記事

社会適応や役割が嘘や自己否定になってしまう人の世界と、そうでない人の世界(のわかりあえなさ)

1/2
ta-nishi.hatenablog.com  
 
リンク先の文章には、弱者男性論者は社会適応に対してあまりにも潔癖すぎる、といったタイトルになっている。が、タイトルどおりの内容ではなく、
 
・筆者自身の社会適応に対する潔癖性の話
・過去の脱オタクファッション (略して脱オタ) の話
・過去の脱オタと最近のいわゆる恋愛工学の近しさの話、それと就活の話
 
が混じっている。議論としてはゴチャゴチャしているが、個人ブログの述懐としては良さがあって、こういう文章が読めるのが個人ブログだったよね、などと思った。
 
釣られて私も個人ブログっぽい述懐をしようと思う。脱オタが語られていた頃に感じていた小さな違和感を出発点として。

脱オタする人は何を望み、非モテ論者は何を怖れていたのか


90年代後半から00年代にかけて、脱オタなるものがネットの小さなムーブメントになったことがあった。脱オタについて詳しく知らなくても、ドラマ『電車男』がヒットした頃に売られていた、『脱オタクファッションガイド』という本なら知っているって人もいるんじゃないだろうか。
 


脱オタクファッションガイド

  • 作者:久世,トレンド・プロ
  • 発売日: 2005/10/26
  • メディア: 単行本
 





当時、脱オタについて語った人にもいろいろいて、「オタクな趣味もやめるべき」という人もいれば「オタクな趣味を続けたって構わない」という人もいた。異性にモテたがる人もいれば、とりあえずコミュニケーションの助けにしたい人もいた。とはいえ、「外観を整えることで社会適応の助けにする」という点では全員が共通していたと思う。
 
逆に言うと、「外観を整える」という手段をとおしてゴールしたいゴールは各人各様だったともいえる。たとえば私の旧サイトには「脱オタ事例検討」というページがあるけれども、ここに挙がっている2004~2008年の事例ひとつひとつを振り返っても、期待されるゴールがまちまちだったとみてとれる。
 
こうしたゴールの相違は、私自身も感じていた。たとえば当時、脱オタに過大な期待を寄せている人が結構いた。でもって興味深いのは、脱オタを実践している人だけでなく、脱オタを批判している非モテ論者にも脱オタに過大な期待を(というより過大な怖れを?)抱いている人がたくさんいたことだ。
 
外観を整えれば、確かに社会適応の足しになる。でも、それが社会適応を根幹から変えてしまうわけではないし、モテるほどの大きな変化をもたらしてくれるわけでもない。ところが脱オタを実践する人のなかには、そういう大きすぎる期待を胸に脱オタに臨む人が案外いたのである。
 
と同時に、脱オタを批判する非モテ論者の人たちも、外観を整えることがあたかも自己否定であるかのように、それこそ冒頭リンク先の人が「悪」と述べたのと同じ調子で脱オタを批判していた。
 
脱オタに大きすぎる期待を寄せる人も、脱オタを自己否定と批判する人も、本当はよく似た者同士だったのではないだろうか。
 
外観を整えればモテに生まれ変わると思い過ぎるのと、外観を整えれば自己否定になってしまうと思い過ぎるのは、「たかが外観を整える程度のこと」を過大評価している点では共通している。前者は、外観を整えるということを肯定的に過大評価しているし、後者は、外観を整えるということを否定的にやはり過大評価しているわけで。
 
脱オタが流行した頃には、外観を整えるために服を買い揃えていたはずが、気が付けばファッションオタクになってしまう人もいた。それこそ、2chのファッション板の脱オタスレッドではそういった書き込みを見かけたものだ。当時の私はそこに違和感をおぼえて「脱オタといっても最低限のTPOにすぎない」と述べたりもしていたけれど、ファッションオタクになっていく人の耳には届かなかっただろう。
 
当時は十分に意識できていなかったけれども、2021年から振り返ってみれば、ファッションオタクになった人が欲しかったものが何だったのか、わかる気がする。彼らもまた、脱オタに大きすぎる期待を寄せていたのだろう。
 
脱オタをとおして大きすぎる期待を現実化する方法は幾つもあるが、そのひとつに、他人よりはっきりと優越したファッションを身に付けることでナルシシズムを充たすというものがある。ファッションオタクになれば、実際にはモテなくても高価なブランド品が自分自身にうぬぼれを許してくれる。または、自己改造が叶ったという体裁を授けてくれる。
 
が、しかし「たかが外観を整える程度のこと」で過大な期待を満足させるためには、ファッションだけで優越感を充たせるほどの過度なファッションに到達せざるを得ない、ともいえるわけだ。当然だろう。モテる/モテないや、コミュニケーションがうまくなる/うまくならないが、外観、とりわけ服飾だけで決まるわけがないのだから。
 
「たかが外観を整える程度のこと」が自己否定に繋がってしまう非モテの人も、外観を整えるということをたぶん過大評価していた。過大評価でないとしたら、外観を整えただけで自己否定されてしまうほどに自己像が脆弱だったか、自己像が移ろいやすかった、というべきか。さもなくば、外観を整える程度のことがあまりにも大きな自己改造や自己欺瞞とうつったのか。
 

役割を演じることが「悪」になるということ

 
ここまで読んだうえで、冒頭リンク先で述べられている以下のフレーズを読んでいただきたい。 

私にとっての「脱オタ」は、喩えるなら就活のようなものだった。就活では誰も「ありのままの自分」で勝負などしようとはしない。経歴を盛れるだけ盛り、時には詐称までし、自分がいかに企業にとって魅力的な「商品」なのか「偽りの自分」を作り出してアピールする。潔癖な人間ほどこの行為を「悪」と感じるだろう。くだらない茶番であり、騙し合いだと感じるだろう。しかしこの「悪」に染まらなくては、就活という戦争を勝ち抜くことはできないのだ。

https://ta-nishi.hatenablog.com/entry/2021/05/05/155031

私にとって脱オタとは「たかが外観を整える程度のこと」であり、ひいてはもっとコミュニケーションできるようになっていくことだったが、リンク先の筆者にとってはそうではなかった。"経歴を盛れるだけ盛り、時には詐称までし、偽りの自分を作り出してアピールするもの"だったそうだ。これは、脱オタ=自己否定とみなしていた00年代の非モテの考え方によく似ている。筆者は文中で「非モテからの脱却に成功した」と綴っているが、外観を整えることが嘘になり、自己否定になってしまうというそのありよう・その考え方は、非モテからの脱却に成功したというには00年代の非モテの考えに似すぎている。
 
就活についての考え方もそうだ。
 
就活が「ありのままの自分」をさらけ出せる場所ではなく、企業が求める役割を演じてみせなければならない、一種の茶番であると言われたら確かにそのとおりだ。就活に疎外がないとは、到底言い切れない。だが、それは「悪」というほど「悪」だろうか。そして役割を演じてみせる就活生が全員、詐称といっていいほど自己否定しなければ役割を演じられないものなのだろうか。
 
私なら違う、と思う。
たとえば外観を整えることには、社会規範やファッションのコードに従わなければならない側面があるが、それらをとおして可能な自己主張、それらをとおして楽しむ自己主張もあるのではないか。あたかも俳句や短歌やライトノベルの様式に従うからといって自己主張が不可能ではない(というより規範やコードをとおして自己主張する面白みすらある)のと同じように。同じく就活や入試面接に際しても、たとえそれが茶番だったとしても、茶番のなかでどう自己主張するのか、期待される役割のなかで自分自身をどう出していくのか工夫している人も多かったのではないだろうか。
 
このように考え、述べる私のことを「潔癖ではない」「汚れた大人」とみる人もいるに違いない。ところが私は高校生ぐらいからこのような私だったのですよ。さしずめ私は、汚れた大人になる前から汚れた青少年だった、となるだろうか。
 
しかしそんな私なので、脱オタが自己否定にも自己欺瞞にもならない。入試面接も嘘にはならなかった。もちろんそれらには疎外がないわけではないけれども、だからといって、それらが完全に疎外でしかないなどということはない。自分を偽っているという印象は皆無だ。私はどんな役割を演じる時も、結局、私として役割を演じる。何を演じようがどんな規範やコードに従おうが、結局そこには私の人格、私の筆跡が宿っている。
 
と同時に、リンク先の筆者に比べると私は嘘と本当の境目がくっきりとしない世界を生きていて、悪と善がくっきりしない世界を生きている。私と同じく、くっきりしない世界を生きている人は世の中に少なくないと思う。もちろんリンク先の筆者にように、くっきりした世界を生きている人もたくさんいるのだが。昔、『新世紀エヴァンゲリオン』のなかで赤木リツコは、
 
「潔癖症はね、つらいわよ。人の間で生きていくのが。」
 
と言ったが、実際そうなのだろうと思う。なぜなら人間世界に完全な嘘と本当はあまりなく、完全な悪と善もあまりないからだ。演じることと自己表現することの境目も、実のところあいまいだ。その、あいまいさに適応することを嘘と断じ、悪と断じることが許されるなら、現代社会に限らず過去と未来のすべての人間社会が嘘と悪であり、大半の人間もまた嘘と悪であろう。
 
余談だが、この視点を突き詰めていくともう一つの疑問が不可避になる。この視点で本当とみなされ、善とみなされる「ありのままの自分」とはいったいなんなのか? 人はよく、ありのままの自分が認められると嬉しくて、ペルソナをかぶった自分が認められても嬉しくないと言ったりするが、ありのままの自分とペルソナをかぶった自分はどこまで峻別できるものなのだろうか。もし峻別できるとして、ありのままの自分が出せている状態とは、いったいどこにどれだけあるのだろうか。
 
人間は、いついかなる時も社会性や通念や装いを備えているものだから、私には、「ありのままの自分」を純粋に出せている瞬間とは、全裸で大通りを駆け抜けたい衝動に駆られた人が実際そのとおりにする瞬間ぐらいしか思いつかない。「それは極論だ、たとえば親しい人とプライベートで語り合っている時にはありのままの自分が出せている」と反論するなら、だったらあなたのいう「ありのままの自分」とは程度問題でしかないのですねと指摘するしかない。なぜなら人間は、親しい人とプライベートで語り合っている時もある程度までは社会規範や通念や装いに則って語り、行動しているものだからだ*1

あわせて読みたい

「オタク」の記事一覧へ

トピックス

  1. 一覧を見る

ランキング

  1. 1

    元プロ野球選手・上原浩治氏の容姿に言及 コラム記事掲載のJ-CASTが本人に謝罪

    BLOGOS しらべる部

    06月17日 13:12

  2. 2

    菅首相のG7「はじめてのおつかい」状態を笑えない - ダースレイダー

    幻冬舎plus

    06月17日 08:40

  3. 3

    山尾志桜里衆院議員が政界引退を表明「今回の任期を政治家としての一区切りとしたい」

    ABEMA TIMES

    06月17日 16:55

  4. 4

    ほとんどの人が「延長は仕方ない」イギリスでロックダウン解除延期、なぜ感染再拡大?

    ABEMA TIMES

    06月17日 22:31

  5. 5

    知っているようで知らない、チョコレートの真実 - 多賀一晃 (生活家電.com主宰)

    WEDGE Infinity

    06月17日 14:56

  6. 6

    「日本の将来はよくなる」と思う18歳は9.6% 若者から夢や希望を奪う大人たち

    笹川陽平

    06月17日 09:19

  7. 7

    山尾志桜里氏「今回の任期を政治家としての一区切りにしたい」

    山尾志桜里

    06月17日 15:40

  8. 8

    維新は、野党第一党の座を争うためには候補者の数が少な過ぎませんかね

    早川忠孝

    06月17日 15:33

  9. 9

    低調な通常国会、閉幕へ。生産性を上げるためには野党第一党の交代が必要不可欠

    音喜多 駿(参議院議員 / 東京都選挙区)

    06月17日 10:00

  10. 10

    「確率論から考えれば、若者に自粛を強いるのはおかしい」厚労省の元医系技官が批判

    ABEMA TIMES

    06月17日 19:20

ログイン

ログインするアカウントをお選びください。
以下のいずれかのアカウントでBLOGOSにログインすることができます。

コメントを書き込むには FacebookID、TwitterID のいずれかで認証を行う必要があります。

※livedoorIDでログインした場合、ご利用できるのはフォロー機能、マイページ機能、支持するボタンのみとなります。