コロナ禍の長期化でANAとJALの「出血」が止まらない。通期業績見通しは好転せず、赤字幅は過去最大規模となる。航空ジャーナリストの北島幸司氏は「業績が厳しくなると必ずANAとJALの統合論が浮上する。しかし、組織再編にはもう1社エアラインを作るほどの費用がかかる。機材を見ても統合にメリットはない」という――。
2011年ごろJAL経営破綻後伊丹空港のANA機とJAL機 - 筆者撮影
ANAとJALの決定的に異なる体質
1月29日にANAホールディングス、2月1日にJALが2020年4~12月期決算を発表した。ANAは売上高が前年同期比66.7%減の5276億円、営業損益は3624億円の赤字。JALは売上高が前年同期比68%減の3565億円で、EBITは2941億円の赤字となった。
21年3月期の業績見通しも、両社とも厳しい。ANAは3月末まで国内線需要はコロナ禍前の7割、国際線は5割まで回復を前提に、営業赤字が5050億円に上ると想定。前提は崩れつつあるが、通期業績見通しを維持した。
対するJALの業績見通しは、売上高が従来予想比700億~1400億円減の4600億円となるなど、下方修正に追い込まれた。コロナ禍の第3波や、緊急事態宣言の再発出。頼みの綱だった国の「Go Toトラベル」事業の停止がこの要因という。
業績見通しの修正。小さな事象に見えるが私には、ここにANAとJALの体質の決定的な違いがあるのではないかと思えてならない。
コロナによる業績悪化で、ANAとJALの合併論がメディアに飛び交ったが、両者の体質を考えると非現実的な言説であると言える。JALの経営破綻を招いた“JASの悲劇”をぜひ思い出してほしい。
国際線で急拡大したANA
赤字額はANAが勝っている。これは収益の要である国際線の路線数に比例する。創業当初より国際線を運航していたJALと違い、ANAが安定して国際線の収益を上げていったのは2000年以降のことである。
理由はふたつある。ひとつは1998年の日米航空交渉で、JAL、NCA(日本貨物航空)とともにインカンバントキャリア(日米間および以遠区間の路線便数を、制限を受けることなく自由に設定できる航空会社)になったこと。もうひとつは、1999年にスターアライアンスに加盟し、欧米の名だたるエアラインとの共同運航などで多くの新たな目的地を手に入れることができたことだ。この躍進のキーワードが国際線なのだ。
IR統合報告書を基に、2000年以降の両社の規模を示す有償旅客キロ(RPK)で比べた。国際線の輸送量を見てほしい。

米国同時多発テロ(2001年)、SARS流行(2002年)、鳥インフルエンザとイラク戦争(2003年)、リーマンショック(2007年)、新型インフルエンザ(2009年)の逆風でJALは輸送量を半分以下に減らした。ANAは国際線が限定的だったこともあり影響は大きくなかった。
ANAが国際線のシェアを拡大させたのは、JAL経営破綻(2010年)と羽田空港の再国際化(2011年)以降だ。発着枠の優先配分を受けて路線を増やし、2015年に国際線輸送力の首位の座をJALから奪った。ANAの目標は、アジアのリーディングエアラインから「世界のリーディングエアライングループ」に上方修正したのは2014年のことだった。

経営破綻したJALは政府の投資抑制策(8.10ペーパー)で内部留保を増やした。積極的投資ができない分、機材リースを自社保有に変え、借金を減らすことができた。一方のANAはJALに差をつけようと積極的な投資拡大策で高コスト体質になり内部留保は減った。業績は上がり続けるとの錯覚から社内の誰もが過剰投資の警告を発しなかった。ANAの近年の経営方針で後悔があるのであれば、まさにこの部分のことである。
今によみがえる「現在窮乏、将来有望」
コロナ禍となりANAの積極投資は結果的に「過剰投資」になった。これが経営危機を誘発し、JALとの「統合論」が一時メディアを賑(にぎ)わせた。しかし、歴史的な背景を踏まえれば、現実的なものではない。
その理由を探るため、創業時に時計を戻してみたい。今によみがえるのはANAの初代社長の美土路昌一が唱えた「現在窮乏、将来有望」の言葉だ。

ANAは1952年師走、「日本ヘリコプター輸送株式会社」として誕生した。役員と社員30名、ヘリコプター2機を持つだけの小さな会社だった。滑走路を必要としないヘリコプターであれば、薬剤散布や宣伝飛行などで素早く事業を開始できるからだ。
ジャーナリストの早房長治氏は、当時のANAを「中小のタクシー会社並み」と評した。創業以来5年間は赤字が続き、単年度で黒字化したのは1957年3月期。株主配当は10年間無配が続いた。宣伝費を持たないANAが始めたのが、1日機長や1日スチュワーデス。この頃スタートした日赤病院への慰問ですずらんの花を届ける行事は、2020年で65回目を迎え、今でもTVと新聞紙上を賑(にぎ)わしている。