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- 2013年02月26日 14:02
「功」が上回る話の落とし穴
いまや弁護士の口から「民業圧迫」という言葉を聞けば、それは「法テラス」(日本司法支援センター)のことを指しているという感があります。法テラスが予算を使って、ネット上でも充実した広報活動をし、結果、法テラスの無料法律相談に市民は流れ、弁護士会の法律相談は、どこも閑古鳥で、集客ソースとしても、これまでのように期待はできない。一方で、法テラス経由では、弁護士費用が通常受任の半額程度にもなるだけに、価格破壊も起こる。弁護士間の競争に加え、法テラスも競争相手に参入している、と(弁護士 小松亀一法律事務所「法律相談センターの危機-法テラスが最大の競争相手」)。
もちろん、弁護士のなかにも、刑事弁護の報酬の安さなど待遇に関する改善の必要性は認めながらも、「法の支配」や「社会のすみずみ」論を挙げて、法テラスのセーフティネットとしての「功」の方を強調し、「民業圧迫」論に賛同しない方もいます。前記「改革」の理念からすれば、その路線を支持する方が、法テラスの「功」を強調されるのは、むしろ当然であり、もっといってしまえば、国民に対して、「弁護士会をやれないことを実現している」という、とらえ方もあります。
それだけに、ここで「民業圧迫」などといえば、弁護士がまたぞろ「食える食えない」の問題と結びつけて、社会にとって「功」あるものを批判している、といった「心得違い」批判にさらされるだけと、先読みされているような方もいらっしゃるようにお見受けします。
ただ、一方で、弁護士に競争を求める以上、「民業圧迫」に目くじらを立てるななどとはいえないはずです。そして、法テラスが競争相手として参入している状態も、弁護士淘汰の促進であるとするならば、「功」の部分と比較して、社会にとって、その先にも、本当にいい話が待っているかどうかも考えなければなりません。
実は、法テラスのとらえ方として、以前、別の解釈がありました。端的に言えば、法テラスには絶対いかないニーズが沢山あるはず、というものです。そこには、「質」的なサービスの差別化と、利用者の選択という発想も被せられました。それを以前、公立中学と私立中学の「お受験」に喩えている人もいました。喩えとしての適切さはともかく、要はお金を出しても「私立」に入れる人がいる、いわば、「公立」法テラスと「私立」弁護士の共存がこれで成り立つ、と。もちろん、この発想に立てば、より弁護士の開拓努力、サービス向上への士業努力と結び付けやすくなりますので、当然、「民業圧迫」を弁護士が引き合いに出しにくくなります。
ところが、現実的には、「私立」の「お受験」が、そんなにあるわけではない。社会には、「公立」に期待する、いわば無償性の高いニーズ、弁護士からすれば、採算性の低いニーズが圧倒的に多い。はっきりいってしまえば、大衆のなかに、弁護士にお金を投入する用意も、意識も、高く見積もれる話はない。だからこその、法テラスによる「民業圧迫」状態であるともいえます。
では、どうなるのか。ネット上の掲示板の、市民に向けられた書き込みが、端的に示しています。
「法テラスは、通常の弁護士費用を用意できない人のために、分割払いで、かつ通常の弁護士に費用に比べて格段に安い費用(大抵、赤字になる費用)で弁護士に依頼できるシステムです。法テラスを使って弁護士に依頼する以上、普通の依頼者と同等の立場であれこれ質問したり 仕事をしてもらえる等と思うのはおこがましいことです。ある程度後回しにされるのも覚悟すべきです。値段相応以上のサービスを求めるのは、自分を特別扱いしろと要求するようなものです」
「そもそも、扶助による弁護士費用は通常よりもはるかに低く、まじめにやれば赤字になるような仕事です。そして、なぜそのような安い弁護士費用で依頼を受けるのか、考えてみてください。本当に有能で他の弁護士に比べて結果に差をもたらすような弁護士であれば、お客さんに困ることはないので高額な弁護士費用をとれるし、それでも、特別なツテがなければ依頼できないくらいです。反面、法テラスのような安い弁護士費用で依頼を受けるということは、他にいい仕事を確保できておらず、高額な弁護士費用を提示できるだけのものがない弁護士だからです(私もそのような弁護士の一人です)。更に、安い弁護士費用で依頼を受ければ、どうしても『薄利多売』になるので、1件に費やせる労力にはおのずと限界があります。このように考えれば、『法テラスで依頼できる弁護士の仕事』というのが、どの程度のものか、おのずと想像できるでしょう」。
もちろん、そんな弁護士ばかりでない、「安かろう悪かろう」的な言い方は必ずしも当てはまらないという反論もあると思います。前記弁護士の本音ととれるものも、「心得違い」と片付けてしまえば、ここでも一生懸命やる弁護士だけが淘汰によって残ると描かれることになるのかもしれません。
ただ、全体として、大量増員された弁護士が、無償性の高いニーズを良質化と低額化を伴ってカバーする話になるのか。そもそも、需要がないのに多数の弁護士が存在する状態のなかでは、弁護士がどのように割り切った対応をしてこざるを得ないのか、どういう弁護士と遭遇することになるのか。それらを市民は本当に理解しているのだろうか――。常に「功」が上回る話と、なにやら社会とって、いい話が待っているような描き方のなかで、そのことが一番不安になるのです。
もちろん、弁護士のなかにも、刑事弁護の報酬の安さなど待遇に関する改善の必要性は認めながらも、「法の支配」や「社会のすみずみ」論を挙げて、法テラスのセーフティネットとしての「功」の方を強調し、「民業圧迫」論に賛同しない方もいます。前記「改革」の理念からすれば、その路線を支持する方が、法テラスの「功」を強調されるのは、むしろ当然であり、もっといってしまえば、国民に対して、「弁護士会をやれないことを実現している」という、とらえ方もあります。
それだけに、ここで「民業圧迫」などといえば、弁護士がまたぞろ「食える食えない」の問題と結びつけて、社会にとって「功」あるものを批判している、といった「心得違い」批判にさらされるだけと、先読みされているような方もいらっしゃるようにお見受けします。
ただ、一方で、弁護士に競争を求める以上、「民業圧迫」に目くじらを立てるななどとはいえないはずです。そして、法テラスが競争相手として参入している状態も、弁護士淘汰の促進であるとするならば、「功」の部分と比較して、社会にとって、その先にも、本当にいい話が待っているかどうかも考えなければなりません。
実は、法テラスのとらえ方として、以前、別の解釈がありました。端的に言えば、法テラスには絶対いかないニーズが沢山あるはず、というものです。そこには、「質」的なサービスの差別化と、利用者の選択という発想も被せられました。それを以前、公立中学と私立中学の「お受験」に喩えている人もいました。喩えとしての適切さはともかく、要はお金を出しても「私立」に入れる人がいる、いわば、「公立」法テラスと「私立」弁護士の共存がこれで成り立つ、と。もちろん、この発想に立てば、より弁護士の開拓努力、サービス向上への士業努力と結び付けやすくなりますので、当然、「民業圧迫」を弁護士が引き合いに出しにくくなります。
ところが、現実的には、「私立」の「お受験」が、そんなにあるわけではない。社会には、「公立」に期待する、いわば無償性の高いニーズ、弁護士からすれば、採算性の低いニーズが圧倒的に多い。はっきりいってしまえば、大衆のなかに、弁護士にお金を投入する用意も、意識も、高く見積もれる話はない。だからこその、法テラスによる「民業圧迫」状態であるともいえます。
では、どうなるのか。ネット上の掲示板の、市民に向けられた書き込みが、端的に示しています。
「法テラスは、通常の弁護士費用を用意できない人のために、分割払いで、かつ通常の弁護士に費用に比べて格段に安い費用(大抵、赤字になる費用)で弁護士に依頼できるシステムです。法テラスを使って弁護士に依頼する以上、普通の依頼者と同等の立場であれこれ質問したり 仕事をしてもらえる等と思うのはおこがましいことです。ある程度後回しにされるのも覚悟すべきです。値段相応以上のサービスを求めるのは、自分を特別扱いしろと要求するようなものです」
「そもそも、扶助による弁護士費用は通常よりもはるかに低く、まじめにやれば赤字になるような仕事です。そして、なぜそのような安い弁護士費用で依頼を受けるのか、考えてみてください。本当に有能で他の弁護士に比べて結果に差をもたらすような弁護士であれば、お客さんに困ることはないので高額な弁護士費用をとれるし、それでも、特別なツテがなければ依頼できないくらいです。反面、法テラスのような安い弁護士費用で依頼を受けるということは、他にいい仕事を確保できておらず、高額な弁護士費用を提示できるだけのものがない弁護士だからです(私もそのような弁護士の一人です)。更に、安い弁護士費用で依頼を受ければ、どうしても『薄利多売』になるので、1件に費やせる労力にはおのずと限界があります。このように考えれば、『法テラスで依頼できる弁護士の仕事』というのが、どの程度のものか、おのずと想像できるでしょう」。
もちろん、そんな弁護士ばかりでない、「安かろう悪かろう」的な言い方は必ずしも当てはまらないという反論もあると思います。前記弁護士の本音ととれるものも、「心得違い」と片付けてしまえば、ここでも一生懸命やる弁護士だけが淘汰によって残ると描かれることになるのかもしれません。
ただ、全体として、大量増員された弁護士が、無償性の高いニーズを良質化と低額化を伴ってカバーする話になるのか。そもそも、需要がないのに多数の弁護士が存在する状態のなかでは、弁護士がどのように割り切った対応をしてこざるを得ないのか、どういう弁護士と遭遇することになるのか。それらを市民は本当に理解しているのだろうか――。常に「功」が上回る話と、なにやら社会とって、いい話が待っているような描き方のなかで、そのことが一番不安になるのです。



