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- 2010年10月17日 11:28
ツイッター上の都合から大澤・宮台対談の極く一部を掲載します。
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ツイッター上の都合から、文章を掲載させていただきます。
大澤真幸さんとの、朝日カルチャー新宿教室における、先日のトークの文字起こしから、宮台発言を5つ掲載します。
最後の発言を除くと、大澤さんが相づちをうたれているだけなので、ひとつながりです。
なお、全体は、大澤さんが編集しておられる『O』というムック(左右社)に掲載されます。
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宮台 僕は功利主義の立場には最終的には立ちません。説明します。最近の大学では政治哲学の講義が大人気で社会学は退潮気味です。サンデルに始まったのでなく、社会学の退潮は二〇年前から続くし、政治哲学が浮上してきたのも同時期です。
つまり九三年のロールズ転向あたりからです。彼の立場が「普遍的真理としての正義」から「実践を方向づけるための正義」へとシフトします。ローティ的に言えばプラグマティズムに転向します。このパラダイムシフト以降、政治哲学が脚光を浴びる。
六〇年代末のハーバーマスに対するルーマンの攻撃の再来にも見えますが、論者らが一斉に「普遍主義というローカリズム」を否定的に問題にし始めます。背景に一九九〇年に前後の冷戦体制崩壊と、直後からの湾岸戦争など地域紛争勃発があります。
政治哲学が「普遍主義というローカリズム」を批判する動きが拡がるのを追いかけるかのように、〇一年九・一一に続くアフガン&イラク攻撃によるアメリカの政治的威信の失墜、〇八年にはリーマンショックによる経済的威信の失墜がありました。
普遍主義的正義を旗印とした「ネオコン」的な冒険主義が、おおかた失敗に終わったのもあって、人々は、今や社会学者が羨むほど、政治哲学者への発言要求を高めています。昨今の僕自身、社会学よりも政治哲学の方がずっと面白いと感じるのです。
残念なのはそうした欧米的思考の流れが日本で理解されないこと。アメリカが六五年から七五年にかけて「リベラルな時代」に体験した出来事の凄まじさ。それが一方でロールズを登場させ、他方でニューヨークトロツキストをネオコンに変形させた。
六五年に北爆でベトナム戦争が拡大し、その後一〇年かけて終結する過程で、ケネディの暗殺(六三)やらキング牧師の暗殺(六八)やら、公民権運動から学園闘争まで、多様なリベラルな動きと社会的混乱がありました。ネオコン以外でも、混乱がトラウマとなって「原理主義的宗教保守」と「草の根右翼」が分裂しました。
かくして出現する「宗教保守」と「草の根保守」と「利権保守」をうまく利用して理念的に有利な状況を作り出そうとする「ネオコン」がある。こうした背景を抜きに、リベラルに対抗するリバタリアンやコミュニタリアンを扱う輩は単に馬鹿です。
宮台 参院選で捩れが問題化しました。衆参の議席の捩れよりも重大なのは、民主党にお灸を据えたい人が、都市部ではネット動員を背景にみんなの党=市場主義政党に、農村部では農協の動員を背景に自民党=再配分主義政党に投票したことです。
動員媒体がインターネットや農協ネットワークなのも象徴的ですが、ここに見出されるのは「小泉改革的な市場主義か、農協的な再配分主義か」つまり「市場か、再配分か」あるいは「個人(の自由)か、国家(の行政)か」という二項対立です。
大澤真幸さんとの、朝日カルチャー新宿教室における、先日のトークの文字起こしから、宮台発言を5つ掲載します。
最後の発言を除くと、大澤さんが相づちをうたれているだけなので、ひとつながりです。
なお、全体は、大澤さんが編集しておられる『O』というムック(左右社)に掲載されます。
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宮台 僕は功利主義の立場には最終的には立ちません。説明します。最近の大学では政治哲学の講義が大人気で社会学は退潮気味です。サンデルに始まったのでなく、社会学の退潮は二〇年前から続くし、政治哲学が浮上してきたのも同時期です。
つまり九三年のロールズ転向あたりからです。彼の立場が「普遍的真理としての正義」から「実践を方向づけるための正義」へとシフトします。ローティ的に言えばプラグマティズムに転向します。このパラダイムシフト以降、政治哲学が脚光を浴びる。
六〇年代末のハーバーマスに対するルーマンの攻撃の再来にも見えますが、論者らが一斉に「普遍主義というローカリズム」を否定的に問題にし始めます。背景に一九九〇年に前後の冷戦体制崩壊と、直後からの湾岸戦争など地域紛争勃発があります。
政治哲学が「普遍主義というローカリズム」を批判する動きが拡がるのを追いかけるかのように、〇一年九・一一に続くアフガン&イラク攻撃によるアメリカの政治的威信の失墜、〇八年にはリーマンショックによる経済的威信の失墜がありました。
普遍主義的正義を旗印とした「ネオコン」的な冒険主義が、おおかた失敗に終わったのもあって、人々は、今や社会学者が羨むほど、政治哲学者への発言要求を高めています。昨今の僕自身、社会学よりも政治哲学の方がずっと面白いと感じるのです。
残念なのはそうした欧米的思考の流れが日本で理解されないこと。アメリカが六五年から七五年にかけて「リベラルな時代」に体験した出来事の凄まじさ。それが一方でロールズを登場させ、他方でニューヨークトロツキストをネオコンに変形させた。
六五年に北爆でベトナム戦争が拡大し、その後一〇年かけて終結する過程で、ケネディの暗殺(六三)やらキング牧師の暗殺(六八)やら、公民権運動から学園闘争まで、多様なリベラルな動きと社会的混乱がありました。ネオコン以外でも、混乱がトラウマとなって「原理主義的宗教保守」と「草の根右翼」が分裂しました。
かくして出現する「宗教保守」と「草の根保守」と「利権保守」をうまく利用して理念的に有利な状況を作り出そうとする「ネオコン」がある。こうした背景を抜きに、リベラルに対抗するリバタリアンやコミュニタリアンを扱う輩は単に馬鹿です。
宮台 参院選で捩れが問題化しました。衆参の議席の捩れよりも重大なのは、民主党にお灸を据えたい人が、都市部ではネット動員を背景にみんなの党=市場主義政党に、農村部では農協の動員を背景に自民党=再配分主義政党に投票したことです。
動員媒体がインターネットや農協ネットワークなのも象徴的ですが、ここに見出されるのは「小泉改革的な市場主義か、農協的な再配分主義か」つまり「市場か、再配分か」あるいは「個人(の自由)か、国家(の行政)か」という二項対立です。



