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インバウンド需要は、なぜ日本の対中脆弱性を高めるのか――安倍政権の安保政策を振り返る(4)- 山﨑周 / 国際政治学、中国の外交・安全保障政策

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はじめに

中国がらみの安全保障問題というと、日中関係の文脈では尖閣諸島の話がすぐに思い浮かぶ。しかし、じつは経済的な問題、とくにインバウンド需要も、日本の対中脆弱性を著しく高める安全保障上の課題だ。

外国人観光客を対象としたインバウンド需要の活性化や、外国人労働者の受け入れ拡大が象徴する通り、中国を主とした他国への人的依存が急速に深まるようになってきた。また、2020年に入ってからの新型コロナウイルス感染拡大は、観光業界を主に、中国人観光客の来日を見込んだインバウンド需要が、非常事態や有事に際して最初に商業的な打撃を受けることを露呈させた。

以下で論じるように、第2次安倍政権下で進行した日本の経済および社会面での中国を含めた他国への人的依存は、日本の中国に対する脆弱性を事実上高めることにつながった。インバウンド需要がその代表例だが、日中関係の安定を前提とする政策は、両国関係が悪化した際に、中国側の潜在的な外交圧力手段を強化する副作用を生み出した。

新型コロナウイルスの感染拡大によって、日本は中国による経済的な圧力を疑似的に体験しているといえる。後述のように、新型コロナウイルスは、もし中国が日本への人流を恣意的に停止した場合の経済や社会面での打撃を再現しており、実際にそのようなシナリオが現実化する可能性についての教訓をもたらしているのだ。

第2次安倍政権下の日中関係と経済安全保障の浮上

日本の一部には、経済的な相互依存や協力を深めれば日中関係は良くなるという考えが以前から根強く存在してきた【注1】。だが、そのような通念が正確であるとはいいがたい。なぜならば、経済的な関係性が深まってきたのと同時に、尖閣諸島や歴史認識問題などのために日中関係が冷却化してきた経緯があるからだ。もし日中間での経済的な相互依存が両国関係を安定させるのであれば、そもそも外交や軍事面での対立は緩和されるはずである。こうした現実を前に、近年では日中間での貿易や投資分野などにおける相互依存が両国関係の安定に必ずしも直結しないことが指摘されている【注2】。

安倍政権の対中政策を簡潔に振り返ると、2012年の政権発足当初、日中関係は最悪ともいえる状態にあり、同政権は対中関係の立て直しという難題に迫られていた。その状況下、2014年11月の日中間での4項目合意【注3】ならびにその直後の首脳会談は関係改善に向けての第一歩となる。また、2017年6月の安倍首相による「一帯一路」構想への協力の意思表明は、経済分野を軸とした日中関係の改善を後押しするきっかけとなった。

その一方、中国による海洋進出や尖閣諸島問題もあって、日本は米国やその他の国々との連携を通じて中国の軍事活動を抑制するための政策も実施してきた。経済面では相互の協力を進展させつつも、安全保障面では競合するという日中関係の2つの側面が明確になったのである【注4】。

このように中国と向き合うアプローチの産物として、安倍政権時代には経済安全保障が大きく注目されるようになった。その象徴は、米中対立の先鋭化に伴って知られるようになった、「経済的な手段を用いて地政学的な国益を追求する」ためのエコノミック・ステイトクラフト(economic statecraft)と呼ばれる対外政策だ【注5】。

とりわけ、中国が他国の企業や研究機関から最先端技術を盗み出すだけではなく、それらの組織への研究資金の提供や人材の引き抜きなどの手段によって自国の優位性を高めようとしてきたことから、米中対立の経済安全保障面におけるキーワードとしてエコノミック・ステイトクラフトの概念が知られるようになった。

米国と同盟関係にある日本の場合、安全保障分野に関わる情報や技術を中国が組織的に窃取するだけではなく、同国の資本等による自衛隊や在日米軍基地近辺の不動産取得への警戒心から、中国によるエコノミック・ステイトクラフトが経済安全保障上対処すべき問題として浮かび上がった【注6】。

既述の通り、日本では第2次安倍政権時代に経済安全保障の重要性が幅広く認識されるようになった一方、中国においても、それと同じ時期に同様の動きがみられた。すなわち、習近平政権も、経済安全保障(「経済安全」)を国家安全保障政策の一環として重視し始め、経済成長、社会の安定性、食糧安全保障、金融、貿易など経済分野にまつわる多種多様の問題を中国の安全保障上の課題として取り上げるようになったのだ【注7】。

中国の対外的な影響力としてのアウトバウンド需要

ちょうど第2次安倍政権と重なる時期(2012年~2020年)から、中国が経済分野での自らの影響力を他国政府に対して行使する事例が散見されるようになる。とくに、他国との間で外交問題が生じた際や自国の安全保障が脅かされたと感知した際などに、中国が当該国に対して経済的な圧力をかける行動に出ることが、2010年代前半になってから広く関心を集めるようになった【注8】。

ここで焦点を当てたいのが、他国との間で外交的な軋轢が生じた際、中国人観光客を対象としたインバウンド需要を当てにするその相手国に対して、中国政府が意図的に自国民の渡航を止める対抗措置に出るようになったことである。

2012年、観光客の送り出し側としての中国のアウトバンド需要市場は、金額および人数の両方で米国とドイツを抜いて最大となり、その後も海外に旅行目的で渡航する中国人観光客は増え続けた。また、習近平は、自国民の海外旅行を推奨する姿勢を強く打ち出すようになった初の中国の最高指導者であり、習自らが推進してきた「一帯一路」構想の関係諸国を訪れる中国人旅行客の数も増大してきた【注9】。2013年4月のボアオ・アジア・フォーラムでの基調講演において、習近平が今後5年で中国から海外に赴く観光客の数が4億人を超える可能性に触れていたように【注10】、少なくともこの当時から、中国が自国のアウトバウンド需要の将来的な伸長を予期していたことが分かる。

中国の巨大なアウトバウンド需要は、同国にとってただ単に経済的な意味合いをもつだけではなく、自らのエコノミック・ステイトクラフトの方策として活用できる資源でもある。中国人が海外旅行先として訪れることができる訪問地は、中国政府との交渉を経て合意に至った観光目的対象(ADS)と呼ばれる他国や地域に限定されている。ADSを渡航先として取り扱う旅行会社は当局の管理下に置かれていることから、中国政府が自国民の海外旅行の状況を監視することも理論上不可能ではない。

また、中国は、ADSの地位を欲する相手国との交渉において、自国の戦略的な目標を達することを重んじてきた。ADSの地位の取り下げやADSの締結を呼びかけるといった硬軟の姿勢を使い分けることにより、中国が自国のアウトバウンド需要を他国に対する懐柔あるいは脅迫の手段として用いることが可能となる構造が築かれてきた【注11】。

実際に、2010年代になると、自国の意向にそぐわない政策を実施する他国への自国民の渡航を躊躇させる雰囲気を国内で醸し出すことによって、インバウンド需要を欲する相手国を中国政府が罰するかのような出来事が起きるようになった。たとえば、日本、韓国、台湾、フィリピン、豪州との関係で不満を抱いた際、中国当局が旅行目的での渡航を実質的に制限する措置を国内でとると、それらの目的地への中国人観光客や航空会社の渡航便の数が減る傾向が際立つようになった。

中国当局は、国内の旅行会社に対し、それらの渡航先に観光客を訪問させないように先導しただけではなく、自国民向けには渡航先の危険性に関する情報伝達や愛国心に訴えかけるといった方法を使い、団体および個人での海外旅行を実質的に制限する措置を実行したのであった【12】。

このように、日本は、すでに中国人観光客の事実上の渡航制限によって、インバウンド需要が落ち込む経験をしている。2012年9月に当時の日本政府が尖閣諸島の購入を決定した後、中国当局は日本への旅行を自国民に自粛させることを促すかのような対応を見せた。実際に中国から日本への観光客が一時的に減少している【注13】。

中国がもっとも露骨な圧力をかけたといえる事例が韓国である。2016年7月に韓国政府が在韓米軍へのターミナル段階高高度地域防衛システム(THAAD)の配備を決定すると、中国は報復措置を外交および経済の分野で実施した。その格好の標的となったのが、韓国のインバウンド観光政策関連の分野であった。

2016年に訪韓した外国人観光客の中で、中国人は最多の47%であり、免税店での消費額も中国人観光客によるものが70%を占めていた。中国当局が自国民の韓国への旅行などを事実上規制するかのような措置を国内で行うと、実際に韓国を訪れる中国人観光客は激減した。中国人観光客激減の影響は韓国の観光業界だけではなく、その関連業界へも広がり、150億米国ドル以上(為替レートにもよるが日本円にして1兆円を優に超える額)もの経済的損失に加え、失業者数は40万人にも上ったとの試算もなされた程であった【注14】。以上の通り、中国に依存したインバウンド政策を推し進めてきた韓国の観光業界は、THAAD問題後に非常に大きな経済的な損害を受けた。

この韓国の事例が示すように、2010年代以降、中国が他国に対して経済的な圧力をかける事例が目立つようになった。中国人観光客による活発な消費活動を期待する他国のインバウンド需要につけ込むかのようなかたちで、中国側は自国のアウトバウンド需要をエコノミック・ステイトクラフトの一部として戦術的に利用するようになったのだ。

THAAD配備決定後に中国が韓国に対していかなる対応をとったのかを分析した米連邦議会の米中経済安全保障再検討委員会による報告書は、興味深い点を指摘している。それは、今後も中国が韓国に対して行ったものと同様の経済的な圧力を他国に対してかける可能性である【注15】。そして、そのような措置は、中国と経済的な結びつきが深いアジア太平洋地域の国に対してなされることになろうと示唆している【注16】。

インバウンド需要を中心とした対中人的依存を深めた日本

先述の通り、2012年に日本政府が尖閣諸島の3島を購入すると、その翌2013年の訪日中国人観光客の数は一時的に減る。だが、2014年以降は右肩上がりで増加していき、2019年にはその数が900万人を超え、じつに1000万人近くにまで達した。また、この頃には、日本を訪れる中国人観光客による「爆買い」で知られる旺盛な消費行動がメディアなどを通じて注目を集めるようになったことも記憶に新しい。

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