
<鹿野さんを代表選に引っ張り出す>
震災対応が一段落した菅内閣は退陣を表明し、2011年8月代表選が行われこととなった。私はこの時に民主党政権を維持するためには、鹿野さんに代表になってもらう以外にないと思い立ち、それまで敬遠してきた代表選に初めて関わることになった。やたら功名心に走る"民主党的"政治家に、国政も政権も任せるわけにはいかなかったし、このままでは民主党は潰されてしまうという危機感を抱いたからである。
この時の予想は残念ながら的中し、民主党は12年に政権を奪われ、14年に民進党に党名変更、17年には3党に分裂した。二重苦、三重苦の道を歩むことになる。やっと21年に立憲民主党として統合したものの、初めての総選挙で予想外の敗北を喫し、今もまだ再生が課題となっている。
<抑えのききすぎる鹿野候補>
2011年秋の代表選では、親小沢(一郎)・反小沢が争い、海江田万里さんと野田佳彦さんの出馬が取り沙汰されていた。ただ、党内にはそうした抗争に飽きていた人たちが多くおり、私が同志を集め鹿野さんに代表選出馬を頼んでいた。そこに、前原誠司さんと馬淵澄夫さんもが立候補し、なんと五人で争うことになってしまった。反小沢だったはずの野田、前原、馬渕の三候補ともこぞって小沢詣出に馳せ参じる中、鹿野さんは一歩も動かなかった。とうとう逆に小沢さんの方から会いたいという申し出があったが、それでも「俺が小沢さんと会うと後で"小沢傀儡"だと言われるから、絶対行かない」と受けなかった。こういう一途な鹿野さんの生き様に、私はますます惚れ込んだ。
<律儀で古風な振る舞い>
他の候補が立候補の準備を始める中、鹿野さんはさっぱり動かなかった。自分を閣僚に任命した菅首相がまだ辞めると正式に表明していない時に、出馬表明などできないと言うのだ。私は「新人議員への知名度が一番低いのは鹿野さんなのですよ」と発破をかけたが、頑として動かず業を煮やした。鹿野さんは堅い人なのだ。菅首相が退陣を正式に表明した金曜日の夕方から議員会館の民主党議員の部屋を回り始めたが、ほとんどの議員は地元へ帰ってしまった後だった。



