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- 2010年12月18日 05:26
今年の思潮を総括する座談会での宮台発言です
【宮台】朝日カルチャーセンターで十年教えてきましたが、数年前から政治哲学の原理的思考に対するニーズが上昇しました。知的要求の上昇と言い切っていい。僕は9・11(2001年)以降だと思います。
従来は大学でゼミの希望者を篩い落とすべく政治哲学の難しい話をすると人が来なくなったのが、逆に増えるようになりました。理由は、現実が流動的になり、比較的動きにくいも––古典だったり原理的なものだったり––に対する要求が高まったことです。
もう一つの理由は、サンデルにせよロールズにせよ「正義論」ブームの前提として、道徳に対する要求、あるいは道徳の拠ってきたる所以に対する理解への要求が、とても強くなってきたことでしょう。
九三年、ロールズの俗に言う「転向」がありました。彼の言葉では「包括的リベラリズムから政治的リベラリズムへ」。日本では井上達夫氏を中心に、これを後退だと理解する向きが多いけど、政治哲学や社会学の最前線では多くが前進だと考えています。
なぜか。まさに9・11がキーワード。一国内あるいは「我々」の内部での公正や正義について考える福祉国家政策的な段階から、グローバルないし「我々」の範囲を越えた者––異文化や異宗教の者––との共生の可能性を模索する段階へのシフトだからです。
より現実的に緊要な問題に前進したと言えるし、普遍主義というローカリズム--ウォーラーステインの言う「欧州的な普遍主義」--を超えて「普遍的な普遍主義」へと前進したとも言えます。ローティはこれを「プラトニズムからプラグマティズムへ」と言う。
「ロールズ転向」を契機に、古典的自由主義寄りのリベラリズム理解が、サンデルを含めたリベラル・コミュニタリアン的なリベラリズム理解へとシフトします。「かつてのロールズは一国主義という意味で所詮コミュニタリアンだ」との皮肉な理解が典型です。
コミュニタリアンを「共同性の押しつけ」とみる誤解も解け、自称コミュニタリアンが殆どいない理由も理解されてきました。実際、規範的説教というより、近接性(仲間とトゥギャザであること)が選好構造を変えると見做す事実的論議をする訳です
さらに、近接性を重視するアナーキズムや、それを重要な源流の一つとするリバタリアニズムについて--或いはリバタリアニズムとは本来筋が違う帰結主義的なハイエクやミルトン・フリードマンについて--「市場原理主義だ」と名指す誤解もとけてきました。
大学教員レベルでは相変わらずフリードマンを市場原理主義だと教える人も多いけど、彼の本を読めば序文レベルですらそうは書いてない。実際は逆。むしろ教育と医療についてはふんだんな財政的支出が必要だと繰り返し言って来ているのです。
ただ彼が強調するのは、公共性の判断を誰がするのかという問題です。「たかが行政官僚如きに公共性を判断させていい訳がない。用途指定クーポン(バウチャー)とベーシックインカムを組み合わせ、市場での投票を通じて公共性を判断させよ」と言う。
これは少なくとも間接的には、市民というあり方(シチズンシップ)についての規範的議論です。日本ではまだ左翼による市場原理主義うんぬんの類の誤解が流布するけど、学生の間ではフリードマンの議論についての真摯な関心も高まっています。
【宮台】そう思います。『ベオグラード1999』(金子遊監督)というドキュメンタリー映画があります。監督自身はニューレフトだけれど、元恋人が一水会に入っていたのが自殺して、映画は彼女の自殺までの経緯を追います。
その過程で、金子監督は、一水会をなど新右翼の主張が、自分が思っていた「右翼」とは全く違うことに気づき、完全に合意しないまでも、政治をめぐる規範が、紋切り型の「あれか、これか」の議論ではありえないことに「気づき」を獲得します。
監督自身の自伝的な「気づき」の描写が、今の精神風土を象徴します。安倍晋三政権時代--むろん小泉政権時代もそうでしたが--それこそ「あれか、これか」の「友敵図式」の中で、内容無関連に自分たちを鼓舞する形が専らでした。
例えば「自己決定尊重と共同体尊重が対立する」云々。個人性も共同性もこうした低レベルでしか理解されなかった。それがやっと「自己決定を貫徹する共同性」というアレント的ないしサンデル的な--本来は初期ギリシア的な--理解にシフトしてきました。
「戦後日本は個人主義化しすぎた」という安倍晋三的ないし自称「保守論壇」的な“頭の悪い議論”が衰退し、三島由紀夫が右翼を標榜しつつ徴兵制や愛国教育や核武装に反対した理由を一水会元代表の鈴木邦男氏が朝日新聞で論じる時代になりました。
僕の師匠で先日他界した極右の小室直樹先生が、日本はもう駄目だと慨嘆する僕に、「いや、宮台君、社会が悪くなると人が輝くんだ、心配はいらない」と答えたのが15年前。まさしく小室先生の仰言った通りなのかもしれないと感じるこの頃です。
昨今の道徳への関心は、「私」とは誰で「我々」とは誰なのかという原理的関心と表裏一体です。90年代後半の『エヴァンゲリオン』ブームまで一般的だった「私探し」が進展し、“村上春樹的に「井戸の底を堀っ」たら井戸じゃない場所に出た”感じです。
思えば、1929年に始まる世界恐慌から、ケインズの「有効需要」論や、デューイの「体験を通じた成長としての教育」論や、パーソンズの「経済回って社会回らず(ゆえにやがて経済も回らず)を回避する社会化」論など生産的議論が生まれました。
私が私であり続けることの非自明性。我々が我々であり続けることの非自明性。要は「社会というものの非自明性」がセセリ出すのが、社会が悪くなる時代。とすれば、政治哲学に関心を寄せる僕たちにとっては「いい時代」が訪れました。
【宮台】ハーバーマスに引きつければ、少し前まで近代社会哲学は、正当性(内容・善)よりも正統性(形式・正義)に関心を寄せてきたのが、正統性自体が一定の正当性=自明性に支えられてきたことが明確になってきた。それが「ロールズ転向」の本質です。
ローティが1993年のアムネスティ講義で「世の中では人権の本質論が喧しいが、我々が1965年まで黒人を人間だと思わなかった事実を思えば愚昧千万。黒人を人間だと思う以外ないような自明性をもたらす感情教育の実践が大切だ」と述べたのも同趣です。
関連しますが、カルチャーセンターでは今、最先端の思想でなく、古典を教えてくれという要求が専らです。僕の私塾(思想塾[朝日カルチャーセンターに吸収]と宮台特別ゼミ]もそう。受講生らに尋ねると「巷の理解が間違ってるようだから」と言う。
例えば、学部学生向けに、古い本だけど福田歓一の『政治学史』を読んでいますが、最初におっしゃったホッブズについても、ブルータルなイメージが否定され、絶対王政の王権神授説に抗うための、徹底した合理主義の推奨だと書かれています。
ブームになる前、サンデルの『民主制の不満』を英語で輪読しました。これも日本におけるコミュニタリアンの紹介に不満を覚える受講生からの要求です。米国における共和主義者という意味での右は、日本の右と全く違うので、本質的な意味を理解したいと。
サンデルは共和主義者です。『民主主義の不満』も、個人の選択に過剰な負荷をかける狭義のリベラリズム--彼はボランタリズムと呼びます--から共和主義を擁護します。彼の言い方では「ハミルトニズムからのジェファソニズムの擁護」です。
つまり米国の文脈ではサンデルは右です。しかしとりわけ日本では、コミュニタリアニズムというと左のニュアンスです。この種の誤認識が拡がる中、「先の中間選挙でのオバマ民主党の敗北は米国の右ぶれだ」などと言うのは爆笑ものです。
共和主義の伝統からすると、オバマの国民健康保険にせよ、ロールズの相続税百%にせよ、州がやるのはOK。なぜか。ステイト(州)は宗教的アソシエーションで、ユナイテッドステイツは複数のアソシエーションのメイフラワー協約的な共生空間だから。
実際、輸血を拒絶するモルモン教徒もいれば、病院通いを否定するアーミッシュもいる。彼らにとっては「俺は医者に行かないのに、どうして医者に行く連中のためのカネを払うんだ」となる。誰もが同じ自明性の枠内にある日本とは違うのです。。
米国の共和主義は、再配分主義への反対でもなく、行政官僚最小化のイデオロギーでもない。単に「州の仕事であっても、連邦政府の仕事ではない、それが合衆国憲法の立憲意志だ」と主張するだけ。つまり「共同体的自己決定主義」なのです。
そのことは日本の報道に触れていたら分からない。残念ながらリベラル・コミュニタリアン論争を紹介する日本の政治哲学者の本を読んでも分からない。しかしサンデルの本を読み通せば完璧に分かる。それがギリシアに由来する思考であることも分かる。
そういった「目から鱗」体験を予感しつつ、若い人たちが古典を教えてくださいと言ってくる。今何が起こっているのかを知りたければ古典的書物を繙かないと分からないという予感です。まさに僕たちの時代がやってきました(笑)。
【宮台】大切です。述べたように、米国には民間療法以外には関わらない連中が山ほどいて、彼らから保険料を徴収するのは普通に考えて自明ではないけれど、この非自明性が、個人の多様性よりも共同体の多様性に由来すると主張するのがサンデルです。
とはいえ、かつてと違い、共同体の境界がぼやけ、個人が複数の共同体に多重帰属するのも普通です。その結果「お前は共同体を尊重せずに生きていけると思うのか」といった物言いが単にウザイものになりつつあるという事情が、米国にもあります。
そんな感受性を活写したのがフェイスブックの創業者を描いたデビッド・フィンチャー監督『ソーシャル・ネットワーク』。そこで擁護されるのは「奔放な子供らしさ」で、批判されるのは「お前は…生きていけると思うのか」的な「ウザイ大人らしさ」です。
感慨深いのは、人が政治哲学や社会哲学の学徒を志す動機が、多くの場合「ウザイ大人の否定」という意味でリバタリアン的構えだったのが、加齢すると「共同体ってものはな…」とコミュニタリアン的構えにシフトすること。僕を含めてです(笑)。
でも『ソーシャル・ネットワーク』のリバタリアン的構えには、明白な近接性擁護がある。クリント・イーストウッドみたいにね。実際、リバタリアンもコミュニタリアンも、共にクロポトキン的な近接性擁護、つまりアナーキズムが出発点なのです。
「僕を含めて仕方ない」と言いました。政治介入なしで近接性擁護が可能な時代が終ったからです。例えば親の役目を果たせない虐待親だらけ。親を掣肘する共同体もない。デューイ=パーソンズ=ローティ的な感情教育のパターナリズムが不可欠になった。
でも近接性や共同体の境界線は不分明です。チャールズ・テイラーの言うように「地平の融合」さえある。だから、政治が共同体の境界線をフィンガーポイントすれば、そこに必ず恣意性を必然化する暴力が働く。ここに最大の今日的逆説があります。
【宮台】ティーパーティー的なものを理解する導きになるのは、クリント・イーストウッドです。彼は「草の根右翼」で、典型的な共和主義者です。でも硫黄島二部作が典型だけど、彼の撮った映画はどうみても反連邦政府です。
それも「近接性(プロクシミティ)重視」に由来します。「顔の見えない範囲」の国家を信じる奴は馬鹿。人が戦争で鬪う理由は、国家ためでも、家族のためでさえもなく、戦場での友や仲間のために他ならないと。強烈です。近接性を欠いた一切を疑う。
右翼の本質は反政府。超越(神・国家)への依存を批判する初期ギリシアの主意主義が出発点だからです。旧枢軸国の屈折は、旧連合国に追いつくべく動員を行う際、急な都市化と共同体空洞化でアノミー化した魂の受皿として、崇高な国家を持ち出したからです。
共同体と国家の相克が旧枢軸国でだけ消去された。結果、「共同体に貫かれるがゆえにあらゆる理不尽にかかわらず前進する存在」を愛でる右が、「自分こそが愛国者だと優等生競争をする存在」を愛でる「エセ右」に頽落した。枢軸国的な病理でネトウヨ的です。
話を戻すと、ここ十五年を振り返ると、道徳というかシビック・ヴァーチューがベースにないと資本主義は回らないとする感受性、ないし、資本主義の否定より資本主義が社会を滅ぼさない条件の肯定が大切だとする感受性が、定着してきました。
経済回って社会回らず、であれば、やがては経済も回らなくなる。そのことをアダム・スミスも、スミスの影響を受けたウェーバーも、ウェーバーの影響を受けたパーソンズも繰り返し主張してきたけど、9.11とリーマンショックを経て漸く人口に膾炙しました。
【宮台】ただ微妙なのは、そこを強調すると、日本人には希望がないという話になります。
【宮台】そう。普遍宗教は極めて特殊です。ユダヤ教は普遍宗教でなく民族宗教ですが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同じザ・ゴッドを信奉し、メシア観が分岐するだけ。ちなみに分岐の結果、戒律があったりなかったり、宣教があったりなかったり。
でも、そうした違いにもかかわらず重要な共通性があります。それは「自分たちの生活形式が神の意志を裏切っていないかどうか」を再帰的に観察する「心の習慣」(ロバート・ベラー)です。
日本人は、絶対神がないかわりに八百万の神、分かりやすくいえば妖怪たちに囲まれています。でも妖怪は、環境が変わると種類が変わる。映画『学校の怪談』シリーズみたいに、学校が建てば「トイレの花子さん」が出現する(笑)。
アニミズム的感受性は生活形式の同一性を支える眼差しを与えません。かつて日本には鎮守の森の観念がありました。沖縄でも森を失ったところから御嶽(うたき)が神降ろしに使えなくなってうち捨てられます。なのに「森を守れ」という規範が生まれない。
生活形式への再帰的眼差しの欠如が障害になって「遅れ」が生じています。それは、今でも全政党が生産点での活動を重視すること。先進国では八〇年代に消費点での運動にシフトします。階級闘争から、環境運動・反核運動・ジェンダー運動にシフトしました。
「新しい社会運動」と呼ばれます。これら消費点での運動の中に、共同体ないし中間集団の自立保全を訴えるものが含まれていました。スローフード運動、メディアリテラシー運動、アンチ・ウォルマート運動などです。でも日本にはありませんでした。
これらは共同体的自己決定を重視する運動で、「個人か国家か」「市場か再配分か」といった二項図式を拒絶する。共同体が市場に依存しすぎても国家に依存しすぎても危険だという発想です。依存を回避し、共同体の自立をめざせと。日本にはありません。
結果どうなったか。夏の参院選での、都市部が支えた「みんなの党」躍進、農村部での農協が支えた「自民党」躍進に見るように、未だに「個人か国家か」「市場か再配分か」の20年遅れの二項図式。都市でも地方でも共同体が崩壊している証拠です。
共同体の崩壊こそが、英国の3倍、米国の2倍の自殺率をもたらし、今年話題になった超高齢者所在不明問題や乳幼児虐待放置問題をもたらした。日本のマスゴミは「国は何やってんだ」との論潮ですが、米国の雑誌は「日本は社会が腐っている」との論潮です。
国が腐っているか、社会が腐っているか。答えは自明。社会が腐っている。だから国も腐るのです。つまり、シチズンシップやシビック・バーチューを、どこよりも真剣に論じ、感情教育の実践を通じて涵養すべきなのは、他ならぬ日本です。
【宮台】その点、柳田國男は問題の本質を理解していました。日本には普遍宗教がなく、「神の目」を経由した反省がないかわりに、「世間の目」を経由した反省があった。だからこそ無縁性を忌避する感覚がありました。
ただ神と違い、産業化が進めば、世間は妖怪と一緒に消えます。神は、生活形式の変化に免疫があるけど、世間と妖怪は免疫がない。若い人のKY忌避にみるように仲間内の共同体的相互牽制が働いても、仲間(共同体)を断固維持するコミットメントがない。
日本人は、生活形式の変化に再帰的眼差しを向ける宗教社会学的契機を欠きます。それゆえ、仲間の範囲が変わることにも、仲間の行動原理が変わることにも抵抗できない。まさに「長いものに巻かれて」適応していく。結果、無縁社会になりました。
【宮台】共同体が空洞化した空間で、再び共同体を再建する場合、「多数派の専制」が危険です。そこで思い出されるのが、フリードリヒ・ゴーガルテンの『我は三一の神を信ず』(新教出版社)という昭和十一年に刊行された本の復刻です。
佐藤優氏の解説が秀逸です。要点を言います。なぜイエスを信仰するのか。ゴーガルテンは、イエスが自ら磔刑を選択した決断のありそうもなさゆえだとする。だから、真の信仰者はイエスと同様にありそうもない決断ができなければいけない。
盟友バルトは、決断という人為的契機の強調は危険で、磔刑に至る丸一日のイエスの行動と佇まいのありそうもなさへの感染--バルトの言葉では受動的服従--こそが信仰の本義だとする。だからこそ磔刑直前に逃走離散した使徒たちが3日後に戻ってくる。
ご存知のように、ゴーガルテンはドイツキリスト教者の会をヒトラー翼賛へと導いた張本人。その帰結を我々は知っているので、バルトが予感した危険の意味がよく分かります。ゴーガルテンの主張は感動的ですが、その感動的な部分が危険なのです。
僕は京都学派や日蓮主義者を調べていますが、京都学派は西田幾多郎を通じてゴーガルテンの影響を受け、日蓮主義は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の古い編集バージョン(カムパネルラの死に直面してから銀河鉄道に乗る)が示すように感動的決断を擁護します。
京都学派も日蓮主義者も、東洋的ないし日本的な共同体護持に強くコミットするけど、その手法はともに、「危機神学」ならざる「ゴーガルテンの危機」と表裏一体です。神の言葉を知り得ない(=危機)ように決断の正否も知り得ない(=危機)のです。
「人々の本当の幸い」を願う者は、誰にもなしえない決断ができなければいけないのか。違う。決断であってはいけない。「良きサマリア人」がそうだったように、気がつくと体が動いているような感染でなければ…。そう、初期ギリシア的思考です。
ローティが、プラトニズムと形而上学を批判し、プラグマディズムとエマソン(内なる光)を擁護するのも、同じ文脈です。でも、もはや共同体は風前の灯。内なる光の受け渡しは少しも自明でない。だからこそ感情教育が必要だと言うのです。
でも、ありそうもない決断の推奨が人為なら、感染を通じて感染可能性を確保する感情教育も人為。コミュタリアンの多くがコミュニタリアンを自称しない本質的理由がここにあります。共同性に貫かれてあることは重要だ。しかしどれが「その」共同性か。
だからこそ、サンデルが合衆国の共同性を名指し、テイラーがケベック州の共同性を名指しても、誰がどんな権利で「その」共同性に含まれていると言えるか明言を避け、ガダマーを借りて「地平の融合」のような概念を唱える訳です。
我々は厳密な意味で過去の文脈を知らないから過去人は分からないし、異文化の文脈を知らないから異文化人は分からない。でも「君は文脈が分かっていないね、こういう文脈だよ」というコミュニケーションが常に既に存在する。それはなぜか。
現在の文脈から過去を解釈(相対化)する我々が過去の文脈によって解釈(相対化)され、自文化の文脈から異文化を解釈(相対化)する我々が異文化の文脈によって解釈(相対化)される。そんな解釈学的循環が現に随所で様々な規模で起こるからです。
【宮台】国際政治のプラットフォームが本当に変わりました。現象としては、ごく数人のアソシエーションと数千万人のシンパサイザーからなる、アソシアティブな運動です。それが国家の誕生よりも大きな力を果たしました。
何が変わったか。今後はウィキリークスのようなサイトは止まらない。すると大量破壊兵器の存在を理由にしたイラク攻撃の如きデマよる大量動員はできなくなる。マクシミンを原則とするリスクマネジメントの観点から言って、バレたら政権が倒れるからです。
もうひとつ。アメリカは通常二五年、外交機密なら五〇年経てば情報公開します。趣旨は、国民の利益のために政治家が国民に嘘をつかねばならない場合があるにせよ、嘘や隠蔽を背景にした政策遂行が合理的だったのか、事後的に検証可能にするためです。
マックス・ウェーバー的には、政治家は市民倫理的に許容されないことも共同体の利益を守る為にあえてやる必要がある。ところが実際ウィキリークスで暴露された機密をみると、米軍ヘリの娯楽的な民間人射殺を含め、こんなアホなことが、と憤りを覚えます。
つまり、ヴェーバー的な理路を隠れ蓑に、統治権力が如何に出鱈目を反復するかが分かった。このことは今後の政治学的リアリティに少なからず影響を与えるでしょう。いざというとき手を汚すのが政治家だという類の擁護が、格段に難しくなった。
【宮台】アサンジ氏が様々な場所で自分を露出し、アジテートしてきたことが効いています。かつてなら遠い存在なのに、多くの人々がインターネットを介し--最近ではマスコミをも介し--自国の大統領や首相よりアサンジ氏を近接的な存在だと感じています。
またもや近接性です。複雑性が信頼を脅かす場合、開拓時代の米国の如く、近接性をベースにした動員だけが効果的になります。従来ネグリ&ハートの「ザ・コモン」について懐疑的な向きもあったけど、アサンジはまさに「ザ・コモン」を見せつけました。
ネット時代の近接性とは何か。答えば「共感能力」。苅部さんの発言に関係しますが、菅直人政権がなぜ駄目か。共感能力に疑念があるからです。人々の苦しみを「悲しみ」、その原因に対して「怒り」、原因を取り除く「希望を示す」という回路が回ってない。
【宮台】同感です。二〇〇八年の秋葉原事件で、通行人がケータイで撮った画像を、テレビが千円札で買いまくって流した。あれが画期でした。今回もマスコミは海保が編集したビデオを流しまくり、「ファーストニュースはマスコミ」どころじゃなかった。
それについてマスコミからは自己理解や反省は聞かれない。従来は「ファーストニュースはマスコミで、セカンドニュースや評価はネットで」という話でしたが、今はマスコミが中抜きされ、極端に言えば最初から最後までネットで完結できます。
【宮台】すると日本のマスコミはもうダメでしょう。僕は神保哲夫氏とビデオニュース社の「マル激」に十年以上出演してきたけど、分析や解説のレベルは朝日や読売よりも遙かに上です。多くの人はマスコミの分析をマスゴミ扱いしています。
従来は大学でゼミの希望者を篩い落とすべく政治哲学の難しい話をすると人が来なくなったのが、逆に増えるようになりました。理由は、現実が流動的になり、比較的動きにくいも––古典だったり原理的なものだったり––に対する要求が高まったことです。
もう一つの理由は、サンデルにせよロールズにせよ「正義論」ブームの前提として、道徳に対する要求、あるいは道徳の拠ってきたる所以に対する理解への要求が、とても強くなってきたことでしょう。
九三年、ロールズの俗に言う「転向」がありました。彼の言葉では「包括的リベラリズムから政治的リベラリズムへ」。日本では井上達夫氏を中心に、これを後退だと理解する向きが多いけど、政治哲学や社会学の最前線では多くが前進だと考えています。
なぜか。まさに9・11がキーワード。一国内あるいは「我々」の内部での公正や正義について考える福祉国家政策的な段階から、グローバルないし「我々」の範囲を越えた者––異文化や異宗教の者––との共生の可能性を模索する段階へのシフトだからです。
より現実的に緊要な問題に前進したと言えるし、普遍主義というローカリズム--ウォーラーステインの言う「欧州的な普遍主義」--を超えて「普遍的な普遍主義」へと前進したとも言えます。ローティはこれを「プラトニズムからプラグマティズムへ」と言う。
「ロールズ転向」を契機に、古典的自由主義寄りのリベラリズム理解が、サンデルを含めたリベラル・コミュニタリアン的なリベラリズム理解へとシフトします。「かつてのロールズは一国主義という意味で所詮コミュニタリアンだ」との皮肉な理解が典型です。
コミュニタリアンを「共同性の押しつけ」とみる誤解も解け、自称コミュニタリアンが殆どいない理由も理解されてきました。実際、規範的説教というより、近接性(仲間とトゥギャザであること)が選好構造を変えると見做す事実的論議をする訳です
さらに、近接性を重視するアナーキズムや、それを重要な源流の一つとするリバタリアニズムについて--或いはリバタリアニズムとは本来筋が違う帰結主義的なハイエクやミルトン・フリードマンについて--「市場原理主義だ」と名指す誤解もとけてきました。
大学教員レベルでは相変わらずフリードマンを市場原理主義だと教える人も多いけど、彼の本を読めば序文レベルですらそうは書いてない。実際は逆。むしろ教育と医療についてはふんだんな財政的支出が必要だと繰り返し言って来ているのです。
ただ彼が強調するのは、公共性の判断を誰がするのかという問題です。「たかが行政官僚如きに公共性を判断させていい訳がない。用途指定クーポン(バウチャー)とベーシックインカムを組み合わせ、市場での投票を通じて公共性を判断させよ」と言う。
これは少なくとも間接的には、市民というあり方(シチズンシップ)についての規範的議論です。日本ではまだ左翼による市場原理主義うんぬんの類の誤解が流布するけど、学生の間ではフリードマンの議論についての真摯な関心も高まっています。
【宮台】そう思います。『ベオグラード1999』(金子遊監督)というドキュメンタリー映画があります。監督自身はニューレフトだけれど、元恋人が一水会に入っていたのが自殺して、映画は彼女の自殺までの経緯を追います。
その過程で、金子監督は、一水会をなど新右翼の主張が、自分が思っていた「右翼」とは全く違うことに気づき、完全に合意しないまでも、政治をめぐる規範が、紋切り型の「あれか、これか」の議論ではありえないことに「気づき」を獲得します。
監督自身の自伝的な「気づき」の描写が、今の精神風土を象徴します。安倍晋三政権時代--むろん小泉政権時代もそうでしたが--それこそ「あれか、これか」の「友敵図式」の中で、内容無関連に自分たちを鼓舞する形が専らでした。
例えば「自己決定尊重と共同体尊重が対立する」云々。個人性も共同性もこうした低レベルでしか理解されなかった。それがやっと「自己決定を貫徹する共同性」というアレント的ないしサンデル的な--本来は初期ギリシア的な--理解にシフトしてきました。
「戦後日本は個人主義化しすぎた」という安倍晋三的ないし自称「保守論壇」的な“頭の悪い議論”が衰退し、三島由紀夫が右翼を標榜しつつ徴兵制や愛国教育や核武装に反対した理由を一水会元代表の鈴木邦男氏が朝日新聞で論じる時代になりました。
僕の師匠で先日他界した極右の小室直樹先生が、日本はもう駄目だと慨嘆する僕に、「いや、宮台君、社会が悪くなると人が輝くんだ、心配はいらない」と答えたのが15年前。まさしく小室先生の仰言った通りなのかもしれないと感じるこの頃です。
昨今の道徳への関心は、「私」とは誰で「我々」とは誰なのかという原理的関心と表裏一体です。90年代後半の『エヴァンゲリオン』ブームまで一般的だった「私探し」が進展し、“村上春樹的に「井戸の底を堀っ」たら井戸じゃない場所に出た”感じです。
思えば、1929年に始まる世界恐慌から、ケインズの「有効需要」論や、デューイの「体験を通じた成長としての教育」論や、パーソンズの「経済回って社会回らず(ゆえにやがて経済も回らず)を回避する社会化」論など生産的議論が生まれました。
私が私であり続けることの非自明性。我々が我々であり続けることの非自明性。要は「社会というものの非自明性」がセセリ出すのが、社会が悪くなる時代。とすれば、政治哲学に関心を寄せる僕たちにとっては「いい時代」が訪れました。
【宮台】ハーバーマスに引きつければ、少し前まで近代社会哲学は、正当性(内容・善)よりも正統性(形式・正義)に関心を寄せてきたのが、正統性自体が一定の正当性=自明性に支えられてきたことが明確になってきた。それが「ロールズ転向」の本質です。
ローティが1993年のアムネスティ講義で「世の中では人権の本質論が喧しいが、我々が1965年まで黒人を人間だと思わなかった事実を思えば愚昧千万。黒人を人間だと思う以外ないような自明性をもたらす感情教育の実践が大切だ」と述べたのも同趣です。
関連しますが、カルチャーセンターでは今、最先端の思想でなく、古典を教えてくれという要求が専らです。僕の私塾(思想塾[朝日カルチャーセンターに吸収]と宮台特別ゼミ]もそう。受講生らに尋ねると「巷の理解が間違ってるようだから」と言う。
例えば、学部学生向けに、古い本だけど福田歓一の『政治学史』を読んでいますが、最初におっしゃったホッブズについても、ブルータルなイメージが否定され、絶対王政の王権神授説に抗うための、徹底した合理主義の推奨だと書かれています。
ブームになる前、サンデルの『民主制の不満』を英語で輪読しました。これも日本におけるコミュニタリアンの紹介に不満を覚える受講生からの要求です。米国における共和主義者という意味での右は、日本の右と全く違うので、本質的な意味を理解したいと。
サンデルは共和主義者です。『民主主義の不満』も、個人の選択に過剰な負荷をかける狭義のリベラリズム--彼はボランタリズムと呼びます--から共和主義を擁護します。彼の言い方では「ハミルトニズムからのジェファソニズムの擁護」です。
つまり米国の文脈ではサンデルは右です。しかしとりわけ日本では、コミュニタリアニズムというと左のニュアンスです。この種の誤認識が拡がる中、「先の中間選挙でのオバマ民主党の敗北は米国の右ぶれだ」などと言うのは爆笑ものです。
共和主義の伝統からすると、オバマの国民健康保険にせよ、ロールズの相続税百%にせよ、州がやるのはOK。なぜか。ステイト(州)は宗教的アソシエーションで、ユナイテッドステイツは複数のアソシエーションのメイフラワー協約的な共生空間だから。
実際、輸血を拒絶するモルモン教徒もいれば、病院通いを否定するアーミッシュもいる。彼らにとっては「俺は医者に行かないのに、どうして医者に行く連中のためのカネを払うんだ」となる。誰もが同じ自明性の枠内にある日本とは違うのです。。
米国の共和主義は、再配分主義への反対でもなく、行政官僚最小化のイデオロギーでもない。単に「州の仕事であっても、連邦政府の仕事ではない、それが合衆国憲法の立憲意志だ」と主張するだけ。つまり「共同体的自己決定主義」なのです。
そのことは日本の報道に触れていたら分からない。残念ながらリベラル・コミュニタリアン論争を紹介する日本の政治哲学者の本を読んでも分からない。しかしサンデルの本を読み通せば完璧に分かる。それがギリシアに由来する思考であることも分かる。
そういった「目から鱗」体験を予感しつつ、若い人たちが古典を教えてくださいと言ってくる。今何が起こっているのかを知りたければ古典的書物を繙かないと分からないという予感です。まさに僕たちの時代がやってきました(笑)。
【宮台】大切です。述べたように、米国には民間療法以外には関わらない連中が山ほどいて、彼らから保険料を徴収するのは普通に考えて自明ではないけれど、この非自明性が、個人の多様性よりも共同体の多様性に由来すると主張するのがサンデルです。
とはいえ、かつてと違い、共同体の境界がぼやけ、個人が複数の共同体に多重帰属するのも普通です。その結果「お前は共同体を尊重せずに生きていけると思うのか」といった物言いが単にウザイものになりつつあるという事情が、米国にもあります。
そんな感受性を活写したのがフェイスブックの創業者を描いたデビッド・フィンチャー監督『ソーシャル・ネットワーク』。そこで擁護されるのは「奔放な子供らしさ」で、批判されるのは「お前は…生きていけると思うのか」的な「ウザイ大人らしさ」です。
感慨深いのは、人が政治哲学や社会哲学の学徒を志す動機が、多くの場合「ウザイ大人の否定」という意味でリバタリアン的構えだったのが、加齢すると「共同体ってものはな…」とコミュニタリアン的構えにシフトすること。僕を含めてです(笑)。
でも『ソーシャル・ネットワーク』のリバタリアン的構えには、明白な近接性擁護がある。クリント・イーストウッドみたいにね。実際、リバタリアンもコミュニタリアンも、共にクロポトキン的な近接性擁護、つまりアナーキズムが出発点なのです。
「僕を含めて仕方ない」と言いました。政治介入なしで近接性擁護が可能な時代が終ったからです。例えば親の役目を果たせない虐待親だらけ。親を掣肘する共同体もない。デューイ=パーソンズ=ローティ的な感情教育のパターナリズムが不可欠になった。
でも近接性や共同体の境界線は不分明です。チャールズ・テイラーの言うように「地平の融合」さえある。だから、政治が共同体の境界線をフィンガーポイントすれば、そこに必ず恣意性を必然化する暴力が働く。ここに最大の今日的逆説があります。
【宮台】ティーパーティー的なものを理解する導きになるのは、クリント・イーストウッドです。彼は「草の根右翼」で、典型的な共和主義者です。でも硫黄島二部作が典型だけど、彼の撮った映画はどうみても反連邦政府です。
それも「近接性(プロクシミティ)重視」に由来します。「顔の見えない範囲」の国家を信じる奴は馬鹿。人が戦争で鬪う理由は、国家ためでも、家族のためでさえもなく、戦場での友や仲間のために他ならないと。強烈です。近接性を欠いた一切を疑う。
右翼の本質は反政府。超越(神・国家)への依存を批判する初期ギリシアの主意主義が出発点だからです。旧枢軸国の屈折は、旧連合国に追いつくべく動員を行う際、急な都市化と共同体空洞化でアノミー化した魂の受皿として、崇高な国家を持ち出したからです。
共同体と国家の相克が旧枢軸国でだけ消去された。結果、「共同体に貫かれるがゆえにあらゆる理不尽にかかわらず前進する存在」を愛でる右が、「自分こそが愛国者だと優等生競争をする存在」を愛でる「エセ右」に頽落した。枢軸国的な病理でネトウヨ的です。
話を戻すと、ここ十五年を振り返ると、道徳というかシビック・ヴァーチューがベースにないと資本主義は回らないとする感受性、ないし、資本主義の否定より資本主義が社会を滅ぼさない条件の肯定が大切だとする感受性が、定着してきました。
経済回って社会回らず、であれば、やがては経済も回らなくなる。そのことをアダム・スミスも、スミスの影響を受けたウェーバーも、ウェーバーの影響を受けたパーソンズも繰り返し主張してきたけど、9.11とリーマンショックを経て漸く人口に膾炙しました。
【宮台】ただ微妙なのは、そこを強調すると、日本人には希望がないという話になります。
【宮台】そう。普遍宗教は極めて特殊です。ユダヤ教は普遍宗教でなく民族宗教ですが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同じザ・ゴッドを信奉し、メシア観が分岐するだけ。ちなみに分岐の結果、戒律があったりなかったり、宣教があったりなかったり。
でも、そうした違いにもかかわらず重要な共通性があります。それは「自分たちの生活形式が神の意志を裏切っていないかどうか」を再帰的に観察する「心の習慣」(ロバート・ベラー)です。
日本人は、絶対神がないかわりに八百万の神、分かりやすくいえば妖怪たちに囲まれています。でも妖怪は、環境が変わると種類が変わる。映画『学校の怪談』シリーズみたいに、学校が建てば「トイレの花子さん」が出現する(笑)。
アニミズム的感受性は生活形式の同一性を支える眼差しを与えません。かつて日本には鎮守の森の観念がありました。沖縄でも森を失ったところから御嶽(うたき)が神降ろしに使えなくなってうち捨てられます。なのに「森を守れ」という規範が生まれない。
生活形式への再帰的眼差しの欠如が障害になって「遅れ」が生じています。それは、今でも全政党が生産点での活動を重視すること。先進国では八〇年代に消費点での運動にシフトします。階級闘争から、環境運動・反核運動・ジェンダー運動にシフトしました。
「新しい社会運動」と呼ばれます。これら消費点での運動の中に、共同体ないし中間集団の自立保全を訴えるものが含まれていました。スローフード運動、メディアリテラシー運動、アンチ・ウォルマート運動などです。でも日本にはありませんでした。
これらは共同体的自己決定を重視する運動で、「個人か国家か」「市場か再配分か」といった二項図式を拒絶する。共同体が市場に依存しすぎても国家に依存しすぎても危険だという発想です。依存を回避し、共同体の自立をめざせと。日本にはありません。
結果どうなったか。夏の参院選での、都市部が支えた「みんなの党」躍進、農村部での農協が支えた「自民党」躍進に見るように、未だに「個人か国家か」「市場か再配分か」の20年遅れの二項図式。都市でも地方でも共同体が崩壊している証拠です。
共同体の崩壊こそが、英国の3倍、米国の2倍の自殺率をもたらし、今年話題になった超高齢者所在不明問題や乳幼児虐待放置問題をもたらした。日本のマスゴミは「国は何やってんだ」との論潮ですが、米国の雑誌は「日本は社会が腐っている」との論潮です。
国が腐っているか、社会が腐っているか。答えは自明。社会が腐っている。だから国も腐るのです。つまり、シチズンシップやシビック・バーチューを、どこよりも真剣に論じ、感情教育の実践を通じて涵養すべきなのは、他ならぬ日本です。
【宮台】その点、柳田國男は問題の本質を理解していました。日本には普遍宗教がなく、「神の目」を経由した反省がないかわりに、「世間の目」を経由した反省があった。だからこそ無縁性を忌避する感覚がありました。
ただ神と違い、産業化が進めば、世間は妖怪と一緒に消えます。神は、生活形式の変化に免疫があるけど、世間と妖怪は免疫がない。若い人のKY忌避にみるように仲間内の共同体的相互牽制が働いても、仲間(共同体)を断固維持するコミットメントがない。
日本人は、生活形式の変化に再帰的眼差しを向ける宗教社会学的契機を欠きます。それゆえ、仲間の範囲が変わることにも、仲間の行動原理が変わることにも抵抗できない。まさに「長いものに巻かれて」適応していく。結果、無縁社会になりました。
【宮台】共同体が空洞化した空間で、再び共同体を再建する場合、「多数派の専制」が危険です。そこで思い出されるのが、フリードリヒ・ゴーガルテンの『我は三一の神を信ず』(新教出版社)という昭和十一年に刊行された本の復刻です。
佐藤優氏の解説が秀逸です。要点を言います。なぜイエスを信仰するのか。ゴーガルテンは、イエスが自ら磔刑を選択した決断のありそうもなさゆえだとする。だから、真の信仰者はイエスと同様にありそうもない決断ができなければいけない。
盟友バルトは、決断という人為的契機の強調は危険で、磔刑に至る丸一日のイエスの行動と佇まいのありそうもなさへの感染--バルトの言葉では受動的服従--こそが信仰の本義だとする。だからこそ磔刑直前に逃走離散した使徒たちが3日後に戻ってくる。
ご存知のように、ゴーガルテンはドイツキリスト教者の会をヒトラー翼賛へと導いた張本人。その帰結を我々は知っているので、バルトが予感した危険の意味がよく分かります。ゴーガルテンの主張は感動的ですが、その感動的な部分が危険なのです。
僕は京都学派や日蓮主義者を調べていますが、京都学派は西田幾多郎を通じてゴーガルテンの影響を受け、日蓮主義は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の古い編集バージョン(カムパネルラの死に直面してから銀河鉄道に乗る)が示すように感動的決断を擁護します。
京都学派も日蓮主義者も、東洋的ないし日本的な共同体護持に強くコミットするけど、その手法はともに、「危機神学」ならざる「ゴーガルテンの危機」と表裏一体です。神の言葉を知り得ない(=危機)ように決断の正否も知り得ない(=危機)のです。
「人々の本当の幸い」を願う者は、誰にもなしえない決断ができなければいけないのか。違う。決断であってはいけない。「良きサマリア人」がそうだったように、気がつくと体が動いているような感染でなければ…。そう、初期ギリシア的思考です。
ローティが、プラトニズムと形而上学を批判し、プラグマディズムとエマソン(内なる光)を擁護するのも、同じ文脈です。でも、もはや共同体は風前の灯。内なる光の受け渡しは少しも自明でない。だからこそ感情教育が必要だと言うのです。
でも、ありそうもない決断の推奨が人為なら、感染を通じて感染可能性を確保する感情教育も人為。コミュタリアンの多くがコミュニタリアンを自称しない本質的理由がここにあります。共同性に貫かれてあることは重要だ。しかしどれが「その」共同性か。
だからこそ、サンデルが合衆国の共同性を名指し、テイラーがケベック州の共同性を名指しても、誰がどんな権利で「その」共同性に含まれていると言えるか明言を避け、ガダマーを借りて「地平の融合」のような概念を唱える訳です。
我々は厳密な意味で過去の文脈を知らないから過去人は分からないし、異文化の文脈を知らないから異文化人は分からない。でも「君は文脈が分かっていないね、こういう文脈だよ」というコミュニケーションが常に既に存在する。それはなぜか。
現在の文脈から過去を解釈(相対化)する我々が過去の文脈によって解釈(相対化)され、自文化の文脈から異文化を解釈(相対化)する我々が異文化の文脈によって解釈(相対化)される。そんな解釈学的循環が現に随所で様々な規模で起こるからです。
【宮台】国際政治のプラットフォームが本当に変わりました。現象としては、ごく数人のアソシエーションと数千万人のシンパサイザーからなる、アソシアティブな運動です。それが国家の誕生よりも大きな力を果たしました。
何が変わったか。今後はウィキリークスのようなサイトは止まらない。すると大量破壊兵器の存在を理由にしたイラク攻撃の如きデマよる大量動員はできなくなる。マクシミンを原則とするリスクマネジメントの観点から言って、バレたら政権が倒れるからです。
もうひとつ。アメリカは通常二五年、外交機密なら五〇年経てば情報公開します。趣旨は、国民の利益のために政治家が国民に嘘をつかねばならない場合があるにせよ、嘘や隠蔽を背景にした政策遂行が合理的だったのか、事後的に検証可能にするためです。
マックス・ウェーバー的には、政治家は市民倫理的に許容されないことも共同体の利益を守る為にあえてやる必要がある。ところが実際ウィキリークスで暴露された機密をみると、米軍ヘリの娯楽的な民間人射殺を含め、こんなアホなことが、と憤りを覚えます。
つまり、ヴェーバー的な理路を隠れ蓑に、統治権力が如何に出鱈目を反復するかが分かった。このことは今後の政治学的リアリティに少なからず影響を与えるでしょう。いざというとき手を汚すのが政治家だという類の擁護が、格段に難しくなった。
【宮台】アサンジ氏が様々な場所で自分を露出し、アジテートしてきたことが効いています。かつてなら遠い存在なのに、多くの人々がインターネットを介し--最近ではマスコミをも介し--自国の大統領や首相よりアサンジ氏を近接的な存在だと感じています。
またもや近接性です。複雑性が信頼を脅かす場合、開拓時代の米国の如く、近接性をベースにした動員だけが効果的になります。従来ネグリ&ハートの「ザ・コモン」について懐疑的な向きもあったけど、アサンジはまさに「ザ・コモン」を見せつけました。
ネット時代の近接性とは何か。答えば「共感能力」。苅部さんの発言に関係しますが、菅直人政権がなぜ駄目か。共感能力に疑念があるからです。人々の苦しみを「悲しみ」、その原因に対して「怒り」、原因を取り除く「希望を示す」という回路が回ってない。
【宮台】同感です。二〇〇八年の秋葉原事件で、通行人がケータイで撮った画像を、テレビが千円札で買いまくって流した。あれが画期でした。今回もマスコミは海保が編集したビデオを流しまくり、「ファーストニュースはマスコミ」どころじゃなかった。
それについてマスコミからは自己理解や反省は聞かれない。従来は「ファーストニュースはマスコミで、セカンドニュースや評価はネットで」という話でしたが、今はマスコミが中抜きされ、極端に言えば最初から最後までネットで完結できます。
【宮台】すると日本のマスコミはもうダメでしょう。僕は神保哲夫氏とビデオニュース社の「マル激」に十年以上出演してきたけど、分析や解説のレベルは朝日や読売よりも遙かに上です。多くの人はマスコミの分析をマスゴミ扱いしています。



