50歳まで、あと一週間を切った。
意外なほどに、40代が終わることに何の感慨もないが、50歳になったら、私は堂々と自分を「おばさん」と言えることに安心感を抱いている。
今までだって、おばさんだったけれど、この「おばさん」の定義は、あいまいだ。
20代後半だって、「おばさん」を自称する人はいる。年上の女から見て、「いや、お前、若いだろ」とツッコんでも、本人からしたら「もう若くない、だからおばさん」だ。
私が「おばさんだから」と口にすると、年上の女性たちから「まだ若いよ」とも言われることもある。逆に私も自分より年下の女性たちがおばさんだからなんて言うと、「おばさんちゃうし」と思ってしまう。本気で自分をおばさんなどと思っておらず、「そんなことないよ、まだ若いよ」と言われたいがための自称おばさんもいる。
結局、おばさんて、何歳からという定義がないから、好きに使えてしまうのだ。
完璧なおばさん
でも、さすがに50歳過ぎたら、立派な「おばさん」じゃない? と、思っている。
だから堂々と「私はおばさん」と口にして、おばさんとして生きていける。
30代から40歳ぐらいでも、「女子」に分類されることもある世界で、40代の私は中途半端なおばさんのような気がしていたが、まもなくまごうことなきおばさんになれる。
自虐としてのおばさんではなく、事実としてのおばさんになれることに、ホッとしている。
若い女の苦悩
「若い女」は、世の中で優遇されることも多いけど、それにともないしんどいこともついてくる。常に容姿を采配され、男に妄想を押しつけられ、なめられる。
接客業をしているときは、若い女相手だからと無茶なクレームをぶつけられ、男の社員が現れると態度を変えられることなんてことが、しょっちゅうあった。
どんなに仕事ができても、若い女だからというだけで下に見られる人は、たくさんいる。
なめて馬鹿にするほうは、無意識、ときに好意や「可愛がっている」つもりでそれをやっているから、反省もしない。
若い女が優秀だったり、物を知っているのが許せない男たちはたくさんいて、さまざまな世界で、親切心のつもりの「教えてあげるおじさん」が女に張りつくのも、結局のところなめて馬鹿にしているからだ。
私の場合は、若いけれど容姿が醜かったので、常に劣等感を抱き嫉妬から逃れられず苦しかった。若い女なのに、若い女の恩恵を受けられない自分は居場所がなかったし、同性と対等に会話もできない。露骨に女の容姿で態度を変える男たちに傷つけられるのにずっと脅えて生きていた。
自分がもしも美しく生まれ、若さや容姿を武器にうまく生きられたら、もっと若い女であることを自画自賛しながら享受できたかとも考えたが、それはそれで、価値を持てば持つほど、必ず来る喪失の恐怖を抱いていそうな気もする。そして「いつまでも若いつもりの痛いおばさん」になるかもしれない。
若いときも、若くなくなっても、「ありのままの自分」を愛して生きられる人間には、どうしてもなれそうにない。
逃げ道ができた
もちろん、若さには価値があるし、何よりも健康で体力があるのが羨ましい。とにかく年を取ると身体のあちこちにガタがきて、つらい。できることも限られてきて、私も小説の仕事が無くなったら、どうやって生きていけばいいのかと考えるだけでも憂鬱になる。
私がもっと若くて可愛いかったなら、小説だってたくさんの人に興味を持ってもらえて、影響力がある人たちにちやほやされて、出版社だって顔写真バンバン出して宣伝してくれるかもしれないのになんてたまに思う。
それでも、「若い女」という戦場から降りられることにホッとする。
おばさんだって、容姿のことは常に言われるし、なめられたり、馬鹿にされたりはあるけれど、「おばさんだから」という逃げ道がある。
もう、おばさんなので、人がどう見るか、どう思うかは気にせず、好きなことして生きていようという気持ちが強くなっている。
おばさんという逃げ道にすすむことは、社会から関心を持たれないということかもしれないけれど、それでもいい。
「女の子」の時代は一度もなかった
世の中は、「女子」や「女の子」のカルチャーが溢れていて、私は若い頃から、そこに全く馴染めなかった。「女の子はみんな」と枕言葉をつけられるものは、自分と当てはまらないものばかりだ。
「女子のため」「女の子の」とされるものだらけの中で、おばさんの居場所はどこにあるんだとも考えてしまう。
小説家になってからも、「女子が好きそうな」「女の子が共感する」小説は書けないことを痛感した。
「女子」「女の子」になれなかった自分に、長い間強い劣等感が常にあったけれど、おばさんになったら、それからも少しは解放される気がしている。
「若い女」であるという戦場から降りた先にあるものは、老いと死だ。
身体の衰えと共に、もう時間は限られているのだと思い知る。
おばさんになり、近づいてくる老いと死からは目を逸らすことなどできなくなって、だからこそ、好きにさせて欲しい。
これからは、自由なおばさんとして生きていく。