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本物のノマドが漂流者を演じる…『ノマドランド』に映し出された“真実の瞬間”《アカデミー賞3冠》 - 芝山 幹郎

 第93回アカデミー賞の授賞式が4月25日(現地時間)に開かれ、最有力候補と目されていた『ノマドランド』(クロエ・ジャオ監督)が作品賞・監督賞・主演女優賞の3部門を制覇した。

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 評論家の芝山幹郎氏は、同作の魅力は「フィクションとノンフィクションの境界がゆっくり溶けはじめる瞬間」にあると語っている。それは一体どういうことなのか――。4月26日発売の「週刊文春CINEMA!」より、同氏による『ノマドランド』解説を特別に全文公開する。

◆ ◆ ◆

 1980年代の末、カリフォルニアとネヴァダの州境に近いデスヴァレーを車で走っていて、激しい落雷に遭遇したことがある。

 バッドウォーターとかデヴィルズ・ゴルフコースとか、この一帯には恐ろしげな名の荒地が多い。そんな場所に雷が落ちると、やはり迫力がちがう。谷を囲む山々の峰に、黒ずんだ空を切り裂いて稲妻が走るのだが、その本数は1ダース前後にも達する。

 私は、車のアクセルを踏み込んだ。君子危うきに近寄らずといえば聞こえはよいが、要は臆病風に吹かれ、一刻も早く危険地帯から遠ざかりたかったのだ。

 そのとき、妙な光景が眼の隅をかすめた。幼い少年とその子の父親らしい男が肩を並べて道端に坐り、稲妻の降り注ぐ山巓(さんてん)を指さしているではないか。しかもふたりは、楽しげに言葉を交わしている。

『ノマドランド』 Ⓒ2020 20th Century Studios. All rights reserved.

 なんだ、あれは。私はアクセルから足を浮かして減速し、眼をこすってふたりの姿を見直した。父は子の肩に右手をまわし、ゆったりと顔を上げている。

 怖くないのか。平気なのか。自問したあとで私は気づいた。そうか、これがこの土地の花鳥風月なのか。私がひるんだものを見て、彼らは美や親しみを感じている。『駅馬車』(39)や『ワイルドバンチ』(69)の映像も脳裡に浮かんだ。たしかに、荒野とはアメリカ最高の抒情にちがいない。

『ノマドランド』を見ながら、私はそんな光景を思い出していた。

 ノマド(遊牧民)の生活は、アメリカの伝統だ。80年代にも、モーターホーム(大型のキャンピングカー)に乗ってフリーウェイをゆったり移動する人々の姿は珍しくなかった。

 当然、彼らの車は速度が遅い。うしろについて焦(じ)れていると、運転席の窓から突き出された左手がそよぎ、「先に行け」と合図を送ってくる。ナンバープレートには〈リタイア〉や〈ホーム〉といった文字が、しばしば刻まれていた。知り合いの弁護士などは、「固定資産税が安くなる」と真顔で主張していたものだ。

 だが、『ノマドランド』の主人公ファーン(フランシス・マクドーマンド)のケースは、そんなにのんきではない。60歳を過ぎた彼女は、少し前までネヴァダ州エンパイアにある〈USジプサム〉という石膏採掘場の社宅に夫と暮らし、代用教員の仕事を得ていた。

 2011年、リーマン・ショックのあおりを受けて採掘場が閉鎖された。町の郵便番号は削除され、ファーンの夫は病没した。子供はいない。年金はわずかだ。家を離れようと、彼女は決める。古びたヴァンに最低限の日用品を積み、季節労働者として働きつつ、アメリカ西部を漂流する生活に足を踏み出す。

 きびしいなあ、という感想はすぐさま浮かぶ。人生の午後7時を過ぎて、彼女はなぜ、苛酷な道を選び取らなければならないのか。

 体力は衰えている。経済的な余裕からはほど遠い。家族はいない。それでも彼女は、荒野を移動しつつ車上生活を送る。ネヴァダ、サウスダコタ、ネブラスカ……。ヴァンのステアリングを握り、缶詰のスープを温め、車内のバケツで用を足し、寒さに歯を食いしばって毛布にくるまる。

 孤立、寂寥、貧困といった出来合いの単語は反射的に浮かぶ。が、それでくくれるほど事態は単純ではない。社会学や心理学で裁断できない「人の営み」は、世の中に数多くある。

 監督のクロエ・ジャオは、82年に北京で生まれ、イギリスのブライトンで育ったあと、ニューヨークで映画を学んだ人だ。

 前作『ザ・ライダー』(17)でもそうだったが、彼女の作品には、うしろ姿のショットが多い。たそがれどきの荒野をロングショットでとらえた映像もよく出てくる。『ノマドランド』でも、ファーンのうしろ姿は眼に残る。日没直後の、淡いピンクの光に染め上げられた荒野も印象的だ。

 そんな映像に遭遇すると《うしろすがたのしぐれてゆくか》(種田山頭火)という絵画的な句を思い出す。《せきをしてもひとり》(尾崎放哉)という枯れ木に似た句も呼び起こされる。

 ただ、現代アメリカのノマドであるファーンには、山頭火や放哉よりも骨太の体質が備わっている。寂寞よりも個の強さが際立ち、孤立と渉(わた)り合える自由の匂いが漂う。いわばゴージャスな孤独だ。

 これはなんだろう。私は改めて思った。風土のちがいはもちろん大きいのだが、ファーンは「心の体幹」が並外れて強い。愚痴はこぼさない。強がりはいわない。自分をクールに突き放せる(偶然出会った教え子に「ホームレスじゃなくて、ハウスレスなのよ」と告げる場面がある)。涙を滲ませるシーンも一度きりだ。

 だが、無表情な鋼鉄の女を想像してはいけない。映画の途中、私は気づいた。彼女は、亡くなった夫のことをずっと考えつづけている。嘆きや悲しみはめったに露(あら)わさないが、ごくこまかい感情の変化が、さっと顔をよぎることがある。

 それ以外の場面でも、ファーンはときおり、他者に小さなサインを送る。微笑であれ軽いうなずきであれ、どれもさざなみのように控え目なしぐさだ。

 ジャオも、そこで神経を働かせる。派手な身振りを伴わないファーンのサインに気づく人々を、そっと画面に呼び出すのだ。つまり彼女は、ファーンを「単騎の漂流者」として直立させる一方、他の漂流者たちと穏やかに交流させる。

 たとえばファーンは、アマゾンの配送センターでリンダ・メイというノマドと知り合う。彼女を通じて、RTR(車で漂流する人たちの集会)にも出席するようになる。「息子の自死から逃れられない」ボブ・ウェルズも、「カヤックから見たツバメの巣」について語りつづけるスワンキーも、なぜか記憶に残る人々だ。

 背景は異なっても生活形態を共有する人々は、こうして物資や知恵を交換し合う。タイヤがパンクしたときはどうするか。排泄用のバケツはどのサイズがよいか。GPSはどんなときに必要か。どれも現実的な知恵だ。まだある。身近な家族や友人を失ったときどうすればよいのかという難問についても、彼らは低い声でささやきかわす。

 この交流の場面で、マクドーマンドが光る。

 光る、というのは、芝居が巧いとか、役になり切っているとかいった状態を指すのではない。

 漂流者たちを演じるのは、少数の例外を除いて実際のノマドだ。マクドーマンドはそんな彼らから眼を逸らさず、その話に耳を傾ける。そして辛抱強く待つ。職業的俳優でない彼らが、真実の物語を述べはじめる瞬間の訪れを待つのだ。

 すると、フィクションとノンフィクションの境界がゆっくり溶けはじめる。ジャオも、その瞬間を待っている。せっかちな文明批評には走らず、きびしい荒野とこまやかな感情が結び目を作る瞬間を、大きなハートでとらえようとする。

 そう、この映画は『ノマド』ではなく『ノマドランド』と題されている。不安定だが強靱で、孤独だが自由で、苛烈だが寛容な人々が暮らす土地。アメリカとはもともとそういう土地だったはずだという思いが、ふつふつと湧いてくる。

 アメリカを知りたければ、アメリカで生きている人々を知りたければ、ある深みまで降りていく必要がある。『ノマドランド』は、その地点を明示する。安定という日常から錨を抜き、漂流というもうひとつの日常を通してそこへ到達したジャオとマクドーマンドの勇気に、私は敬意を表したい。

監督:クロエ・ジャオ『ザ・ライダー』(17)、『エターナルズ』(21)。出演:フランシス・マクドーマンド、デヴィッド・ストラザーンほか/配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン/全国公開中/Ⓒ2020 20th Century Studios. All rights reserved.

(芝山 幹郎/週刊文春出版部 週刊文春CINEMA!)

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