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あらためて死刑廃止論ずべき(下)「墓石安全論」を排す 最終回

イメージ 出典:oscar h/Pixabay

林信吾(作家・ジャーナリスト)

【まとめ】

・和歌山毒物カレー事件は物証なし。曖昧証言で死刑にすべきでない。

・ユダヤ人虐殺は死刑制度の乱用。欧州各国は反省し、死刑制度を廃した。

・「死刑冤罪」相次ぐと法の支配への信頼が揺らぐ。この一点で死刑廃止論は優越する。

和歌山毒物カレー事件の犯人とされた主婦は、すでに広く知られる通り死刑判決が確定しており、この原稿を書いている2021年4月の段階では、再審請求中ながら死刑囚として大阪拘置所に収監されたままである。

私が本件について、死刑にすべきではない案件だと述べたのは、当人が犯行を否認し続けているのみならず、物証がなにひとつないからである。

もちろん、死刑判決を受けた側の言い分を鵜呑みにしているわけではない。むしろ、当人が捜査段階で語ったとされる、

「そんな1円にもならないこと、しますかいな」

という弁明は、いささか説得力に欠けるとさえ私は思う。

シリーズの最初に取り上げた、秋葉原連続殺傷事件とて「1円にもならない犯行」であったと言えばその通りであるし、第三者には理解を絶するような動機でもって犯罪に走る人間は(遺憾なことではあるが事実問題として)結構いるものだ。

裁判でも、この点は繰り返し問題となったのだが、最高裁判決(2009年5月18日付)において、

「動機が解明されていないことは、被告が犯人であるとの認定を左右するものではない」

「鑑定結果や状況証拠から、被告が犯人であることは証明された」

として、一審(2002年12月11日・和歌山地裁)および控訴審(2005年6月28日・大阪高裁)が下した死刑判決を支持している。早い話が、

「なんのために人を殺したのかは分からないが、被告が犯人であることは証拠上明らかだ」

というわけだ。

そうであれば、その証拠が本当に信ずるに足るものかどうかだが、なんと「鑑定結果」が変遷している。当初は「カレーに混入していたヒ素と、容疑者(当時)の自宅から見つかったそれは同一のもの」とされ、その通り報じられた。

しかしながら弁護側が再調査した結果、そもそも具体的な鑑定依頼の内容は、

「この二種類のヒ素が、同じ生産拠点で作られ、同じルートで輸入されたものかどうか」

を確かめてほしいというものであったことと、二種類のヒ素については「同一のものであったとしても矛盾しない」という以上のものではないことが明らかとなった。後には京都大学の研究者らによって、この検定結果自体、批判されている。

そうなると残るは状況証拠のみで、これで有罪判決が下されること自体、ひどい話だと言わざるを得ないが、そもそも近隣住民の証言くらいしか「証拠」がない。当日カレーを作る当番の中に被告がいて、およそ20分間カレー鍋の側に一人でいる時間があった、というものだが、これも弁護側の反論によって、かなり疑わしいものとなっている。

彼女が紙コップを手にカレーを調理したガレージに入って行くのを見た、という目撃証言もあったが、これは当時16歳の定時制高校生によるもので、公判中、当人が傷害事件を起こして逮捕されたことから、この「最重要目撃証人」の喚問は見送られたという。

ちなみに、現場近くのゴミ箱から見つかった、ヒ素が付着した紙コップは水色、この少年が目撃した紙コップはピンク色であった。

このように、あいまいな目撃証言だけで、死刑の判決を下してよいものかどうか

もしも冤罪だとすれば、真犯人がいることになるが、これについては、当時未成年だった被告の親族が真犯人で、被告はその親族をかばっているのではないか、と見る向きもあるようだ。ただしこれは、よくある「ネットの噂」の域を出るものではないので、ここで掘り下げて論じることはしない。ただ、こうした噂があるということでもって、私が冤罪を訴えている主婦の姓名を伏せている理由もお分かりいただけよう。

ネット時代にこのような配慮は、さして意味のあることとも思えないが、それでもなお、ひとつ指摘しておきたいのは、被告の子供たちのことである。両親が収監され、親戚も引き取りを拒否したため、児童養護施設に送られたが、凶悪殺人犯の子供だということで、壮絶なイジメに遭ったという。冤罪か否かの議論をここでひとまず置いてでも、子供の人権まで蹂躙されてよいはずはあるまい。身元を伏せて保護するなどの配慮はできなかったのだろうか。

ともあれ私が昔から死刑廃止論者である、最大の理由がこれである。

無実の人間が死刑にされてしまう可能性を完全に排除などできない以上、システムとしての死刑制度それ自体が、あってはならないものとみなされるべきなのだ。

もうひとつ、世界の大勢が死刑を廃止している事の意味を、もう少し深く考えてみてはどうだろうか。

このように述べると、日本には日本の法体系や文化的土壌があるのだから、といった反論を受けがちだ。また、死刑を廃止したら人殺しが増える恐れがある、と考える人も、決して少なくない。世界の大勢と言うが、死刑を存続している国(具体的には米中など)の総人口は世界の過半数ではないか、との反論もあり得よう。

しかし、こういうことも考えていただきたい。

犯罪人引渡条約というものがあるが、日本は今のところ、米国と韓国との間でしか、これを締結できていない。死刑制度を廃止している国の官憲にとっては、死刑制度を維持している日本に殺人容疑者を引き渡すと、間接的に死刑に追いやる可能性ありとして、この条約を結ぶことを躊躇せざるを得ない。そういう事情があるのだ。

現に最近、20年近く前に人を殺し、南アフリカに逃げていた人物が、新型コロナ禍で生活が立ち行かなくなった(!)として日本大使館に出頭してきた。この件では、当人が日本で裁判を受けることを希望している、との理由で移送が実現したのだが、もしもそうでなかったら、かなり面倒なことになっていた可能性が高い。

第二次大戦後にヨーロッパ諸国の多くが死刑廃止に踏み切ったのは、意外に思われるかも知れないが、ナチスによるユダヤ人虐殺に対する反省からである。

▲写真 収容されていた男性、女性、子供から取り外された靴の数々(2004年12月8日撮影 ポーランド・アウシュビッツ強制収容所博物館) 出典:Scott Barbour/Getty Images

虐殺が法理論上どのように理解されるかというと、死刑制度が乱用されたのだ。

ナチスの論理によれば、ユダヤ人は「ドイツ国家の敵」なので、国家が国家の敵を死刑にしてなにが悪い、となる。もちろん死刑制度がむしろ一般的だった当時も、裁判抜きで多くの人を死刑にするなど、本来は認められることではなかった。乱用されたと述べたのは、つまりそうした意味だ。念のため補足しておくと、人道的な立場から死刑廃止を訴える声は19世紀から徐々に高まってきてはいたのだが、第二次大戦後、前述のような経緯で一挙に弾みがついたのである。

よい例が英国で、この国ではかつて、7歳の女の子が放火の罪で処刑されるなど、世界で最も頻繁に死刑判決が出される国であったが、まずは1823年に、反逆罪と殺人罪を除いて死刑判決を下さないことになり(英国は成文憲法を持たない国なので、判例がそのまま法律として機能する)、大戦後、1969年に死刑廃止が議会で可決された。最大の理由は、欧州人権条約を批准するためである。

当時の世論調査によれば、英国民のおよそ80%は死刑存続を望んでいたが、時の政府(保守党ウィルソン政権)は国際的地位の向上を優先させたわけだ。ただし、反英テロが激化しつつあった北アイルランドでは、1998年まで死刑が存続していた。

 その後サッチャー政権時代に死刑復活論議(ロンドンなどでもテロリストの活動が活発化したため)も取り沙汰されたが、結局実現していない。

まだまだ書きつくせない問題ではあるのだが、無実の罪で死刑にされるような人が相次いで出るようだと、法の支配に対する信頼そのものが揺らぎかねない。この一点だけでも死刑廃止論の方が論理的にも倫理的にも優越していると私は考えるのだが、どうだろうか。

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