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- 2022年01月07日 09:10
50代で浮かび上がってくる承認欲求のヤバさ
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togetter.com
正月明けに、「50代くらいになると何をやっても褒められなくて、不安になり、承認欲求をこじらせる人が多い」というtogetterを発見した。
本当だろうか?
だとしたら世知辛い世の中だ、大変ですね、でも自分も無関係とは言えないな、などと思った。
そもそも、50代にもなって他人に褒められたい、それも、褒められているとはっきりわかるかたちで他者からの承認をいただきたい心境とは、どんなものだろうか。
私は、そのような心境は
・心理発達のプロセスが厳しかったことのあらわれか
・その人を取り囲む環境が特に難しくなっているか
のどちらかに思われ、どっちにしても滅茶苦茶厳しいよね……といった風に思った。しかも、案外他人事とも思えなかったりもした。今回は、それらについて書いてみる。
「50代になって、わかりやすく褒められなきゃ不安ってどういう心理発達なのよ」
まず心理発達のプロセスという視点でみた時、50代とは、どれぐらい褒められなければ気が済まない年頃だろうか。この際、呼び方は承認欲求でも所属欲求でもナルシシズムでもなんでも構わないが、社会的欲求の充たし方には年齢によって成熟の度合いがあり、基本的には、成熟が進むほど褒められ具合が低くても満足しやすくなる。たとえば乳児は存在するだけでも養育者に肯定してもらえるし、また、肯定されるのがお似合いでもある。小学校低学年なら、学校のルールを守っていたり宿題を片付けたりした時には褒めてもらえる一方、悪いことをした時には叱られることだってあるだろう。高校生ぐらいになれば、褒めてもらえる場面はより少なくなり、褒めてもらえたとしても、乳幼児のように存在するだけで全肯定というわけにはいかない。
こんな具合に、年齢が高まり、社会的立場が変わるにつれて(そして接する他人の幅が広がるにつれて)、くっきりと褒めてもらえる場面は少なくなる。もちろん今どきはアメリカっぽいカジュアルな肯定文句が良いとみなされたりもするので、少し意識の高い場所で働いていれば、togetterに書かれているほど褒められないなんてことはないのかもしれない。とはいえ、50代になってもなお、幼児みたく「ぼく、えらいねー」とか「すごいすごいー」とか褒めてもらう機会はめったにないし、運よくそういう機会を獲得したとしても、それは(たとえば祝賀会や授与式のように)高度に社会化・儀礼化されているだろう。
では、もう幼児のように褒めてもらえなくなった中年の心は枯れ果てるしかないのか?
そんなことはない。成長するにつれて、人は、よりマイルドでより社会化・儀礼化した様式でも、だいたい社会的欲求を充たせるようになる。そういうことを数年前の私は繰り返し書き続けていた。以下の二冊の本などは、まさにそれにあたる。
「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)- 作者:熊代亨
- 講談社
認められたい- 作者:熊代亨
- ヴィレッジブックス
この二冊の書籍のバックグランドとなっているエリクソンとコフートは、それぞれ論の核心は異なるにせよ、「社会的欲求がエイジングに伴って成熟していく」という見立てでは共通している。というより精神分析的な考え方には多かれ少なかれ、成長するにつれて欲求充足の様式が成熟していくといった含意があり、と同時に、そうした欲求充足の成熟不全が治療の焦点とみなされたりもしたのだった*1。
そうした精神分析的なモデリングを思い浮かべながら現実の50代や60代を見ていると、やたら褒めてもらいたがっている中年、褒めてもらえないと困っている中年が多数派になっている風にはみえない。いや、誰かに悪く言われたり誰かと喧嘩したりした直後などは、自分が褒めてもらえていない・評価されていないと悲しく思うことだってあるだろう。私もときどきそういう気分になる。けれども総体としては、職場で挨拶を交わす時、仕事のなかで自分の持ち味を生かせている時、趣味の集まりで旧交を温めている時などに、社会的欲求はだいたい充たせるのではないだろうか。
その際に、「ぼく、えらいねー」とか「すごいすごいー」とかお互いに指差し確認する必要性を感じている人はもういない。信頼しあっていること、メンバーシップであること、挨拶を欠かさない間柄であること、それだけでも十分だ。もちろん、ヘビーな自己愛パーソナリティの人などは50代になっても絶賛を期待し、そうでない肯定を肯定と感じられないものかもしれないし、それなら精神病理と呼ぶにふさわしいだろう。けれどもそういうわけでない多くの人は、社会的欲求の充足がまずまず成熟しているおかげで、幼児のように褒めてもらわなくても、あるいは万雷の拍手に包まれていなくても、だいたい充足できたりする。親をやっている人だったら、自分の子どもが元気に食事をとっているのを見ているだけで、社会的欲求が充たされたりもしないだろうか。
こんな具合に、ある年齢を越えてくると、社会的欲求は、自分の子どもの健在や自分の後輩の成長を見ているだけでも充たされると感じるようにもなる。別に自分が褒められなくても、自分より年下の人間が健在だったり成長していたりしているのを見ているだけで、それがもう心理的にはご褒美なのだ。この場合の充足感は、"ネットスラングとしての承認欲求"の意味合いからはかけ離れていると言わざるを得ない。が、ともあれ社会的欲求が充たされる経路には違いない。
そうしたわけで、この心理発達の側面からみると「50代にもなって、自分自身が、わかりやすく褒められなきゃ不安ってどういう心理発達なのよ?」と私は思いたくなる。それは社会的欲求の充足様式が
- シロクマ(はてなid;p_shirokuma)
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