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体罰とブレークスルーについて

『GQ』に毎月人生相談コーナーに寄稿している。
今月号は体罰についての質問だった。
たいせつな話なので、ここに再録しておく。

Q:体罰が問題になっています。武道における鉄拳制裁、愛の鞭というのはないのでしょうか

A:武道ではありえないですね。人に向かって「努力がたりない」という理由で罰を与えるということは。
処罰で脅すというのは、はっきりした到達目標とタイムリミットがある場合に限られます。
能力の発現までのんびり待っていられないというときに、処罰の恐怖や、金や名誉といった利益による誘導や、マインドコントロールやドーピングが採用される。

時間が迫っているので「背に腹はかえられない」というのがそのときの言い分です。
でも、武道の修業というのは、いつ、どこで、どのような危機に遭遇するのか予見できない状態で、それに備えるものです。だから、「いついつまでに、これこれのことができなければ罰を与える」という論理形式自体ありえません。

競技ではパフォーマンスを最大化すべき時間も場所もあらかじめ決まっています。その時点にピークをもって来られるなら、そのあと足腰立たなくなっても構わない。極端な話、廃人になっても構わない。
武道の修業にはそういうタイムリミットがありません。というか、「リミット」という概念そのものがありません。

自分の心身の能力を、与えられた生涯のうちにどこまで高められるかを追求するものです。だから、修業の途中の、まだろくに技術がない段階で生き死にの修羅場に遭遇したら、そのときには手持ちの資源を使える限り使ってなんとかするしかない。死ぬときは死ぬ。生き延びられたら修業を続ける。それだけのことです。

もう一つ、体罰をする指導者は全員が「メリトクラシー」の信奉者です。
努力したものは報償を受け、努力を怠ったものは罰を受けるべきだという考え方のことです。
彼らが暴力の行使を正当化するときの言い分はだいたい同じです。
「これほど資質に恵まれていながら、努力を怠ることが許せない。もともと才能がないなら、叱りはしない」と。

この主張の前提にあるのは、身体能力には人によって生得的な差があるが、「努力する能力」には差がないという信憑です。全員が等しく「努力する能力」を分有している。なのに、こいつはそれを出し惜しんでいる。能力がないことは咎めないが、能力の開発を自分で抑制している人間は罰を受けなければならない。そういうロジックです。

でも、実際にはその前提が間違っている。
自分の限界を突破したいという「努力するモチベーション」が起動する仕方は人によってまったく違うからです。

「自分の限界」を設定しているのは本人です。「自分にはこれくらいしかできない。その範囲なら心身を制御可能である」という範囲に誰でも居着きます。自分の可能性を低めに設定して「心身に無理をさせない」というのは生物としては合理的な生存戦略だからです。
でも、その「リミッター」を解除しないと身体的な「ブレークスルー」は起こらない。

リミッターを解除する方法は、単純化すれば二種類しかありません。
「限界の外に出ると、いいことがある」と思わせるか、「限界の内にとどまっていると、ひどい目に遭う」と思わせるか、二つに一つです。

体罰はもちろん後者です。
自分で設定した限界内にとどまっていると「ひどい目に遭う」と信じ込ませれば、人はやむなく限界を超えます。「できるはずのないこと」を無理やりやろうとする。今、ここで使い切ってはいけない身体資源まで使い切ってしまう。

それが可能なのは、リミッターの解除の代償に「時間制限」をかけているからです。「次のインターハイまで」とか「五輪強化選手選考会まで」とか「世界選手権まで」とか。数週間、せいぜい数ヶ月の時間制限を設ける。それまでは限界を超えるトレーニングに耐える。それを超えたら「壊れる」という身体への物理的負荷のリミットを「この日まで」という時間制限に置き換える。

アスリートも「その日まで」我慢すれば「あとは休める」と思うから、本来であれば一生ゆっくり使い延ばさなければならない身体資源を短期的に費消するようなトレーニングに同意してしまう。
少年野球で連投して、そのとき肩を壊してそのあと野球ができなくなった人とか、柔道で膝を傷めて、それから足を引きずっている人とか、ときどき見かけます。彼らは一生丁寧に使い延ばして使わなければならない身体資源を「先食い」してしまったわけです。

長く使うべきものを短期的に費消したことの代償として、期間限定的にパフォーマンスを上げることは可能です。でも、それがどれほど「割りに合わない」バーゲンであることを自覚しているスポーツマンはごく少数です。ほとんどのアスリートは高いパフォーマンスが要求される「限定期間」が終わったあとの自分の身体がどうなってしまうかについて何も考えていません。

自分の身体能力を「一生かけて高めてゆくもの」だとは考えない。それは学校体育でも同じです。学校体育は、子どもたちの中に潜在している多様な身体資源を、ゆっくり時間をかけて、ていねいに吟味し、開花させるという仕事には、ほとんど興味を示しません。

学校体育はその宿命として「成績をつける」ことを義務づけられています。そのためには他の条件を全部同じにして、数値的に比較考量可能な能力を見るしかない。タイムを計ったり、距離を測ったり、スコアを数えたり。
でも、人間の蔵している身体能力のほとんどは数値化できません。少なくとも、学校で使えるような装置では測定不能です。

武道的に言えば、「何でも食える能力」や「どこでも寝られる能力」や「誰とでも友だちになれる能力」や「正しい道案内人を見つける能力」は危機的状況を生き延びる上で、走る速さやボールをゴールに蹴り込む精度よりもはるかに有効です。でも、これらの能力は複雑すぎて計測不能・数値化不能です。そして、「数値化できない身体能力」は今の学校体育では「存在しない」ものとして扱われます。

数値化できない身体能力は「ないもの」として扱う。それは競技会が終わった後のアスリートたちの心身については何も「考えない」スポーツ指導者のマインドと同質のものです。

体罰や成果主義に伏流しているのは、生き物としての強さを犠牲にして、今ここでデジタルに数値化できる身体能力を限定的に高めようとする傾向です。それは「身体資源をできるだけ長く使い延ばそうとする」人間の生物的本性に対する攻撃です。

今のスポーツ界はそれを「リミッターを解除して、心身の限界を超えると『いいこと』がある」という利益誘導と、「言うとおりにしないと『ひどいめ』にあわせる」という恫喝を使い分けて行っています。
「いいこと」というのは進学や就職や年収や名声であり、「ひどいめ」というのは体罰や屈辱のことです。

武道もブレークスルーを喜びとして経験することをめざしています。
けれども、そのとき経験される「いいこと」というのは金とか名誉とかいう世界内部的な記号ではありません。
それは「生きる力が満ちる」という細胞レベルでの出来事です。

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