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【東京パラ】 ある難民選手の物語 シリア内戦で片脚失い、ギリシャで路上生活

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ニック・ホープ、パラリンピック・ライター&ブロードキャスター

イブラヒム・アル・フセインさんが意識を取り戻した時、辺りは暗かった。身動きが取れず、ほこりに満ちた空気の中で、近くでちらつくわずかな炎だけが見えた。息をするのも苦しかった。

耳をつんざくような甲高い音のあと、そばで誰かが弱々しく声を上げているのが聞こえた。そして自分の脚だ。何かがおかしかった。足の感覚がなくなっていた。

「その瞬間、私は死んでいるのか生きているのか、わかりませんでした」とアル・フセインさんは振り返る。

直前に、近所の屋根にいた狙撃手に友人が撃たれ、その友人を守るため、地面に体を投げ出していた。2012年、シリア内戦は2年目に入っていた。

彼の家族はすでに、ユーフラテス川沿いの都市デリゾールの自宅から避難していた。だがアル・フセインさんは、とどまらざるを得ないと感じていた。当時23歳。もし捕まったら政府軍に入隊させられ、拒否すれば死が待っていることはほぼ確実だった。

日々の暮らしは精神的にきつかった。大好きだったもののほとんどが爆撃で破壊され、水や電気は途絶えていた。食料の供給も市内に届かなくなっていた。

残った人たちの間には兄弟愛の精神が生まれた。「墓場に閉じ込められた」ように感じることもあったが、地域の結束は続いた。互いのために死ぬ覚悟はあったが、その必要が生じないことを願っていた。

「煙が消え、みんなが私のほうにやって来るのがわかりました」と、アル・フセインさんは思い起こす。「みんな、戦車の砲弾が爆発したのを聞き、私を安全な場所へと移動してくれました」。

アル・フセインさんの右脚下部は吹き飛ばされた。鼻と頬と腕には、砲弾の金属片がめり込んだ。友人を守ろうと飛び込んだほんの数メートル先に、砲弾は落下していた。友人は助かった。

すべての公共サービスが止まり、歯科医がテント内に医療所を急ごしらえした。歯科医はそこで傷口を洗い、できる範囲で痛み止めの処置をした。

しかし、休んでいる時間も、そこで回復する可能性も無かった。自分の命を救うために必要な脚の治療は、シリアでは受けられないとわかっていた。

彼と友人ら数人は脱出計画を立てた。北に向かい、川を越え、隣国トルコを目指すものだった。

「シリア軍がパトロールし、トルコも軍部隊を出すとわかっていたので、夜間に動く必要がありました」と、彼は振り返る。「小型ボートが気づかれずに進むことを願っていました」。

一緒に脱出した人たちの助けを借りて、アル・フセインさんはトルコ南部で3つの都市を移動した。必要な支援を懸命に探し求めた。

多くの場所で、傷口にきれいな包帯を巻くことはできた。しかし抗生物質は不足。代金を支払えない時は、特に入手が難しかった。

「トルコでの治療は全然よくなかった」と、アル・フセインさんは話す。

「ある病院で義足をもらったのですが、100メートルごとにねじが外れて路上に落ちるので、道具を持ち歩かないといけませんでした」

「着けると痛く、感染症もさらに広がりました。金属素材が皮膚を破り、骨に当たっていました」

イスタンブールにいた彼は、よりよい環境を求め、国境を越えると決めた。だが、うまく行かずに失望し、焦りを募らせた。

「ヨーロッパが唯一の選択肢なのはわかっていました」と彼は言う。「イスタンブールの南のイズミルには密航業者がいるので、そこに戻るのがいいと、みんなに言われました」。

「密航業者を探して広場から広場へと回り、交渉するのは恐ろしい経験でした」

2014年2月27日、アル・フセインさんは小型ボートに乗り込んだ。短くも危険な距離を無事航行し、ギリシャのサモス島に到達できることを願った。

毎年、平均8000人以上がたどり着く。ただ、それよりずっと多くの人が出航し、到達できていない。アル・フセインさんも、そのことは知っていた。

「他の渡航者たちの顔には恐怖が浮かんでいました。でも私は2012年に負傷して以来、死の淵をさまよってきましたし、途中で海に沈んだら素早く死ねると考えていました」と彼は言う。

「確かに恐ろしくはありましたが、『緊急モード』に入っていました。治療とよりよい生活を手に入れるのに懸命でした。到達できれば、未来は明るくなるとわかっていました」

アル・フセインさんは同行者たちと共に、サモス島にたどり着いた。まもなく警察に捕らえられ、難民キャンプに収容された。その日は人生で「最高の日」だったと、彼は笑顔で述べる。

ギリシャでは6カ月間の滞在が認められ、アテネを目指した。

「お金はありませんでしたが、私が半分車いす、半分つえを使って歩いているのを、みんなが見ていました」と、彼は話す。「私に同情し、フェリーのチケットを買ってくれました」。

一緒に移動していた人たちも資金は乏しく、首都に着いてからは、それ以上アル・フセインさんを支援するのは無理だった。みんなはヨーロッパのさらに北を目指したが、彼はとどまった。

「そのころが本当に大変でした」と、彼は思い起こす。「お金はなく、ギリシャ語も話せなかった。警察に追い回されない路上の場所で生活し、寝起きせざるを得ませんでした」。

「食べ物がなく、木になっている果物を探し、公園の草を食べた夜もありました」

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公園の1つで偶然、シリア出身の男性と出会った。20年前に国を去っていた彼は、アル・フセインさんにその夜の寝場所を提供。医師アンゲロス・クロノプロスさんと面会する手はずを整えてくれた。手足切断の治療が専門の医師だった。

「先生は私が車いすに乗っているのを見ると、あり得ない状態だと言いました」と、アル・フセインさんは振り返る。

「先生は自費で1万2000ユーロ(約155万円)以上出して、木製の義足と、つえを使わずに歩くための理学療法、感染症治療の薬の代金を負担してくれました。あらゆることをしてくれました。とても幸せでした」

ギリシャ語をしゃべれなかったアル・フセインさんは、唯一できる仕事に就いた。近くのカフェのトイレ掃除だ。毎日、長時間のシフト勤務を休憩なしでこなした。自立した生活を送っていることを誇らしく思った。

「お金を稼ぎ、食べ物を買い、家賃を払い、自宅の装飾品を手に入れることができました」と彼は言う。

「でも何かが足りなかった。スポーツです」

アル・フセインさんが水泳をするようになったのは、アジア王者に2度なった父親に連れられ、プールに行ったのがきっかけだった。子ども時代は父親の指導を受けた。ただ、「厳しい」やり方が嫌で、柔道のほうが好きだった。

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